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[[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|トマス・ハワード]]<small>(1561-1626)</small>は{{仮リンク|大蔵卿_(イングランド)|en|Lord_High_Treasurer|label=大蔵卿}}や{{仮リンク|宮内長官|en|Lord_Chamberlain}}を務めた廷臣で、サフォーク伯爵[[ハワード家]]の始祖となった人物である<ref name="dnb">{{cite DNB|wstitle=Howard, Thomas (1561-1626)}}</ref>。彼は1597年に'''ハワード・ド・ウォルデン男爵'''<small>(Baron Howard de Walden)</small>として議会招集を受けて[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に列した<ref name="dnb" /><ref>{{Cite web|title=Suffolk, Earl of (E, 1603)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
[[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|トマス・ハワード]]<small>(1561-1626)</small>は{{仮リンク|大蔵卿_(イングランド)|en|Lord_High_Treasurer|label=大蔵卿}}や{{仮リンク|宮内長官|en|Lord_Chamberlain}}を務めた廷臣で、サフォーク伯爵[[ハワード家]]の始祖となった人物である<ref name="dnb">{{cite DNB|wstitle=Howard, Thomas (1561-1626)}}</ref>。彼は1597年に'''ハワード・ド・ウォルデン男爵'''<small>(Baron Howard de Walden)</small>として議会招集を受けて[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に列した<ref name="dnb" /><ref>{{Cite web|title=Suffolk, Earl of (E, 1603)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/suffolk1603.htm|website=www.cracroftspeerage.co.uk|accessdate=2020-05-30}}</ref><ref name=":0">{{Cite book|title=Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc|url=http://archive.org/details/debrettspeeraget00unse/page/488|publisher=London, Dean|date=1921|others=Wellesley College Library|year=|editor=Arthur G.M. Hesilrige|page=488}}</ref>。トマスはさらに1603年に'''サフォーク伯爵'''<small>(Earl of Suffolk)</small>へと昇叙したため、男爵位は伯爵位の従属爵位となった。 |
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その孫にあたる3代伯[[ジェームズ・ハワード (第3代サフォーク伯爵)|ジェームズ]]<small>(1619-1689)</small>が男子のないまま死去すると、サフォーク伯位は弟[[ジョージ・ハワード (第4代サフォーク伯爵)|ジョージ]]に継承された<ref name="Burke">{{Cite book2|title=Burke's Peerage, Baronetage and Knightage|edition=99th|year=1949|location=London|publisher=Burke's Peerage Limited|page=1938|language=en|url=https://archive.org/details/burkesgenealogic1949unse/page/1938}}</ref>。一方で、男爵位は議会招集によって成立した爵位であり女系継承も可能であるため、3代伯の2人の娘(エセックスとエリザベス)間で優劣がつかず[[停止 (爵位)|爵位停止]]となった<ref name=":0" /><ref name="Burke" />。 |
その孫にあたる3代伯[[ジェームズ・ハワード (第3代サフォーク伯爵)|ジェームズ]]<small>(1619-1689)</small>が男子のないまま死去すると、サフォーク伯位は弟[[ジョージ・ハワード (第4代サフォーク伯爵)|ジョージ]]に継承された<ref name="Burke">{{Cite book2|title=Burke's Peerage, Baronetage and Knightage|edition=99th|year=1949|location=London|publisher=Burke's Peerage Limited|page=1938|language=en|url=https://archive.org/details/burkesgenealogic1949unse/page/1938}}</ref>。一方で、男爵位は議会招集によって成立した爵位であり女系継承も可能であるため、3代伯の2人の娘(エセックスとエリザベス)間で優劣がつかず[[停止 (爵位)|爵位停止]]となった<ref name=":0" /><ref name="Burke" />。 |
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[[ファイル:Vigée_le_Brun_Lord_Bristol.jpg|サムネイル|215x215ピクセル|5代男爵となった[[フレデリック・ハーヴィー (第4代ブリストル伯爵)|第4代ブリストル伯爵]]]] |
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その姉エセックスの曾孫{{仮リンク|ジョン・グリフィン_(第4代ハワード・ド・ウォルデン男爵)|en|John_Griffin,_4th_Baron_Howard_de_Walden|label=ジョン・グリフィン}}陸軍元帥<small>(1719-1797)</small>は[[オーストリア継承戦争]]や[[七年戦争]]を戦った軍人で、[[コルバッハの戦い]]や[[ヴァールブルクの戦い|ヴァールブルグの戦い]]を指揮した<ref name=":1">{{cite DNB|wstitle=Griffin,_John_Griffin|first=Edward|last=Rapson|authorlink=Edward James Rapson|volume=23|page=277}}</ref><ref>{{Cite web|title=Griffin [formerly Whitwell], John Griffin, fourth Baron Howard de Walden and first Baron Braybrooke (1719–1797), army officer and politician|url=https://www.oxforddnb.com/view/10.1093/ref:odnb/9780198614128.001.0001/odnb-9780198614128-e-11589;jsessionid=67BAAE5F888A30907908C76840256A97?docPos=3|website=Oxford Dictionary of National Biography|accessdate=2020-05-30|doi=10.1093/ref:odnb/9780198614128.001.0001/odnb-9780198614128-e-11589;jsessionid=67baae5f888a30907908c76840256a97|language=en}}</ref>。彼は1784年8月8日の貴族院決議によって、かねてより請願していた男爵位の回復を果たした<ref name=":1" /><ref>{{LondonGazette|issue=12566|date=3 August 1784|page=2|accessdate=2020-05-30}}</ref>。また、グリフィンは1788年にも[[グレートブリテン貴族]]として'''ノーサンプトン州ブレイブルックの{{仮リンク|ブレイブルック男爵|en|Baron_Braybrooke}}'''<small>(Baron Braybrooke, of Braybrooke in the County of Northampton)</small>に叙された<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite web|title=Howard de Walden, Baron (E, 1597)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
その姉エセックスの曾孫{{仮リンク|ジョン・グリフィン_(第4代ハワード・ド・ウォルデン男爵)|en|John_Griffin,_4th_Baron_Howard_de_Walden|label=ジョン・グリフィン}}陸軍元帥<small>(1719-1797)</small>は[[オーストリア継承戦争]]や[[七年戦争]]を戦った軍人で、[[コルバッハの戦い]]や[[ヴァールブルクの戦い|ヴァールブルグの戦い]]を指揮した<ref name=":1">{{cite DNB|wstitle=Griffin,_John_Griffin|first=Edward|last=Rapson|authorlink=Edward James Rapson|volume=23|page=277}}</ref><ref>{{Cite web|title=Griffin [formerly Whitwell], John Griffin, fourth Baron Howard de Walden and first Baron Braybrooke (1719–1797), army officer and politician|url=https://www.oxforddnb.com/view/10.1093/ref:odnb/9780198614128.001.0001/odnb-9780198614128-e-11589;jsessionid=67BAAE5F888A30907908C76840256A97?docPos=3|website=Oxford Dictionary of National Biography|accessdate=2020-05-30|doi=10.1093/ref:odnb/9780198614128.001.0001/odnb-9780198614128-e-11589;jsessionid=67baae5f888a30907908c76840256a97|language=en}}</ref>。彼は1784年8月8日の貴族院決議によって、かねてより請願していた男爵位の回復を果たした<ref name=":1" /><ref>{{LondonGazette|issue=12566|date=3 August 1784|page=2|accessdate=2020-05-30}}</ref>。また、グリフィンは1788年にも[[グレートブリテン貴族]]として'''ノーサンプトン州ブレイブルックの{{仮リンク|ブレイブルック男爵|en|Baron_Braybrooke}}'''<small>(Baron Braybrooke, of Braybrooke in the County of Northampton)</small>に叙された<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite web|title=Howard de Walden, Baron (E, 1597)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/howardw1597.htm|website=www.cracroftspeerage.co.uk|accessdate=2020-05-30}}</ref><ref>{{LondonGazette|issue=13020|date=26 August 1788|page=413|accessdate=2020-05-30}}</ref>。しかし彼には子がなかったため、元帥の妹メアリー・ホイットウェル<small>(1728-1799)</small>と3代伯の娘のうち妹エリザベスの子孫である{{仮リンク|フレデリック・ハーヴィー_(第4代ブリストル伯爵)|en|Frederick_Hervey,_4th_Earl_of_Bristol|label=フレデリック・ハーヴィー}}との間で再び保持者不在となった{{#tag:ref|ブレイブルック男爵位は特別継承権に基づいて、親族のリチャードが相続してその子孫が現在に至っている。|group="註釈"}}<ref name=":2" />。 |
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その後、メアリーが1799年に子のないまま亡くなると、フレデリック・ハーヴィーが継承者に確定、停止は解除されるとともに、彼の子孫のみが男爵位の相続権者となることも定まった<ref name=":2" /><ref name="burke">{{cite book|title=Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood|publisher=Burke's Peerage & Gentry|editor=Mosley, Charles|edition=107|year=2003|page=3555|pages=|ref=Burke|isbn=0-9711966-2-1|date=|volume=3}}</ref>。 |
その後、メアリーが1799年に子のないまま亡くなると、フレデリック・ハーヴィーが継承者に確定、停止は解除されるとともに、彼の子孫のみが男爵位の相続権者となることも定まった<ref name=":2" /><ref name="burke">{{cite book|title=Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood|publisher=Burke's Peerage & Gentry|editor=Mosley, Charles|edition=107|year=2003|page=3555|pages=|ref=Burke|isbn=0-9711966-2-1|date=|volume=3}}</ref>。 |
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6代男爵チャールズ<small>(1799-1868)</small>は1845年に父から'''シーフォード男爵'''を相続したため、2つの男爵位は統合されるに至った。彼は妻ルーシー([[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンク (第4代ポートランド公爵)|第4代ポートランド公爵]]の娘)を通じて[[ポートランド伯爵|ポートランド公爵家]]の有したロンドンの一等地メリルボーンの地所を相続、男爵家に莫大な資産がもたらされた<ref name=":3">{{Cite web|title=ロンドンの一等地を握る英国貴族4つの名家 - 英国ニュース、求人、イベント、コラム、レストラン、ロンドン・イギリス情報誌 - 英国ニュースダイジェスト|url=http://www.news-digest.co.uk/news/features/2766-four-distinguished-families-in-london.html|website=www.news-digest.co.uk|accessdate=2020-05-30}}</ref>。 |
6代男爵チャールズ<small>(1799-1868)</small>は1845年に父から'''シーフォード男爵'''を相続したため、2つの男爵位は統合されるに至った。彼は妻ルーシー([[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンク (第4代ポートランド公爵)|第4代ポートランド公爵]]の娘)を通じて[[ポートランド伯爵|ポートランド公爵家]]の有したロンドンの一等地メリルボーンの地所を相続、男爵家に莫大な資産がもたらされた<ref name=":3">{{Cite web|title=ロンドンの一等地を握る英国貴族4つの名家 - 英国ニュース、求人、イベント、コラム、レストラン、ロンドン・イギリス情報誌 - 英国ニュースダイジェスト|url=http://www.news-digest.co.uk/news/features/2766-four-distinguished-families-in-london.html|website=www.news-digest.co.uk|accessdate=2020-05-30}}</ref>。 |
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その曾孫にあたる9代男爵ジョン<small>(1912-1999)</small>が男子なく死去すると、シーフォード男爵は親族のコリンに継承された<ref>{{Cite web|title=Seaford, Baron (UK, 1826)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
その曾孫にあたる9代男爵ジョン<small>(1912-1999)</small>が男子なく死去すると、シーフォード男爵は親族のコリンに継承された<ref>{{Cite web|title=Seaford, Baron (UK, 1826)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/seaford1826.htm|website=www.cracroftspeerage.co.uk|accessdate=2020-05-30}}</ref>。他方、男爵位はジョンの4人の娘間で三度[[停止 (爵位)|爵位停止]]となったが、熾烈な相続争いを制した長女メアリー・ヘイゼル・ツェルニンが2004年に爵位の停止解除を受けるとともに莫大な地所を相続した<ref name=":2" /><ref name=":3" /><ref>{{Cite web|title=Crown Office 14 July 2004|url=https://www.thegazette.co.uk/notice/L-57353-1003|website=www.thegazette.co.uk|accessdate=2020-05-30|publisher=The Gazette offcial public record}}</ref>。 |
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その10代女男爵メアリー<small>(1935-)</small>は{{仮リンク|ハワード・ド・ウォルデン・エステート|en|Howard_de_Walden_Estate}}を率いてメリルボーンの地所を握っており、その地所は92エーカー、グループの資産は推定46億ポンドにのぼるという<ref name=":3" />。 |
その10代女男爵メアリー<small>(1935-)</small>は{{仮リンク|ハワード・ド・ウォルデン・エステート|en|Howard_de_Walden_Estate}}を率いてメリルボーンの地所を握っており、その地所は92エーカー、グループの資産は推定46億ポンドにのぼるという<ref name=":3" />。 |
2020年12月4日 (金) 05:39時点における版
ハワード・ド・ウォルデン男爵(英: Baron Howard de Walden)は、イギリスの男爵、貴族。イングランド貴族爵位。ノーフォーク公爵家分家たるサフォーク伯爵家の祖トマス・ハワードが1597年に叙位されたことに始まる。幾度もの女系継承と保持者不在に陥りつつも、2004年以降はツェルニン家によって停止解除ののち現在に至っている。
男爵家は1879年以降、相続によってロンドンの一等地メリルボーン地区(ハーレー・ストリートやハイ・ストリート周辺)の地所を握っており、ゆえに英国屈指の資産家である。
歴史
トマス・ハワード(1561-1626)は大蔵卿や宮内長官を務めた廷臣で、サフォーク伯爵ハワード家の始祖となった人物である[1]。彼は1597年にハワード・ド・ウォルデン男爵(Baron Howard de Walden)として議会招集を受けて貴族院に列した[1][2][3]。トマスはさらに1603年にサフォーク伯爵(Earl of Suffolk)へと昇叙したため、男爵位は伯爵位の従属爵位となった。
その孫にあたる3代伯ジェームズ(1619-1689)が男子のないまま死去すると、サフォーク伯位は弟ジョージに継承された[4]。一方で、男爵位は議会招集によって成立した爵位であり女系継承も可能であるため、3代伯の2人の娘(エセックスとエリザベス)間で優劣がつかず爵位停止となった[3][4]。
その姉エセックスの曾孫ジョン・グリフィン陸軍元帥(1719-1797)はオーストリア継承戦争や七年戦争を戦った軍人で、コルバッハの戦いやヴァールブルグの戦いを指揮した[5][6]。彼は1784年8月8日の貴族院決議によって、かねてより請願していた男爵位の回復を果たした[5][7]。また、グリフィンは1788年にもグレートブリテン貴族としてノーサンプトン州ブレイブルックのブレイブルック男爵(Baron Braybrooke, of Braybrooke in the County of Northampton)に叙された[3][8][9]。しかし彼には子がなかったため、元帥の妹メアリー・ホイットウェル(1728-1799)と3代伯の娘のうち妹エリザベスの子孫であるフレデリック・ハーヴィーとの間で再び保持者不在となった[註釈 1][8]。
その後、メアリーが1799年に子のないまま亡くなると、フレデリック・ハーヴィーが継承者に確定、停止は解除されるとともに、彼の子孫のみが男爵位の相続権者となることも定まった[8][10]。
1803年にその5代男爵フレデリック(1730-1803)[註釈 2]が死去した際、彼には次男とその孫息子が存命であったにもかかわらず、長男の女系の孫息子にあたるチャールズ・エリス(シーフォード男爵家嫡男)に男爵位が帰属する形となった[3][8]。
6代男爵チャールズ(1799-1868)は1845年に父からシーフォード男爵を相続したため、2つの男爵位は統合されるに至った。彼は妻ルーシー(第4代ポートランド公爵の娘)を通じてポートランド公爵家の有したロンドンの一等地メリルボーンの地所を相続、男爵家に莫大な資産がもたらされた[11]。
その曾孫にあたる9代男爵ジョン(1912-1999)が男子なく死去すると、シーフォード男爵は親族のコリンに継承された[12]。他方、男爵位はジョンの4人の娘間で三度爵位停止となったが、熾烈な相続争いを制した長女メアリー・ヘイゼル・ツェルニンが2004年に爵位の停止解除を受けるとともに莫大な地所を相続した[8][11][13]。
その10代女男爵メアリー(1935-)はハワード・ド・ウォルデン・エステートを率いてメリルボーンの地所を握っており、その地所は92エーカー、グループの資産は推定46億ポンドにのぼるという[11]。
現当主の保有爵位
現当主である第10代ハワード・ド・ウォルデン女男爵メアリー・ヘイゼル・カリドウェン・ツェルニンは、以下の爵位を有する[8]。
ハワード・ド・ウォルデン男爵(1597年)
- 初代ハワード・ド・ウォルデン男爵(初代サフォーク伯爵)トマス・ハワード (1561–1626)
- 第2代ハワード・ド・ウォルデン男爵(第2代サフォーク伯爵)セオフィラス・ハワード (1584–1640)
- 第3代ハワード・ド・ウォルデン男爵(第3代サフォーク伯爵)ジェームズ・ハワード (1619–1689) (1689年に爵位停止)
- 第4代ハワード・ド・ウォルデン男爵ジョン・グリフィン・グリフィン (1719–1797) (great-grandson)
(1784年に停止解除なるも、1797年に再び爵位停止)
- 第5代ハワード・ド・ウォルデン男爵(第4代ブリストル伯爵)フレデリック・ハーヴィー(1730–1803)
(1799年に継承確定して停止解除)
- 第6代ハワード・ド・ウォルデン男爵(第2代シーフォード男爵)チャールズ・オーガスタス・エリス (1799–1868)
- 第7代ハワード・ド・ウォルデン男爵(第3代シーフォード男爵)フレデリック・ジョージ・エリス (1830–1899)
- 第8代ハワード・ド・ウォルデン男爵(第4代シーフォード男爵)トマス・イヴリン・スコット=エリス (1880–1946)
- 第9代ハワード・ド・ウォルデン男爵(第5代シーフォード男爵)ジョン・オズマエル・スコット=エリス(1912–1999) (1999年に3度目の爵位停止)
- 第10代ハワード・ド・ウォルデン女男爵メアリー・ヘイゼル・カリドウェン・ツェルニン (1935-) (2004年に停止解除)[14]
爵位の法定推定相続人は、現当主の息子であるピーター・ジョン・ジョセフ・ツェルニン閣下(1966-)。
法定推定相続人の法定推定相続人は、その息子であるアレクサンダー・ジョン・ピーター・ツェルニン(1999-)。
脚注
註釈
- ^ ブレイブルック男爵位は特別継承権に基づいて、親族のリチャードが相続してその子孫が現在に至っている。
- ^ フレデリックは男爵位を継承する20年前に父より爵位を継承、第4代ブリストル伯爵となっていた。彼の死後は、存命の次男が伯爵を相続し、この次男がブリストル侯爵に叙されて現在に至っている。
出典
- ^ a b Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900. .
- ^ “Suffolk, Earl of (E, 1603)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年5月30日閲覧。
- ^ a b c d Arthur G.M. Hesilrige, ed (1921). Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc. Wellesley College Library. London, Dean. p. 488
- ^ a b Burke's Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (99th ed.). London: Burke's Peerage Limited. 1949. p. 1938.
- ^ a b Rapson, Edward (1890). . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 23. London: Smith, Elder & Co. p. 277.
- ^ “Griffin [formerly Whitwell, John Griffin, fourth Baron Howard de Walden and first Baron Braybrooke (1719–1797), army officer and politician]” (英語). Oxford Dictionary of National Biography. doi:10.1093/ref:odnb/9780198614128.001.0001/odnb-9780198614128-e-11589;jsessionid=67baae5f888a30907908c76840256a97. 2020年5月30日閲覧。
- ^ "No. 12566". The London Gazette (英語). 3 August 1784. p. 2. 2020年5月30日閲覧。
- ^ a b c d e f “Howard de Walden, Baron (E, 1597)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年5月30日閲覧。
- ^ "No. 13020". The London Gazette (英語). 26 August 1788. p. 413. 2020年5月30日閲覧。
- ^ Mosley, Charles, ed (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood. 3 (107 ed.). Burke's Peerage & Gentry. p. 3555. ISBN 0-9711966-2-1
- ^ a b c “ロンドンの一等地を握る英国貴族4つの名家 - 英国ニュース、求人、イベント、コラム、レストラン、ロンドン・イギリス情報誌 - 英国ニュースダイジェスト”. www.news-digest.co.uk. 2020年5月30日閲覧。
- ^ “Seaford, Baron (UK, 1826)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年5月30日閲覧。
- ^ “Crown Office 14 July 2004”. www.thegazette.co.uk. The Gazette offcial public record. 2020年5月30日閲覧。
- ^ Journals of the House of Lords, vol. 237, p. 670: "Barony of Howard De Walden – The Lord Chancellor reported that Her Majesty had been pleased to determine the abeyance in the Barony of Howard De Walden, created by Writ in the year 1597, in favour of Mary Hazel Caridwen Czernin."