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「マーガレット・サンガー」の版間の差分

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サンガーは自ら[[社会主義者]]と名乗っており、若い労働者階級の女性が置かれた満足すべきでない状況について、現代資本主義の悪であると非難している。この点は「全ての娘が知るべきこと」の最後のページから明白に見て取れる。
サンガーは自ら[[社会主義者]]と名乗っており、若い労働者階級の女性が置かれた満足すべきでない状況について、現代資本主義の悪であると非難している。この点は「全ての娘が知るべきこと」の最後のページから明白に見て取れる。

=== 語録 ===
「優生学(人種差別に基づいた劣等民族の遺伝子を体系的に根絶しようという考え方)」

「東洋人やユダヤ人や黒人などの劣等民族」

「最大の罪は、両親から病気を受け継いだ子どもや実際的に人間として生きるチャンスが与えられない子ども、癩病や囚人の子どもなど、そのほかのあらゆることが生まれる時に刻みつけられている子どもを世の中に生み出すことだと私は考えます」

「一般的には、そもそも黒人奴隷がアメリカに輸入されたこと自体が、この国にとって不幸な出来事であると考えられています。今日のアメリカにおける黒人の存在は、国にとっての「困窮(非常に困ったこと)」とされています」

「すべての白人のアメリカ人は、もしも黒人が根絶させられるとしたら、個々の黒人を傷つけなくてもいいように、その根絶はゆっくりとなされなければならないことに同意するでしょう」

「一番黒人に効果的な方法は、宗教を利用することです。われわれが黒人を根絶したいということを知られてはいけません。黒人の牧師を起用することで、そう言った考えが出てきた場合に、打ち消してくれるのです」

「有色人種は、人類の雑草のようなものであり、根絶されなければならない」


=== 性の心理学 ===
=== 性の心理学 ===
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サンガーは産児制限を「優生学的に劣る」 (dysgenic) 子供が生まれないようにするための手段と見ていた。そうすれば、生まれてさえこなければその子が不利を被ることもなくなるからである。また、「積極的優生学」(「適応者」の出産を増やす)を実際的でないとして退けた。多くの優生学運動の指導者たちが「不適応者を積極的に安楽死させよ」と叫んでいたが、サンガーは反対の立場をとった。ブラックは、「Robinson は駄目人間に[[シアン化カリウム|青酸カリ]]を注射しろというが、サンガーは反対した。産児制限運動仲間とは違い、自分自身は不適応者もその子も電気椅子 &mdash;原文では lethal chamber &mdash;送りにするなど信じられない」と語っている<ref name="black-251">Black (''The War Against the Weak''), 251</ref>。
サンガーは産児制限を「優生学的に劣る」 (dysgenic) 子供が生まれないようにするための手段と見ていた。そうすれば、生まれてさえこなければその子が不利を被ることもなくなるからである。また、「積極的優生学」(「適応者」の出産を増やす)を実際的でないとして退けた。多くの優生学運動の指導者たちが「不適応者を積極的に安楽死させよ」と叫んでいたが、サンガーは反対の立場をとった。ブラックは、「Robinson は駄目人間に[[シアン化カリウム|青酸カリ]]を注射しろというが、サンガーは反対した。産児制限運動仲間とは違い、自分自身は不適応者もその子も電気椅子 &mdash;原文では lethal chamber &mdash;送りにするなど信じられない」と語っている<ref name="black-251">Black (''The War Against the Weak''), 251</ref>。

=== 日本との関わり ===
サンガーは戦後の日本に「産児制限」という考え方と制度を導入するために投入された人材であった。サンガーは明治時代から何度も来日して「日本産児調整婦人連盟」を設立し、代議士となった加藤シヅエにも薫陶を与えた。その頃サンガーはロックフェラーから多額の資金提供を受けていた。

日本は戦後サンガーの考え方に基づいた人口削減計画を政府レベルで導入させられていたが、アメリカでは自国の黒人などの有色人種に対して、同じ政策を実践している。サンガーの設立した「プランド・ペアレントフド」は、巨額の助成金をアメリカ政府から得ているが、この団体が黒人などの有色人種の多い街に78%の施設を構えて中絶を推奨してきた。

=== 米国政治への影響 ===
アメリカ民主党はサンガーの考えを大いに尊敬に値するものとし、取り入れてきた。現在でも、元上院議員ヒラリー・クリントン、元副大統領ジョー・バイデン、カマラハリスらは、マーガレット・サンガ―を称賛している発言をしている。


== 後世への影響 ==
== 後世への影響 ==

2020年10月29日 (木) 13:25時点における版

1922年

マーガレット・ヒギンズ・サンガー(Margaret Higgins Sanger, 1879年9月14日 - 1966年9月6日)は、アメリカ合衆国産児制限(受胎調節)活動家であり、優生学のある側面における唱道者であり、「アメリカ産児制限連盟」(American Birth Control League、後のPlanned Parenthood)の創設者である。子供をいかにして、何時産むかを女性自身が決定する権利についてのサンガーの思想は、初めの内熾烈な反対を受けたが、やがて人々と法廷の支持を勝ち取っていった。優生学の唱道者としてはそれほどの支持を受けてはいないが、産児制限が広く行われるようになる道を切り開いた功労者である。

以降、本項目において「性」は特記しない限り英語 sexuality の訳である。

生涯

来日時のマーガレットと息子。1922年

(以下、サンガーではなくマーガレットと記述する)

マーガレット・ヒギンズは1879年、ニューヨーク州コーニングで生まれた。マーガレットの母、アン・パーセル・ヒギンズ(Anne Purcell Higgins) はカトリックの敬虔な信者であった。結核と頸部の癌のために死去するまでに、18回妊娠し、その内11回が生児出生だった[1]。マーガレットは姉に授業料を払ってもらいながらハドソン(Hudson)にあった寄宿制の学校、Claverack Collegeに二年間通学したが、経済的にやっていけなくなった。マーガレットが帰宅し、ニューヨークの裕福な郊外であるホワイト・プレインズにあった病院付属の看護学校に通い始めた1899年に母親は死去した。1902年、マーガレットはウィリアム・サンガー (William Sanger) と結婚した。結核に脅かされながら、結婚翌年に男子を一人産み、さらに翌年に弟と妹を生んだが、この女の子は小さいうちに死んだ。マーガレットは病気がちで、結婚してすぐ子供が生まれたので、看護学校の第三学年を終えることができず、資格をとることもできなかった。だが、新しい夫はマーガレットがキャリアを追求するよりも子供を育て上げることを望み、マーガレットを気遣った[2]

だが、その夫が考えた家庭は、1912年の大火で崩れ去った。サンガー一家はニューヨークシティに移り、マーガレットはマンハッタン東部の貧民街で働くようになった。その年からマーガレットは「全ての娘が知るべきこと」(What Every Girl Should Know)と題するコラムを New York Call に発表するようになった。貧しい女性に「家族を制限すること」(Family Limitation)というパンフレットを配りつづけ、コムストック法違反の廉で何度もスキャンダルを巻き起こし投獄された。避妊法と避妊具を広めることが猥褻行為にあたるというのである。

マーガレットは1913年、夫と別れた。1914年、産児制限の普及を目的とした新聞「女性反逆者」(The Woman Rebel)を始めた。1916年10月16日、ブルックリンのそばにある ブラウンズヴィル(Brownsville)に家族計画と産児制限のための診療所を開設した。この種の施設としてはアメリカ合衆国で最初のものである。これは官憲の不興を買うことになり、マーガレットは猥褻郵便物(産児制限に関する情報)を送付した廉で逮捕された。起訴を逃れるためマーガレットは欧州に渡り、そこで著名なSF作家H・G・ウェルズと恋仲になった。翌年、合衆国に帰ると活動を再開し、不定期刊行物の「産児制限レビュー&ニュース」(The Birth Control Review and Birth Control News)を立ち上げた。アメリカ社会党の機関紙「呼び声」 The Call に健康に関する寄稿を行うこともあった。

1916年、マーガレットは「全ての娘が知るべきこと」(What Every Girl Should Know)を出版し、この本は後に E. Haldeman-Julius の "Little Blue Books" の一冊として広まった。月経などに関する基礎的な知識だけではなく、思春期の性 (sexuality) についても理解を広めようとするものであった。1917年には「全ての母が知るべきこと](What Every Mother Should Know)を出版した。この年、マーガレットは「社会の邪魔者」として感化院に押し込まれた。

訪日時のマーガレットと石本静枝(右端はマーガレットの息子)。

Lothrop StoddardC. C. Little と共にマーガレットが「アメリカ産児制限連盟」(American Birth Control League, ABCL)を設立したのは1921年のことである。翌1922年、マーガレットは日本に渡り、日本人フェミニストである石本静枝と共同して産児制限運動を推進しようとした。訪日はこの他にもその後数年の間に6回に及んだ。また1922年には、マーガレットは石油王ジェームス・ノア・ヘンリー・スリー(James Noah Henry Slee, 1861-1943)と結婚した。1923年、ABCLの後援のもと、マーガレットは臨床研究局を設立、これが合衆国で最初の合法的な産児制限診療所となった(1940年に、マーガレットの功績をたたえて「マーガレット・サンガー研究局 (Margaret Sanger Research Bureau)」と改名した)。またこの年には「産児制限のための連邦法制定全米委員会」(National Committee on Federal Legislation for Birth Control)を作り、会長となった。多くの州で医学的な管理下における産児制限が合法化された後の1937年に解散するまで、会長でありつづけた。1927年にはジュネーブで開かれた最初の世界人口会議の組織に当たって助力を行った。

1928年、マーガレットはABCLの会長を辞した。二年後、「産児制限国際情報センター」(Birth Control International Information Center)の会長となった。1932年1月、en:Mirza Ahmad SohrabJulie Chanler が創立した New History Societyで演説を行い、これは後の「平和のための計画 (A Plan for Peace) 」の元となった[3]。1937年、マーガレットは Birth Control Council of America の議長となり、二つの出版物を興した。The Birth Control Review 及び The Birth Control News である。1939年から1942年まで Birth Control Federation of America の名誉代表をつとめた。1952年から1959年まで、私設のものとしては当時最大の国際家族計画機関であった International Planned Parenthood Federation の会長をつとめた。

1960年のアメリカ合衆国大統領選挙において、マーガレットはジョン・F・ケネディ候補が産児制限に関してとっている態度にうろたえることになった(ケネディは産児制限を国政の問題とするべきではないと信じていた)。ケネディが当選したらアメリカ合衆国を去ると言っていたマーガレットであったが、後に態度を改めた。

1960年代の初め、開発されたばかりの経口避妊薬の利用を推進した。欧州、アフリカ、アジアを回り、講演を行い診療所の設置を援助した。

87歳でマーガレットが死去したのは1966年、アリゾナのツーソンでのことである。数か月前にグリスヴォルド事件(避妊法の指導者が州法違反として訴えられた事件。避妊具利用法の指導を禁止したコネチカット州法が違憲とされた。プライバシー権を認めた判決としても重要。Griswold v. Connecticut 381 US 479)の記念碑的な判決が出た直後であった。この判決で、合衆国においては夫婦の間の産児制限が合法化されることとなり、まさに50年にわたるマーガレットの闘いの頂点となったのである。

マーガレットの著作は他に Woman and the New Race (1920)、Happiness in Marriage (1926)、自伝 (1938)がある。

思想

サンガーは自由な思想を持っていた父親の影響を強く受けているが、女性の健康や出産への自分自身を含めた社会の無理解に深く失望したのは母親の死がきっかけであった。サンガーはまた、一般社会及び宗教上の権威者が女性を男性の下におき続けようとして、自らの発した性及び避妊に関するメッセージを検閲することも批判した。無神論者として、それらのメッセージに反対するキリスト教信仰を、反啓蒙主義的であり、女性問題について理解がなさすぎるとして攻撃した。女性の間で性病の危険性への認識が低く、治療機会も少ないことについて特に厳しく批判した。サンガーによると、これらの社会悪は体制側の男性の中に本能的に存在する女性を無視し続ける態度に因って来るものである。サンガーはまた現代社会が性病患者の登録管理を行っていないことにも痛罵を浴びせた(麻疹のような強制的に届け出を行っている感染症と対比させた。なお、2006年現在日本では麻疹は感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律の定点把握の対象であり、全数届出が求められる伝染病ではない)。

サンガーは自ら社会主義者と名乗っており、若い労働者階級の女性が置かれた満足すべきでない状況について、現代資本主義の悪であると非難している。この点は「全ての娘が知るべきこと」の最後のページから明白に見て取れる。

語録

「優生学(人種差別に基づいた劣等民族の遺伝子を体系的に根絶しようという考え方)」

「東洋人やユダヤ人や黒人などの劣等民族」

「最大の罪は、両親から病気を受け継いだ子どもや実際的に人間として生きるチャンスが与えられない子ども、癩病や囚人の子どもなど、そのほかのあらゆることが生まれる時に刻みつけられている子どもを世の中に生み出すことだと私は考えます」

「一般的には、そもそも黒人奴隷がアメリカに輸入されたこと自体が、この国にとって不幸な出来事であると考えられています。今日のアメリカにおける黒人の存在は、国にとっての「困窮(非常に困ったこと)」とされています」

「すべての白人のアメリカ人は、もしも黒人が根絶させられるとしたら、個々の黒人を傷つけなくてもいいように、その根絶はゆっくりとなされなければならないことに同意するでしょう」

「一番黒人に効果的な方法は、宗教を利用することです。われわれが黒人を根絶したいということを知られてはいけません。黒人の牧師を起用することで、そう言った考えが出てきた場合に、打ち消してくれるのです」

「有色人種は、人類の雑草のようなものであり、根絶されなければならない」

性の心理学

サンガーの人体生理学についての理解及び実践的アプローチは当時としては進歩的ではあったものの、人間の性についての心理学に関する考え方は19世紀のフロイト以前の段階にとどまっており、ここにサンガーの限界があった。サンガーにとっての産児制限は、性交の望まざる副作用を抑制することに大きな意味があり、男女のセックスの楽しみを解放する手段としてではなかったように見える。「全ての娘が知るべきこと」には次のくだりがある:(引用部分につき訳出せず。大略、まともな男女がまともに頭を使っていれば男の性衝動なんて楽勝で抑えられる、という程度の意味)。性はサンガーにとってはある種の弱さであり、それを埋没させてしまうことが強さの現れであった。サンガーは、「セックス細胞」は生殖のために発射されるが、その液にはいろんなエッセンスがある。そういったエッセンスをもっと建設的な用途に向けるとすごいことができる。娘が恋愛などで体を使うのは自慰と変わらない、と述べている。

人類の発達に関するサンガーの思想には、人種差別の色が濃い。魚や両生類にはちっぽけな脳しかなく、性衝動をコントロールできない。似たように、アボリジニの脳はチンパンジーに毛を生やした程度なので、あふれる性衝動を抑えるには警察が必要だ、と語っている。

サンガーはまた、自慰を危険なものと見なしていた。サンガーによれば、慢性自慰患者程手に負えないものはなく、自慰ばかりやっていると大きくなっても自然なセックスができなくなってしまうという。また、サンガーにとって自慰は単なる肉体運動ではなく、精神状態の一つでもあった。思春期を過ぎた頃の男女が行う最悪の自慰は、猥褻な画像を思い浮かべたりする精神的なものであり、それによって脳が猥褻画像漬けになってしまう、との警告も発している。

優生学と安楽死

サンガーは社会哲学の一つである(現在では疑似科学として批判されている)優生学の唱道者であった。優生学によると、人類の遺伝的資質は社会的介入によって向上させることができる。「遺伝的に不適当な」人物をターゲットとして優生学者がすすめた社会的介入法としては、選択的な生殖、断種安楽死が含まれた。例えば1932年にサンガーは、「悪い家系」を断つための断種と隔離を行う「強固なポリシー」について触れている。

生物学と遺伝学の進歩によって、サンガー流の方法、障害者が子供を産めないようにして人類の資質を向上させるような方法は実際には無効だろうと考えられるようになった。しかし20世紀初めのアメリカ合衆国では、サンガーも強力に押し進めていたこの優生学運動は強い影響力を得た。アメリカの優生学者の努力の結果、何万人単位で断種が行われたり、コロニーに強制隔離される人が出たりしたほどの力があった」[4]

アメリカ合衆国における優生学運動はナチの優生学運動(T4作戦ホロコースト等)の勃興に直接的な責任があるといわれている。[5]。エドウィン・ブラック Edwin Black は、「優生学の応用はヒトラーを魅了し、アメリカの優生学者自身がナチスドイツはアメリカに『追いつけ追い越せ』状態だと認めていた[5]

ヒトラーの優生学的政策によって「支配者民族」をつくろうとする熱意は、もとをただせば白人優位主義によるものである。優生学は白人優位主義そのものではないが、総じて関連したコンセプトである。サンガーは消極的優生学による「人種衛生」の考えを推進した。もっとも、サンガーの著作には特定の人種が総体として他の人種に比べ優生学的に優位であるないし劣位であると示した部分はないし、ナチの反ユダヤプログラムを「悲しく、恐るべきこと」[3]とした。ブラックは、ヒトラーの人種差別、反ユダヤ主義には英語圏の影響はなく、合理化のためだけに優生学を持ち出したのであり、これは疑似科学によくあることである、と続けている[6]

サンガーは産児制限を「優生学的に劣る」 (dysgenic) 子供が生まれないようにするための手段と見ていた。そうすれば、生まれてさえこなければその子が不利を被ることもなくなるからである。また、「積極的優生学」(「適応者」の出産を増やす)を実際的でないとして退けた。多くの優生学運動の指導者たちが「不適応者を積極的に安楽死させよ」と叫んでいたが、サンガーは反対の立場をとった。ブラックは、「Robinson は駄目人間に青酸カリを注射しろというが、サンガーは反対した。産児制限運動仲間とは違い、自分自身は不適応者もその子も電気椅子 —原文では lethal chamber —送りにするなど信じられない」と語っている[7]

日本との関わり

サンガーは戦後の日本に「産児制限」という考え方と制度を導入するために投入された人材であった。サンガーは明治時代から何度も来日して「日本産児調整婦人連盟」を設立し、代議士となった加藤シヅエにも薫陶を与えた。その頃サンガーはロックフェラーから多額の資金提供を受けていた。

日本は戦後サンガーの考え方に基づいた人口削減計画を政府レベルで導入させられていたが、アメリカでは自国の黒人などの有色人種に対して、同じ政策を実践している。サンガーの設立した「プランド・ペアレントフド」は、巨額の助成金をアメリカ政府から得ているが、この団体が黒人などの有色人種の多い街に78%の施設を構えて中絶を推奨してきた。

米国政治への影響

アメリカ民主党はサンガーの考えを大いに尊敬に値するものとし、取り入れてきた。現在でも、元上院議員ヒラリー・クリントン、元副大統領ジョー・バイデン、カマラハリスらは、マーガレット・サンガ―を称賛している発言をしている。

後世への影響

現在でもサンガーについての論議はつきない。現代に続く産児制限運動の指導者として広く認識され、またアメリカ合衆国における産む権利 (reproductive rights) 運動の象徴である一方、「堕胎推進者」として非難を浴びせる人もいる(もっとも、これはアンフェアというものだろう。サンガーの生涯を通じ妊娠中絶は非合法であって、— 訳注: これはアメリカ合衆国の事情である。日本では第二次世界大戦後優生保護法が制定され、ザル法的に事実上妊娠中絶は合法化された。妊娠中絶産児制限参照 — 従って Planned Parenthood が妊娠中絶を支持したことも合法化のためのロビー活動をしたこともない)。家族計画運動 (Planned Parenthood) や妊娠中絶合法化に反対するグループはサンガーの考え方を攻撃し、その際サンガーの努力に対し、産児制限は優生学による人種の「浄化」を願ったものだ、それどころか、マイノリティの近所に産児制限診療所を置き、彼らの絶滅を期しているのだと当てこすった[8]。このため、サンガーの主張はたびたび文脈を無視して部分的に引用され、逆に社会主義や優生学への関与はしばしば合理化されたり、支持層や伝記作家から無視されたりする。

サンガーを人種差別主義者とするいわれのない非難にもかかわらず、マイノリティに対するサンガーの業績は市民運動の指導者、例えばキング牧師からの敬意を受けている[9]。同書(Planned Parenthood)によれば、サンガーは1930年にハーレムで家族計画診療所を開いた際に黒人スタッフを採用し、地域の大いなる支持を得たという[10]

(訳注: 次のパラグラフは引用を多く含むので訳出しない。人工妊娠中絶に対するサンガーの態度について述べたパラグラフである。大略以下の通り。サンガーが人工妊娠中絶に反対したのは闇堕胎で母体が損なわれることを若いうちから知っていたためである。人工妊娠中絶はいずれ合法化されようが、避妊が行き渡れば必要性を失うであろう、と考えていた)[11]

脚注

  1. ^ Steinem.
  2. ^ Chesler.
  3. ^ a b Pouzzner.
  4. ^ Black (Eugenics and the Nazis)
  5. ^ a b Black (The War Against the Weak), (Introduction)
  6. ^ Black (The War Against the Weak), 269
  7. ^ Black (The War Against the Weak), 251
  8. ^ Marshall
  9. ^ Planned Parenthood Federation of America.
  10. ^ Knowles.
  11. ^ Gray.

出典

関連文献

サンガー自身によるもの

他の著者によるもの