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2020年11月15日 (日) 22:32時点における版
小倉 全由(おぐら まさよし、1957年4月10日 - )は千葉県長生郡一宮町出身の学生野球指導者。旧姓・斉藤。日本大学第三高等学校、日本大学経済学部卒業。関東第一高等学校を経て現在は母校の日大三高社会科教諭および硬式野球部監督。タレントの小倉優子は親戚。
経歴
日大三高在学時は内野手だったがレギュラーにはなれず。日大では野球部に入らなかったが、高校野球の指導者を志し母校でコーチを務める。
日大卒業後の1981年に関東一高野球部監督に就任。1985年・夏の甲子園に甲子園初出場しベスト8に進出した。1987年・春の甲子園では下手投げの平子浩之投手と三輪隆捕手のバッテリーを擁し準優勝に導く。成績不振を理由に1988年に一旦監督を辞任という形で退くが1992年12月に復帰。辞任した際には練習場には一切、出向かず髪型を角刈りからソフトパーマに変えるなどし野球から完全に離れた。
1997年に母校に移り、2001年・夏の甲子園で、甲子園歴代最高記録(当時)となるチーム打率.427を記録することになる強力打線を率い、同校初の夏の全国制覇を達成。2010年・春の甲子園では自身2度目の準優勝。2011年・夏の甲子園では、初戦から6試合連続二桁安打、4試合で二桁得点、6ホーマーという強力打線とエース・吉永健太朗の全試合登板の力投で自身2度目の夏の全国制覇を達成する。
先述の2001年夏チームのように豪快な攻撃野球を持ち味とし、スポーツ報知2010年8月16日付[1]では、学校の所在地から“町田の闘将”と称された。
映画『仁義なき戦い』が大好きで、大学時代に母校でコーチをやっていた時は、毎日新宿昭和館で『仁義なき戦い』の3本立てを観て母校に戻り、広島弁で「わりゃ!コラッ!」などと怒鳴りながらノックをしていたという[2]。現在も練習では選手を褒めて伸ばす指導を行う一方、“瞬間湯沸器”を自称するように時々大きな雷を落とす(例えば寮の掃除ができていない時など)厳格な一面を併せ持つ。ただ、単身赴任して選手と共に寮生活を行い時には選手と湯船につかったり叱った選手を監督室に招きいれスイーツをつまみながら叱った理由などを話し合うなどしている。選手たちからは「父親以上の存在」と言われるほど慕われており、実際に2011年夏の優勝メンバーはインタビューで常々「監督を男にする」「小倉野球が日本一だと証明する」と語っていた。
高知の強豪校・明徳義塾は甲子園での初戦の戦績は2018年・春の甲子園が終了した時点で、33試合で28勝5敗(うち20連勝という大記録もあり)であるが、この5敗のうち2敗を付けたのが、小倉監督である(上記の1987年・春の甲子園と、2011年・春の甲子園)。
主な教え子
- 関東一
- 日大三
- 近藤一樹(大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ→東京ヤクルトスワローズ)
- 内田和也(元ヤクルトスワローズ→埼玉西武ライオンズ)
- 千葉英貴(元横浜ベイスターズ)
- 都築克幸(元中日ドラゴンズ)
- 荒木郁也(阪神タイガース)
- 吉田裕太(千葉ロッテマリーンズ)
- 関谷亮太(千葉ロッテマリーンズ)
- 山崎福也(オリックス・バファローズ)
- 髙山俊(阪神タイガース)
- 横尾俊建(北海道日本ハムファイターズ)
- 伊藤裕季也(横浜DeNAベイスターズ)
- 坂倉将吾(広島東洋カープ)
- 櫻井周斗(横浜DeNAベイスターズ)
甲子園での成績
- 関東一:出場4回・7勝4敗・準優勝1回(春:出場2回・4勝2敗・準優勝1回/夏:出場2回・3勝2敗)
- 日大三:出場17回・30勝15敗・優勝2回・準優勝1回(春:出場7回・10勝7敗・準優勝1回/夏:出場10回・20勝8敗・優勝2回)
- 通算:出場21回・37勝19敗・優勝2回・準優勝2回
参考文献
- 高校野球「名監督」列伝(2004年・ベースボール・マガジン社 B.B.mook №314 / スポーツ・スピリット21 №18)
脚注
- ^ 2010年夏の甲子園2回戦で、沖縄代表・興南(同年春の決勝で日大三高と対戦)が、馬淵史郎率いる高知代表・明徳義塾を下した記事。同校が小倉や高嶋仁(智弁和歌山)、前田三夫(帝京)、阪口慶三(大垣日大)といった甲子園20勝以上の監督率いるチームを春に続き撃破したことから、エースの島袋洋奨投手(現・福岡ソフトバンクホークス)は“名将キラー”だという内容。
- ^ 「短期集中連載・高校野球の名将たち 第一回 王者・日大三高 小倉全由」、「週刊現代」 2012年7月7日号、172頁