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[[1420年]]から[[1430年]]頃、サー・ロバート・ハワードとその妻マーガレット(初代ノーフォーク公爵[[トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)|トマス・モウブレー]]の娘)の一人息子として生まれた<ref name="CP DN">{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/norfolk1483.htm|title=Norfolk, Duke of (E, 1483)|accessdate=2016-02-13|last=Heraldic Media Limited|work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110823031400/http://www.cracroftspeerage.co.uk/Norfolk1483.htm|archivedate=2011年8月23日|deadurldate=2017年9月}}</ref><ref name="thepeerage">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p338.htm#i3380|title= John Howard, 1st Duke of Norfolk|accessdate= 2016-02-13 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=522}}。 |
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[[1452年]]から[[1453年]]にかけて初代[[シュルーズベリー伯爵]][[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|ジョン・タルボット]]のガスコーニュ遠征軍に従軍し、[[百年戦争]]最後の戦いである[[カスティヨンの戦い]]に参戦した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=522}}。 |
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[[1483年]]の[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]の退位問題の際には追い落とす側の[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]を支持したため、その功で同年6月[[ノーフォーク公]]に叙せられた。臣民への公爵位授与は彼が最初であった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=522-523}}{{sfn|森護|1987|p=6/24-25}}。また[[軍務伯]]、{{仮リンク|海軍卿 (イングランド)|label=海軍卿|en|Lord High Admiral of England}}などの重職に任じられている{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=522}}。さらに[[1484年]]頃には貴族院の決定により母方のモウブレー家から{{仮リンク|議会招集令状|en|Writ of summons<!-- 曖昧さ回避ページ -->|FIXME=1}}による爵位(男子がなく女子のみある場合に姉妹間に優劣がない女系継承が可能)である[[モウブレー男爵]]と[[セグレイヴ男爵]]を継承した<ref name="CP BM">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/mowbray1283.htm|title=Mowbray, Baron (E, 1283 or 1640)|accessdate= 2016-02-13 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。 |
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しかし、[[1485年]][[5月22日]]の[[ボズワースの戦い]]でリチャード3世と共に戦死した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=523}}{{sfn|森護|1987|p=25}}。テッドフォードの小修道院に埋葬されたが、後の[[宗教改革]]の際にどこか(恐らくフラムリンガム教会の孫・[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の墓所だろう)に移葬されてしまった。彼の墓所は分からなくなってしまったが、最初の妻キャサリン・モリンズの真鍮記念碑だけは今でも[[サフォーク]]で見る事ができる。 |
しかし、[[1485年]][[5月22日]]の[[ボズワースの戦い]]でリチャード3世と共に戦死した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=523}}{{sfn|森護|1987|p=25}}。テッドフォードの小修道院に埋葬されたが、後の[[宗教改革]]の際にどこか(恐らくフラムリンガム教会の孫・[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の墓所だろう)に移葬されてしまった。彼の墓所は分からなくなってしまったが、最初の妻キャサリン・モリンズの真鍮記念碑だけは今でも[[サフォーク]]で見る事ができる。 |
2020年12月4日 (金) 05:03時点における版
初代ノーフォーク公 ジョン・ハワード John Howard 1st Duke of Norfolk | |
---|---|
ノーフォーク公ハワード家 | |
称号 | 初代ノーフォーク公爵、初代ハワード男爵、第12代モウブレー男爵、第13代セグレイヴ男爵、ガーター勲章勲爵士(KG) |
敬称 | Your Grace(公爵閣下) |
出生 |
1425年頃 |
死去 |
1485年8月22日 |
配偶者 | キャサリン・モリンズ |
マーガレット・チェドワース | |
子女 | 家族参照 |
父親 | サー・ロバート・ハワード |
母親 | マーガレット・モウブレー |
役職 | 海軍卿(1483-1485)、軍務伯(1483-1485)、庶民院議員(1455)、貴族院議員 |
初代ノーフォーク公ジョン・ハワード(英語: John Howard, 1st Duke of Norfolk, KG、1425年頃 - 1485年8月22日)は、イングランドの貴族、廷臣。
リチャード3世を支持して1483年にノーフォーク公爵に叙せられたが、1485年にはリチャード3世ともどもボズワースの戦いで敗死した。ノーフォーク公爵ハワード家の祖にあたる。
経歴
1420年から1430年頃、サー・ロバート・ハワードとその妻マーガレット(初代ノーフォーク公爵トマス・モウブレーの娘)の一人息子として生まれた[1][2][3]。
1452年から1453年にかけて初代シュルーズベリー伯爵ジョン・タルボットのガスコーニュ遠征軍に従軍し、百年戦争最後の戦いであるカスティヨンの戦いに参戦した[3]。
1455年にはノーフォーク州から選出されて庶民院議員となった[1][2]。
1461年3月に即位したヨーク派のエドワード4世を支持し、ランカスター派と戦った[3]。タウトンの戦いにも参加した[2]。エドワード4世の寵臣となり、同年にナイトに叙されるとともにノーフォークとサフォークのシェリフ、またノリッジ城とコルチェスター城の城守(Constable)に任じられた[1][2]。さらに1467年にはオックスフォードシャーのシェリフ、1467年から1474年にかけては王室財政長官を務めた。1470年にはハワード男爵に叙せられ、1472年にはガーター勲章を受勲した[1][2]。しばしばフランスへの外交使節にも登用された[3]。
1483年のエドワード5世の退位問題の際には追い落とす側のリチャード3世を支持したため、その功で同年6月ノーフォーク公に叙せられた。臣民への公爵位授与は彼が最初であった[4][5]。また軍務伯、海軍卿などの重職に任じられている[3]。さらに1484年頃には貴族院の決定により母方のモウブレー家から議会招集令状[要リンク修正]による爵位(男子がなく女子のみある場合に姉妹間に優劣がない女系継承が可能)であるモウブレー男爵とセグレイヴ男爵を継承した[6]。
しかし、1485年5月22日のボズワースの戦いでリチャード3世と共に戦死した[7][8]。テッドフォードの小修道院に埋葬されたが、後の宗教改革の際にどこか(恐らくフラムリンガム教会の孫・トマス・ハワードの墓所だろう)に移葬されてしまった。彼の墓所は分からなくなってしまったが、最初の妻キャサリン・モリンズの真鍮記念碑だけは今でもサフォークで見る事ができる。
死後、ノーフォーク公爵はヘンリー7世に剥奪され、子のトマスもロンドン塔に投獄された。後にトマスは釈放されたが、ノーフォーク公を取り戻すには1514年を待たなければならなかった。
ボズワースの決戦前夜にトマス・スタンリー男爵とノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーの中立を暗示するメモが手元に残されたと言われるが、真偽は不明。
栄典
爵位
1470年10月15日に以下の爵位を新規に与えられた[1]。
1484年頃にアン・モウブレーの死去後保持者不在となっていた以下の爵位を継承した[6]。
- 第12代モウブレー男爵 (12th Baron Mowbray)
- (議会招集令状によるイングランド貴族爵位)
- 第13代セグレイヴ男爵 (13th Baron Segrave)
- (議会招集令状によるイングランド貴族爵位)
勲章
- 1472年、ガーター騎士団(勲章)ナイト(KG)[1][2]
家族
1442年にキャサリン・モリンズ(1424年 - 1465年、ウィリアム・ドゥ・モリンズとマージョリー・ウェルズブラウの娘)と結婚、以下の1男4女を儲けた[1]。
- 長男トマス(1443年 - 1524年) 第2代ノーフォーク公に復権
- 長女アン(? - ?) - エドマンド・ゴーゲスと結婚
- 次女イサベル(? - ?) - サー・ロバート・モーティマーと結婚
- 三女ジェーン (? - ?)
- 四女マーガレット(? - ?) - サー・ジョン・ウィンダムと結婚
1467年にマーガレット・チェドワース(1436年 - 1494年、ジョン・チェドワース卿とマーガレット・バウエットの娘)と再婚、娘を1人儲けた[1]
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月13日閲覧。
- ^ a b c d e f Lundy, Darryl. “John Howard, 1st Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2016年2月13日閲覧。
- ^ a b c d e 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 522.
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 522-523.
- ^ 森護 1987, p. 6/24-25.
- ^ a b Heraldic Media Limited. “Mowbray, Baron (E, 1283 or 1640)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年2月13日閲覧。
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 523.
- ^ 森護 1987, p. 25.
参考文献
- 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社〈平凡社新書020〉、1999年。ISBN 978-4582850208。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。
公職 | ||
---|---|---|
先代 グロスター公 |
海軍卿 1483年–1485年 |
次代 第13代オックスフォード伯 |
先代 ヨーク公 |
軍務伯 1483年–1485年 |
次代 初代ノッティンガム伯 |
イングランドの爵位 | ||
爵位創設 | 初代ノーフォーク公爵 (第3期) 1483年–1485年 |
剥奪 (爵位回復 2代ノ―フォーク公トマス・ハワード) |
保持者不在(最後の受爵者 アン・ド・モウブレー) |
第12代モウブレー男爵 13代セグレイヴ男爵 1484年頃–1485年 |
剥奪 (爵位回復 4代ノーフォーク公トマス・ハワード) |
爵位創設 | 初代ハワード男爵 1470年-1485年 |
剥奪 |