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「トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
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[[イプスウィッチ]]と[[セットフォード]]の[[グラマー・スクール]]で学ぶ<ref name="thepeerage">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p10299.htm#i102981|title= Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk|accessdate= 2016-06-19 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。

2020年12月4日 (金) 05:05時点における版

第2代ノーフォーク公
トマス・ハワード
Thomas Howard
2nd Duke of Norfolk
ノーフォーク公ハワード家
続柄 先代の長男

称号 第2代ノーフォーク公爵、初代サリー伯爵ガーター勲章勲爵士(KG)
敬称 Your Grace(公爵閣下)
出生 1443年
イングランド王国の旗 イングランド王国 サフォークストック=バイ=ネイランド英語版
死去 1524年5月21日
イングランド王国の旗 イングランド王国 サフォークフラムリンガム城英語版
配偶者 エリザベス・ティルニー英語版
  アグネス・ティルニー英語版
子女 家族参照
父親 初代ノーフォーク公ジョン・ハワード
母親 キャサリン・ド・モリンズ
役職 大蔵卿英語版(1501-1522)、軍務伯(1509-1524)、庶民院議員、貴族院議員
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第2代ノーフォーク公爵トマス・ハワード英語: Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk, KG, PC1443年 - 1524年5月21日)は、イングランドの貴族、廷臣

初代ノーフォーク公ジョン・ハワードの長男。1485年ボズワースの戦いの敗北で一時投獄されたが、後に釈放されてヘンリー7世ヘンリー8世に仕えた。1513年フロドンの戦い英語版でスコットランド王ジェイムズ4世を討ち取る大勝をしたことで1514年にノーフォーク公に復権を果たした。

エリザベス1世の生母アン・ブーリンの母エリザベス・ブーリンの父である。         

生涯

1443年に後に初代ノーフォーク公に叙されるジョン・ハワードとその妻キャサリン・ド・モリンズの間の長男としてサフォークストック=バイ=ネイランド英語版に生まれる[1][2]

イプスウィッチセットフォードグラマー・スクールで学ぶ[3]

1466年頃にはエドワード4世の従者(yeoman)となる[3]1471年バーネットの戦いに参加[3]1476年にはノーフォークサフォークシェリフに就任[1][3]1478年にはノーフォーク選挙区英語版選出の庶民院議員を務めた[1][3]

1483年6月28日に父がノーフォーク公爵に叙されると同時に彼もサリー伯爵に叙された。1483年から1485年にかけて枢密顧問官を務めた[1][3]。1483年から1484年にかけては王室家政官(Steward of the Household)となる[1][3]

父ノーフォーク公とともに1485年5月のボズワースの戦いに国王リチャード3世側で参加したが、父とリチャード3世は敗死し、彼も捕虜となった。勝者のヘンリー7世が即位した後の同年11月の議会で私権剥奪され、サリー伯爵位を奪われた[4]。さらに1489年までロンドン塔で獄中生活を送ることになった[4]

彼は「ハワード家はリチャード3世に忠誠を尽くしたのではなく、イングランド王冠に忠誠を尽くした。王冠の下の人物が変わっても王冠に対する忠誠心は変わらない」と訴えていた。その訴えは王位が不安定で有力貴族の支持を欲していたヘンリー7世の心をとらえたようだった[5]。1489年1月には釈放され[4]、同年中にサリー伯爵位について私権剥奪が解除された[1][3]

以降ヘンリー7世とヘンリー8世の宮廷に仕えるようになった。1497年の初めにはサリー伯とイングランドの軍勢は、イングランド北東部ダラム管区の拠点であるノーサンバーランドのノーハム城でスコットランドの攻撃を撃退した。1503年のスコットランドとの和平条約の条件としてジェームズ4世に嫁いだマーガレット王妃の花嫁行列を指揮し、スコットランドまで付き添った。

1501年に再び枢密顧問官となる。同年から1522年にかけては大蔵卿英語版1509年から死去まで軍務伯を務めた[1][3]

1513年ヘンリー8世外征中のスキをついて4万のスコットランド軍がイングランドに侵攻してきた際にサリー伯は息子とともに2万6000の兵を率いて出陣し、フロドンの戦い英語版でスコットランド王ジェイムズ4世を敗死させた[6]

この戦功で1514年に父のノーフォーク公爵位を復活させることが認められ、第2代ノーフォーク公爵となった[4]

その後もヘンリー8世の信任は厚く、1520年金襴の陣では、ヘンリー8世が王妃を連れて国を離れたため、国務を任された。

1524年5月21日サフォークフラムリンガム城英語版にて死去[3]。爵位は長男トマスが継いだ[1][3]。長女エリザベスは外交官トマス・ブーリンに嫁ぎ、アン・ブーリンを産んだ[1]

栄典

爵位

1483年6月28日に以下の爵位を新規に与えられた[1][3]

1485年に私権剥奪[1][3]1489年にサリー伯爵位を回復[1][3]

1514年2月1日に父ジョン・ハワードが保持していた以下の爵位の継承を認められた[1][3]

なお同日にサリー伯位は長男トマス・ハワードが継承した[1][7]

勲章

家族

1472年フレデリック・ティルニー英語版の娘エリザベス・ティルニー英語版と結婚。彼女との間に以下の4男2女を儲けた[1]

1497年にエリザベスと死別。ただちにヒュー・ティルニーの娘アグネス・ティルニー英語版と再婚した。彼女との間に以下の2男4女を儲けた[1]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月19日閲覧。
  2. ^ Lundy, Darryl. “John Howard, 1st Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2016年6月19日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2016年6月19日閲覧。
  4. ^ a b c d 海保眞夫 1999, p. 209.
  5. ^ 森護 1987, p. 25-26.
  6. ^ 海保眞夫 1999, p. 166.
  7. ^ Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2016年6月20日閲覧。

参考文献

  • 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社平凡社新書020〉、1999年。ISBN 978-4582850208 
  • 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478 
公職
先代
初代ディナム男爵英語版
大蔵卿英語版
1501年1522年
次代
第3代ノーフォーク公
先代
ヨーク公
軍務伯
1509年-1524年
イングランドの爵位
先代
ジョン・ハワード
第2代ノーフォーク公爵
第3期

1514年-1524年
次代
トマス・ハワード
爵位創設 初代サリー伯爵
第3期

1483年1485年剥奪
1489年回復-1514年
次代
トマス・ハワード