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[[Category:ワールド・ベースボール・クラシック・オーストラリア代表選手]]
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2020年11月10日 (火) 22:08時点における版

エイドリアン・バーンサイド
Adrian Burnside
基本情報
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 ノーザンテリトリー準州アリススプリングス
生年月日 (1977-03-15) 1977年3月15日(47歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1995年
初出場 NPB / 2008年5月26日
KBO / 2010年3月30日
CPBL / 2011年3月25日
最終出場 NPB / 2008年10月11日 
KBO / 2010年9月17日
CPBL / 2011年5月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム オーストラリアの旗 オーストラリア
五輪 2004年
WBC 2006年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

エイドリアン・マーク・バーンサイドAdrian Mark Burnside , 1977年3月15日[1] - )は、オーストラリア連邦ノーザンテリトリー準州アリススプリングス出身の元プロ野球選手投手)。

愛称は「バーニー」。

経歴

プロ入りとマイナーリーグ時代

1996年マイナーリーグでプロ入りした。マイナーリーグでのプレーを続けた。

2004年にはデトロイト・タイガースのロースターに入りスプリングトレーニングに参加するが、メジャー昇格はならなかった。8月には、アテネオリンピックにおける野球競技のオーストラリアに選出された。

2005年は、トロント・ブルージェイズ傘下シラキュース・スカイチーフス(AAA級)でプレーした。オフの11月に横浜ベイスターズの入団テストを受けたが合格には至らなかった。

2006年開幕前の3月には、この年から開催される事となったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のオーストラリア代表に選出された[2]

2007年サンディエゴ・パドレス傘下3Aポートランドに所属し、26試合に登板した。

日本球界時代

2007年オフの11月には、「日豪親善 野球日本代表最終強化試合」のオーストラリア代表に選出された[3]。ここでは、2回を無安打5奪三振に抑える好投を見せた。

これを見た読売ジャイアンツが左の中継ぎ要員として獲得を決め、同年12月25日に入団が発表された。背番号は31に決まった。

2008年はオープン戦で先発、中継ぎ両方で起用され、及第点の成績を収める。しかし、巨人は外国人枠がセス・グライシンガーマーク・クルーンアレックス・ラミレス李承燁またはルイス・ゴンザレスで埋まるため、開幕一軍からは外れた。ところが、5月26日にゴンザレスのドーピング発覚による契約解除、李の不振のために外国人枠が空き、初めて一軍昇格。同日の日本ハム戦で初登板初先発し、6回途中2失点で初勝利をあげた。その後も、先発・中継ぎ双方で起用され活躍。シーズン後半は李の復調により出番が減ったものの、15試合で5勝3敗、防御率3.48と、安定した成績を残した。なお、北京五輪本選のオーストラリア代表を、「巨人でのプレーに集中したい」と辞退している。

2009年、シーズン開幕前の第2回WBCも、代表選出を辞退。巨人に専念して開幕を迎えたが、このシーズンはグライシンガー、クルーンに加え、ディッキー・ゴンザレスウィルフィン・オビスポの両外国人投手が戦力として台頭。投手に与えられた最大3つの外国人枠をこの4人が争う中、二軍でも防御率4点台と結果を残せなかったバーンサイドは完全に競争からはじき出されて一軍登板なしに終わり、構想外となって帰国、同年12月2日に退団が決定した。

韓国球界時代

2009年12月29日、KBOネクセン・ヒーローズと契約。背番号は巨人時代の「31」から「29」に決定。

2010年は年間を通して先発ローテーションを守り、チーム最多の10勝をあげたが防御率が5.34と高かったこともあり、この年限りで退団となった。

台湾球界時代

2011年2月、CPBLLamigoモンキーズと契約を結んだ。

同年は、10試合に先発し6勝3敗、防御率3.74の成績を残していたが、6月2日に解雇された[4]

メキシコ球界時代

2011年シーズン途中に、メキシカンリーグミナティトラン・オイラーズと契約を結んだ。同年限りで、退団した。

プレースタイル

スリー・クォーターからの速球スライダーなどをクロスファイヤー気味に投げ、時おり投げるチェンジアップを持ち味とする。投球の際に声を出すことが多い。

先発・中継ぎを両方こなす万能投手であり、首脳陣も起用しやすい。

球速は140km/h前後とそれほど速くないが投球フォームが独特であり、左打者には打ちにくいという印象を与えることが多い。しかし、実際は右打者の方が抑えている。

シーズン中としては異例であるが、一軍投手コーチの香田勲男から指導されスローカーブを習得。2008年8月20日のヤクルト戦(神宮球場)では、スローカーブを駆使し7回無失点で、二塁を踏ませない好投を魅せ勝利投手となる。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2008 巨人 15 15 0 0 0 5 3 0 0 .625 312 75.0 67 7 18 0 9 47 2 5 33 29 3.48 1.13
2010 ネクセン 29 29 0 0 0 10 10 0 0 .500 655 140.0 150 16 82 0 18 98 8 1 91 83 5.34 1.66
2011 Lamigo 10 10 0 0 0 6 3 0 0 .667 283 65.0 73 3 14 0 4 31 0 1 32 27 3.74 1.34
NPB:1年 15 15 0 0 0 5 3 0 0 .625 312 75.0 67 7 18 0 9 47 2 5 33 29 3.48 1.13
KBO:1年 29 29 0 0 0 10 10 0 0 .500 655 140.0 150 16 82 0 18 98 8 1 91 83 5.34 1.66
CPBL:1年 10 10 0 0 0 6 3 0 0 .667 283 65.0 73 3 14 0 4 31 0 1 32 27 3.74 1.34
  • 2011年度シーズン終了時点
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

NPB
CPBL

背番号

  • 31 (2008年 - 2009年)
  • 29 (2010年)
  • 32 (2011年)

代表歴

脚注

  1. ^ a b 『プロ野球カラー名鑑 2008』ベースボール・マガジン社、2008年、14頁。ISBN 978-4-583-61526-4 
  2. ^ 2006 Tournament Roster WBC公式サイト 英語 2015年6月6日閲覧
  3. ^ 日豪親善 野球日本代表最終強化試合 オーストラリア代表チーム 日本野球機構オフィシャルサイト 2015年6月6日閲覧
  4. ^ 奔薩解約 杜拉克入替Lamigo Monkeys OFFICIAL WEBSITE、2011年6月2日。

関連項目

外部リンク