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「アークロー男爵」の版間の差分

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1801年、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]<small>(1738-1820)</small>の六男[[オーガスタス・フレデリック (サセックス公)|オーガスタス・フレデリック王子]]<small>(1773-1843)</small>は'''アークロー男爵'''、'''[[インヴァネス伯爵]]'''、'''[[サセックス公爵]]'''に叙された<ref>{{London Gazette|issue=15429|page=1403|date=24 November 1801}}</ref>。しかし、2度の結婚ともに{{仮リンク|1772年王室結婚法|en|Royal Marriages Act 1772}}で無効とされたため、嫡出子がおらず、1843年4月21日にオーガスタス・フレデリック王子が死去したことに伴い爵位は廃絶した<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1896|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T)|volume=7|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|page=340|url=https://archive.org/details/completepeerage07cokahrish/page/n341}}</ref>。
1801年、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]<small>(1738-1820)</small>の六男[[オーガスタス・フレデリック (サセックス公)|オーガスタス・フレデリック王子]]<small>(1773-1843)</small>は'''アークロー男爵'''、'''[[インヴァネス伯爵]]'''、'''[[サセックス公爵]]'''に叙された<ref>{{London Gazette|issue=15429|page=1403|date=24 November 1801}}</ref>。しかし、2度の結婚ともに{{仮リンク|1772年王室結婚法|en|Royal Marriages Act 1772}}で無効とされたため、嫡出子がおらず、1843年4月21日にオーガスタス・フレデリック王子が死去したことに伴い爵位は廃絶した<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1896|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T)|volume=7|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|page=340|url=https://archive.org/details/completepeerage07cokahrish/page/n341}}</ref>。


1881年5月24日、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]<small>(1819-1901)</small>の四男[[レオポルド (オールバニ公)|レオポルド王子]]<small>(1853-1884)</small>は'''アークロー男爵'''、'''クラレンス伯爵'''、'''[[オールバニ公爵]]'''に叙された<ref>{{London Gazette|issue=24977|page=2677|date=24 May 1881}}</ref>。1884年にレオポルド王子が死去すると、息子[[カール・エドゥアルト (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|チャールズ・エドワード]]が爵位を継承したが、1919年3月28日には{{仮リンク|1917年称号剥奪法|en|Titles Deprivation Act 1917}}に基づく国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の命令により爵位を剥奪された<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Albany, Duke of (UK, 1881 - 1919)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/index635.htm|accessdate=23 December 2019}}</ref>。『クラクロフト貴族名鑑』によると、チャールズ・エドワードの息子[[ヨハン・レオポルト・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ|ヨハン・レオポルト]]<small>(1906-1972)</small>の息子{{仮リンク|エルンスト・レオポルト・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ|en|Ernst Leopold Prinz von Sachsen-Coburg und Gotha|label=エルンスト・レオポルト}}<small>(1935-1996)</small>の息子{{仮リンク|フベルトゥス・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ|en|Hubertus Prinz von Sachsen-Coburg und Gotha|label=フベルトゥス}}<small>(1961-)</small>は1917年称号剥奪法第2条に基づき、オールバニ公爵の回復を求めることができる<ref name="Cracroft" />。ヨハン・レオポルドの[[貴賤結婚]]により、彼の子孫はザクセン=コーブルク=ゴータ公爵家の家長になれなかったが、オールバニ公爵への請求権には影響しなかったという<ref name="Cracroft" />。
1881年5月24日、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]<small>(1819-1901)</small>の四男[[レオポルド (オールバニ公)|レオポルド王子]]<small>(1853-1884)</small>は'''アークロー男爵'''、'''クラレンス伯爵'''、'''[[オールバニ公爵]]'''に叙された<ref>{{London Gazette|issue=24977|page=2677|date=24 May 1881}}</ref>。1884年にレオポルド王子が死去すると、息子[[カール・エドゥアルト (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|チャールズ・エドワード]]が爵位を継承したが、1919年3月28日には{{仮リンク|1917年称号剥奪法|en|Titles Deprivation Act 1917}}に基づく国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の命令により爵位を剥奪された<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Albany, Duke of (UK, 1881 - 1919)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/index635.htm|accessdate=23 December 2019}}</ref>。『クラクロフト貴族名鑑』によると、チャールズ・エドワードの息子[[ヨハン・レオポルト・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ|ヨハン・レオポルト]]<small>(1906-1972)</small>の息子{{仮リンク|エルンスト・レオポルト・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ|en|Ernst Leopold Prinz von Sachsen-Coburg und Gotha|label=エルンスト・レオポルト}}<small>(1935-1996)</small>の息子{{仮リンク|フベルトゥス・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ|en|Hubertus Prinz von Sachsen-Coburg und Gotha|label=フベルトゥス}}<small>(1961-)</small>は1917年称号剥奪法第2条に基づき、オールバニ公爵の回復を求めることができる<ref name="Cracroft" />。ヨハン・レオポルドの[[貴賤結婚]]により、彼の子孫はザクセン=コーブルク=ゴータ公爵家の家長になれなかったが、オールバニ公爵への請求権には影響しなかったという<ref name="Cracroft" />。


== アークロー男爵(第1期、1801年) ==
== アークロー男爵(第1期、1801年) ==

2020年12月4日 (金) 05:37時点における最新版

サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子、1798年。

アークロー男爵(アークローだんしゃく、英語: Baron Arklow)は、イギリス男爵位。連合王国貴族として2度創設され、2度とも従属爵位だった。

歴史

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オールバニ公爵レオポルド王子、1882年。

1801年、ジョージ3世(1738-1820)の六男オーガスタス・フレデリック王子(1773-1843)アークロー男爵インヴァネス伯爵サセックス公爵に叙された[1]。しかし、2度の結婚ともに1772年王室結婚法英語版で無効とされたため、嫡出子がおらず、1843年4月21日にオーガスタス・フレデリック王子が死去したことに伴い爵位は廃絶した[2]

1881年5月24日、ヴィクトリア女王(1819-1901)の四男レオポルド王子(1853-1884)アークロー男爵クラレンス伯爵オールバニ公爵に叙された[3]。1884年にレオポルド王子が死去すると、息子チャールズ・エドワードが爵位を継承したが、1919年3月28日には1917年称号剥奪法に基づく国王ジョージ5世の命令により爵位を剥奪された[4]。『クラクロフト貴族名鑑』によると、チャールズ・エドワードの息子ヨハン・レオポルト(1906-1972)の息子エルンスト・レオポルト英語版(1935-1996)の息子フベルトゥス英語版(1961-)は1917年称号剥奪法第2条に基づき、オールバニ公爵の回復を求めることができる[4]。ヨハン・レオポルドの貴賤結婚により、彼の子孫はザクセン=コーブルク=ゴータ公爵家の家長になれなかったが、オールバニ公爵への請求権には影響しなかったという[4]

アークロー男爵(第1期、1801年)

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アークロー男爵(第2期、1881年)

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出典

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  1. ^ "No. 15429". The London Gazette (英語). 24 November 1801. p. 1403.
  2. ^ Cokayne, George Edward, ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 340.
  3. ^ "No. 24977". The London Gazette (英語). 24 May 1881. p. 2677.
  4. ^ a b c "Albany, Duke of (UK, 1881 - 1919)". Cracroft's Peerage (英語). 2019年12月23日閲覧