「ジョン・クロスビー (第2代グランドア伯爵)」の版間の差分
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1789年から1801年まで{{仮リンク|アイルランド大法官府裁判所記録長官|en|Master of the Rolls in Ireland}}({{lang|en|Master of the Rolls in Ireland}})の1人を務めた<ref name="Cokayne" />。 |
1789年から1801年まで{{仮リンク|アイルランド大法官府裁判所記録長官|en|Master of the Rolls in Ireland}}({{lang|en|Master of the Rolls in Ireland}})の1人を務めた<ref name="Cokayne" />。 |
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1801年1月8日に[[ロンドン考古協会]]フェローに<ref name="Cokayne" /><ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
1801年1月8日に[[ロンドン考古協会]]フェローに<ref name="Cokayne" /><ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/glandore1776.htm|title=Glandore, Earl of (I, 1776 - 1815)|date=18 June 2006|access-date=1 August 2020}}</ref>、1803年2月24日に[[王立協会フェロー]]に選出された<ref name="FRS">{{FRS|code=NA350|title=Crosbie; John (1752 - 1815); 2nd Earl of Glandore|access-date=1 August 2020}}</ref>。 |
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1815年10月23日に{{仮リンク|アルドフェルト・アビー|en|Ardfert Abbey}}で死去、グランドア伯爵位は廃絶<ref name="Cokayne" />、[[ブランデン男爵]]位は叔父モーリスの息子[[ウィリアム・クロスビー (第4代ブランデン男爵)|ウィリアム]]が継承した。 |
1815年10月23日に{{仮リンク|アルドフェルト・アビー|en|Ardfert Abbey}}で死去、グランドア伯爵位は廃絶<ref name="Cokayne" />、[[ブランデン男爵]]位は叔父モーリスの息子[[ウィリアム・クロスビー (第4代ブランデン男爵)|ウィリアム]]が継承した。 |
2020年12月4日 (金) 05:40時点における版
第2代グランドア伯爵ジョン・クロスビー(英語: John Crosbie, 2nd Earl of Glandore PC (Ire) FRS FSA、1752年5月25日 – 1815年10月23日)は、アイルランド王国出身の貴族、政治家。1776年から1781年までクロスビー子爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
初代グランドア伯爵ウィリアム・クロスビーと1人目の妻セオドシア・ブライ(Theodosia Bligh、1723年頃 – 1777年5月20日、初代ダーンリー伯爵ジョン・ブライの娘)の次男(長男モーリスは1749年に夭折)として、1752年5月25日に生まれた[1]。1768年6月7日ダブリン大学トリニティ・カレッジに入学、1771年にB.A.の学位を、1772年にM.A.の学位を修得した[1]。
1775年から1776年までアスボイ選挙区の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた後、1776年の選挙でアルドフェルト選挙区とトラリー選挙区の両方で当選、前者の代表として1781年まで議員を務めた[2]。
1781年4月11日に父が死去すると、グランドア伯爵位を継承、1782年4月16日にアイルランド貴族院議員に就任した[1]。その後、1785年1月15日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命され、同年から1815年までケリー県首席治安判事を務めた[1]。また、1801年から1815年までアイルランド貴族代表議員を務め、その在任中の1812年にカトリック解放に賛成票を投じた[1]。
1789年から1801年までアイルランド大法官府裁判所記録長官(Master of the Rolls in Ireland)の1人を務めた[1]。
1801年1月8日にロンドン考古協会フェローに[1][3]、1803年2月24日に王立協会フェローに選出された[4]。
1815年10月23日にアルドフェルト・アビーで死去、グランドア伯爵位は廃絶[1]、ブランデン男爵位は叔父モーリスの息子ウィリアムが継承した。
家族
1777年11月26日、ダイアナ・ジャーメイン(Diana Germaine、1756年7月8日 – 1814年8月29日、初代サックヴィル子爵ジョージ・ジャーメインの娘)と結婚した[1]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 659–660.
- ^ "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800". Ulster Historical Foundation (英語). 2020年8月1日閲覧。
- ^ "Glandore, Earl of (I, 1776 - 1815)". Cracroft's Peerage (英語). 18 June 2006. 2020年8月1日閲覧。
- ^ "Crosbie; John (1752 - 1815); 2nd Earl of Glandore". Record (英語). The Royal Society. 2020年8月1日閲覧。
アイルランド議会 | ||
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先代 ウィリアム・ティッグ トマス・ブライ |
庶民院議員(アスボイ選挙区選出) 1775年 – 1776年 同職:ウィリアム・ティッグ |
次代 エドワード・ティッグ ウィリアム・チャップマン |
先代 ランスロット・クロスビー モーリス・コピンジャー |
庶民院議員(アルドフェルト選挙区選出) 1776年 – 1781年 同職:モーリス・コピンジャー |
次代 エドワード・グリードウ モーリス・コピンジャー |
先代 エドワード・デニー ボイル・ロッシュ |
庶民院議員(トラリー選挙区選出) 1776年 同職:ジョン・トラー |
次代 トマス・ロイド ジョン・トラー |
司法職 | ||
先代 リンスター公爵 |
アイルランド大法官府裁判所記録長官 1789年 – 1801年 同職:カリスフォート伯爵 |
次代 サー・マイケル・スミス準男爵 |
アイルランドの爵位 | ||
先代 ウィリアム・クロスビー |
グランドア伯爵 1781年 – 1815年 |
廃絶 |
ブランデン男爵 1781年 – 1815年 |
次代 ウィリアム・クロスビー |