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たかがナベツネ |
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'''渡邉 恒雄'''(わたなべ つねお、[[1926年]]〈[[大正]]15年〉[[5月30日]] -)とは、[[日本]]の[[新聞記者]]、[[実業家]]。[[株式会社]][[読売新聞グループ本社]][[代表取締役]][[主筆]]。[[勲等]]は[[旭日大綬章]]。「'''ナベツネ'''」の[[通称]]で知られる<ref>[http://npn.co.jp/article/detail/34600577/ 総額100億円 田中将大ヤンキース入団橋渡しにゴジラ松井][[リアルライブ]] - ([[週刊実話]] 2014年1月17日 15時01分)</ref>。 |
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株式会社[[読売新聞社]][[社長]]、球団[[オーナー]]、株式会社[[読売ジャイアンツ]][[取締役]]最高顧問、[[社団法人]][[日本新聞協会]]会長などを歴任した。 |
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日本プロ野球界に関連する彼の伝説は数知れず<ref>江尻良文『渡邉恒雄とプロ野球』株式会社双葉社、2014年、5ページ、ISBN 978-4-575-30647-7</ref>、自ら「俺は最後の[[独裁者]]だ」と語ったとされ<ref>2011年11月25日、[[清武英利]]による[[記者会見]]において</ref>、[[マスメディア]]において「'''球界の独裁者'''」または単に「'''独裁者'''」と呼ばれていることについては、渡邉自身が認めている。他に「メディア界の[[ドン_(尊称)#他言語での使用|ドン]]」「政界[[フィクサー]]」とも呼ばれる(詳細は[[#球団会長として|後述]])<ref>朝日新聞『独裁者と呼ばれて』(渡邉に対するインタビュー記事) 2011年11月28日</ref>。 |
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== 生い立ち{{~}}学生時代 == |
== 生い立ち{{~}}学生時代 == |
2020年10月25日 (日) 06:51時点における版
たかがナベツネ
生い立ち〜学生時代
生い立ち
東京府豊多摩郡(後の東京都杉並区)出身。父は平吉、母は花。五人姉弟の三番目で長男である[1]。
1934年(昭和9年)、恒雄が8歳の時、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身、現:りそな銀行)に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅玄関で突然吐血、胃癌で1週間後に死去した[1]。当時47歳[1]。父が残した十一軒の貸家からの家賃収入で当面の生活費には困らなかったが、稼ぎ手をなくした一家には将来の生活の不安が重くのしかかった[2]。母親の花は、夫を失った打撃からなかなか立ち直れなかった[3]。
戦前の家父長下では恒雄が全財産を相続し、一家の柱として責任を負わねばならなかった[3]。母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという[4]。「お前は総領だ[4]。総領というのは跡継ぎだ[4]。だからお前は勉強して偉くならないかん[4]。成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の伯父さん[5] に報告できない[4]。」
学生時代
第一志望の府立高校尋常科(現:都立桜修館中等教育学校)、第二志望の武蔵高校尋常科(現:私立武蔵高)、第三志望の府立一中(現在の都立日比谷高)と、続け様に受験に失敗し、ようやく第四志望の開成中(現:開成高)にビリに近い成績ですべり込んだ[6]。同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いたという[6]。
1939年(昭和14年)4月、開成中学校に入学。同中学3年生の時、哲学の道を志し、日々哲学書ばかり読むようになる。また反軍少年であり、旧制高校の記念祭では上級生らと夕闇の中蜂起して、軍国主義を吹聴する校長ほかの教職員を襲撃して殴っている。勤労動員された航空機の工場では、密かに不良品を作り、抵抗した[7]。
1943年(昭和18年)4月、開成4年修了で東京高等学校(現:東京大学・東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。網野善彦、氏家齊一郎が尋常科四年に進級した1943年(昭和18年)4月、一学年上の高等科に入ってきた[8]。氏家によると、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭であった[9]。以来、2人は共に軽演劇場や純喫茶に繰り出す仲になった[9]。
1945年(昭和20年)4月、東京帝国大学文学部哲学科に入学。太平洋戦争で徴兵され、近衛師団に配属。渡邊の回顧録によれば陸軍二等兵としての軍隊生活で上官から暴行を受けたという[10]。
東京大学在学中の1945年12月、日本共産党に入党を申し込む。日本青年共産同盟の同盟員としてビラ貼りや演説会の勧誘など下積みのような活動を経験して、1947年頃、正式な党員として認められる。東大学生細胞(共産党が地域・職場・学園などに設けた末端組織の旧称、現在の「支部」)に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やしたが、1947年12月、自ら離党届を提出[11]。離党後の彼を、しんぶん赤旗は「戦後の一時期に入党した渡辺氏は、青春を燃やした日々が懐かしいのか、いまでも日本共産党に入っていたことをよく口にしている」と評している[12]。氏家とともに母校である東京高等学校へオルグに行った際に、インターハイを目指す後輩の野球部員達に対して「野球なんてくだらないものをする時ではない!」と共産党への入党を勧めた。
1950年(昭和25年)3月、東京帝国大学新聞研究所(現:情報学環)を修了。
読売新聞社での歩み
政治記者時代
読売新聞社に次席で入社(その年の首席は、後に作家となる三好徹)。また、東京新聞の採用試験にも合格している[13]。「朝日新聞社に入社したかったが採用試験で不採用になった」と週刊朝日のインタビューで答えている。「中央公論」の入社試験も不合格となっており「頭が良すぎて採用されなかった」とは本人談である。なお、中央公論に関しては渡邉が読売新聞社長時代に買収している。
『週刊読売』(後の『読売ウイークリー』)記者を経て、政治部記者となる。『週刊読売』の記者時代、鳩山一郎が脳出血で倒れたときに、鳩山邸(現:鳩山会館)で張り込みをしていた。
慌ただしい気配がしたため、渡邉が屋敷の中を覗いたところ、大きな犬を連れた秘書の石橋義夫に渡邉は追い出された。その後、屋敷を出てきた大野伴睦に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、次に現れた政治評論家の岩淵辰雄にも「(自分は)鳩山家の者ではない」と言われ、鳩山が倒れた確証を得られなかった。結局、デスクから「死んだのでないのなら放っておけばいい。そろそろ帰ってこい」と指示されたと言う[14]。
警視庁出身の社長正力松太郎の眼鏡にかなって、自民党党人派の大物、大野伴睦の番記者になった。以後保守政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする[15]。
渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて自民党総裁や衆議院議長ポスト獲得交渉の代行、自民党政治家のゴーストライターとして、週刊誌の論説の執筆まで引き受ける[16]。児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている[17]。
また鳩山一郎の次の自民党総裁、総理大臣を狙っていた正力松太郎が、中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり[18]、大野の死後は中曽根と親密になった。
中曽根とは1957年(昭和32年)の自民党総裁選の最中に出会った。渡邉は、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。大野は造船疑獄の際に、自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約した。1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた[19]。早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党員だった。1966年(昭和41年)の大手町にある国有地払い下げ問題でも、大きな役割を果たしている[20]。
なお、政治記者としてよりは、若いころからジャーナリストとして多くの著作で知られる存在だったが、魚住昭は「戦後に現れた組織ジャーナリストの中でも、彼はテクニックにおいては最高の人でしょう」と評している[21]。
新聞社幹部として
1977年、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『読売新聞』社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して、裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜していく過程の1エピソードである。同年、取締役論説委員長に就任した。1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。1991年に読売新聞社社長、横綱審議委員、1999年には日本新聞協会会長に就任した。
日本国民の世論の大多数が、日本国憲法改正そのものを否定していた1990年代初頭より、読売新聞は憲法第9条の改正を含む改憲キャンペーンを展開し、それまで半ばタブー視されていた改憲論議の口火を切る。その後、世論調査では憲法改正自体への賛成が、反対を上回ることが多々見られるようになった[22]。
1996年6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」、著作物の再販売価格維持制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や定価を指示して、これを維持させていること)に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所が潰れてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した[23]。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じだ」と述べた。
2005年、読売新聞グループ本社の会長に就任。2007年、第54回カンヌ国際広告祭で世界のメディア業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、プロ野球球団など広告媒体としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。
盟友の中曽根を強引に引退させ[24]、毎年靖国神社を参拝した小泉純一郎政権に対しては批判的であった。靖国神社に対する見解は後述。
自民党員および元自民党員ら保守系議員に多大な影響力を持ち、中曽根康弘と共に2007年の自民党と民主党の大連立構想の黒幕であったと報じられている。小沢一郎は『朝日新聞』の2007年11月16日付のインタビューで、渡邉を「大連立構想の張本人」と答えている。
2007年(平成19年)10月26日付日本新聞協会会報のインタビュー記事で「社論と反対の社説を執筆した論説委員に執筆を禁じた」と述べ、虚偽の発言で名誉を毀損された(社論に反する社説を書いた事実は一切ない)として、2010年(平成22年)11月25日に読売新聞の前澤猛・元論説委員(“執筆を禁じ”られた当人)から提訴されている[25]。2011年7月5日の判決では、原告の主張は一部認められたが損害賠償は棄却された[26]。
『週刊文春』によると、渡邉は2004年(平成16年)に、不正な方法で運転免許証を更新し、道路交通法違反を犯したと報道されている[27]。
2018年、死亡説が流布され、自らそれを打ち消した[28]。
読売ジャイアンツにおける活動
渡邉自身、元々野球について詳しくなく[29]、球団経営に参加するようになったのは、読売新聞社副社長時代の1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(他のメンバーは同社名誉会長の務臺光雄、同社社長の小林與三次、オーナーの正力亨)。1991年に務臺が死去した後、渡邉はしばらくは沈黙するも、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、1996年に正力を名誉オーナーに祭り上げる形で自身がオーナーに就任。「野球はやったこともなく興味もなかった」と公言するも、その後野球界をすばやく学習し、これまでの球団の人気、資金、読売新聞と日本テレビ放送網という巨大メディアを背景に、影響力のあるチームオーナーとして球界に君臨、コミッショナーの人事も決める人物と言われた。
球団オーナーとして
2003年オフに、原辰徳が監督を辞任して堀内恒夫が就任したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した[30]。
2005年、堀内が成績不振で辞任することになり、星野仙一の監督就任を目論んだが各方面からの反対もあり頓挫。結果的に原を監督に復帰させている[31]。
プロ野球再編問題とオーナー辞任
2004年、パシフィック・リーグにおいて、人気が低迷していた大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)の間に合併話が持ち上がった。更に、同リーグの福岡ダイエーホークスと西武ライオンズ親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。
この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・宮内義彦らと日本プロ野球1リーグ構想を画策したものの、ライブドア社長(当時)の堀江貴文が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった[32]。
7月8日、2リーグ12球団の維持を主張していた当時日本プロ野球選手会会長の古田敦也(ヤクルトスワローズ)による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。」と発言した[33][34]。この発言に対し、選手・野球ファンを中心に、世論全体からの猛反発を招いた。
このことから先述の通り「球界の独裁者」と評されている。このスポーツ記者(西村欣也)の質問とは「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」というもので、のちに古田自身が全面否定した。
8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、明治大学の一場靖弘を巡る裏金事件が発覚する。渡邉は球団社長の土井誠、球団代表の三山秀昭と伴に責任を取って辞任、読売新聞東京本社社長の滝鼻卓雄にオーナーの座を譲った。
世論に後押しされる形で、日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初のストライキが挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。同年11月、ライブドアと同じIT企業の楽天の新規参入が認められて、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立された。
その後1年足らずして球団会長に就任した。肩書きは変えながらも実質オーナー状態となっていた。
球団会長として
2011年、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響でプロ野球の開幕が当初の3月25日の予定から延期になることについて、3月16日の球団激励会の挨拶で、「この前の大戦争で負けた後、選手、監督から3ヶ月でやりたいという声が上がってプロ野球をやった歴史もある」と話し、予定通り25日の開幕を主張した[35]。また延期を決めたパ・リーグに対しては「こういう時には何もやらない方が良いというなら勝手にしろ」と話した。その後セ・リーグもパ・リーグ同様4月12日に開幕になったが渡邉は「いいんじゃないか。もう、しゃあない。(国などが)ガーガー言ってるんだから」と話した[36]。
2011年11月11日、専務取締役球団代表兼ゼネラルマネージャー・編成本部長・オーナー代行の清武英利が「球団のコンプライアンス上の重大な件」とする記者会見を行い、球団が発表した岡崎郁ヘッドコーチの留任について、渡邉がそれを覆し江川卓をヘッドコーチに決めたことについて、「ツルの一声で決めてしまうなど、球団を私物化するようなことがあっていいものか」として渡邉を批判している[37]。なお、清武は同年11月18日に全ての役職から解任されている。
11月25日、清武は日本外国特派員協会において会見を開き、11日の会見を前にした清武との電話において渡邉が「俺は最後の独裁者」と酒まじりに言い放ったことを述べ[38]、これに対し渡邉は11月28日付の朝日新聞において『独裁者と呼ばれて』と題したインタビューに応じ、「僕は民主的だよ。物事を決めるときには必ず人に相談することにしている。独裁者と書くメディアもあるが面白いし、売れるからね」と答えている。その一方で、正力松太郎は独裁者だったとも述べている。
2014年6月10日、読売巨人軍取締役最高顧問に就任した。
2015年に福田聡志、笠原将生、松本竜也の3名が野球賭博に関与していたことに加え、2016年3月8日になって高木京介も関与していたことが発覚したため、11日付で責任を取って最高顧問を辞任した[39][40]。
他のスポーツとの関係
相撲
渡邉は1991年から2005年までの間横綱審議委員として活動。2001年から2年間は委員長を務め、若貴ブームにわく大相撲界に影響を及ぼし、さまざまな角度から意見した。また、大関・魁皇の横綱昇進には最後まで否定的だった。
Jリーグとの関係
読売グループでは、1968年のメキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したことによるサッカー人気の高まりに乗る形で、1969年に読売サッカークラブを創設。1977年からは当時のトップリーグである日本サッカーリーグ (JSL) 1部に昇格し、1980年代にはJSLや天皇杯を何度も制する強豪チームに育て上げていた。
1992年、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「東京ヴェルディ」)」を設立、翌1993年に正式スタートした日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に参加。三浦知良・ラモス瑠偉などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年8月1日に目黒区内のサレジオ教会で行われた三浦と日テレの歌番組に出演していた設楽りさ子の結婚式では、媒酌人も務めた。
その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや日本サッカー協会と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、1994年からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。
元々ヴェルディは東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市を本拠地としていた。程無く後々に発生する「本拠地:東京移転を巡るヴェルディと川崎市の確執」は、本拠地移転を経験しながらも地域密着に成功した浦和レッズおよびコンサドーレ札幌と対比される事が多い。また、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都(東京スタジアム(味の素スタジアム))に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になった。
オリンピック
渡邉はオリンピックに対して敵愾心を露にしてきた。2000年シドニー大会野球競技アジア最終予選に際して韓国・台湾のプロ選手が参加を表明したため、アマチュアの日本野球連盟は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。日頃、オリンピックの商業主義を批判してきた渡邉は、巨人からの選手派遣を拒否したが、2004年アテネ大会に際しては、長嶋茂雄日本代表監督をバックアップする形で主力選手を参加させて協力することとなった。
人物
- 前述の通り、政界では中曽根康弘との親交の深さが殊に有名。中曽根の秘書だった小林克己は渡邉と学生時代からの親友だった。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を発揮してきた。
- 中川一郎とは中川がかつて大野伴睦の秘書だったので、家族ぐるみで親しく付き合っていたが彼が右派の議員グループ「青嵐会」を作ってからは疎遠になった。「1982年自由民主党総裁選挙に出馬し、中川さんは最下位。惨敗だった。ある政治家への不信もあって、急に気力をなくしたように見えた。パーティーで久しぶりに会った彼は「中曽根政権下で協力するからナベさんと喧嘩しなくてもすむ。仲良くやろう」と涙を浮べて私の手を取った。異様な感情の高ぶりが腑に落ちなかった。翌年1月に自殺する予兆だったのだろうか。」[41]と述べている。
- 趣味は読書(哲学書など。新進気鋭の哲学者の著書は必ず目を通すという)とクラシック音楽鑑賞。ハムスターを飼っている。喫煙者で、パイプと葉巻たばこを好む。野鳥の餌付けをこよなく愛する。TVドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(橋田壽賀子脚本)の大ファン。
- 『私の死亡記事』(文藝春秋 2004年)という本の中では、自分の死去はカラスを打ち落とそうとして、屋根から転落死(実際、自宅の庭に置いてある野鳥のエサを食べに来たカラスをゴム鉄砲で打ち落そうとしたが、石につまづいて大怪我をした事がある。その後、それが元で日本野鳥の会を除名された)。葬儀は音楽葬の形式で、また、「読売ジャイアンツが2000年から2019年に亘って20連覇し、2018年には長嶋茂雄が世界最年長のプロ野球監督としてこの年新設された“ノーベルスポーツ賞”を初受賞する事が、最大の私への餞別だ」と、本気なのかリップサービスなのか不明な発言をしている。
- アクの強いキャラクターのため、いしいひさいちの四コマ漫画ではよくネタとして取り上げられており、朝日新聞(朝刊)連載中の四コマ漫画ののちゃんに、町内会長のナベツネツネオ(時にワンマンマンというヒーローに変身する)として、準レギュラーで登場している。ナベツネツネオは、人差し指を立てて円を描くように振り回しながら「バカヤロー、バカヤロー」と連呼するのが特徴。
- 酒豪で健啖でもあり、長嶋一茂が連れて行ったカレー専門店では、5種類ほどあったその店の全種類のカレーを注文しすべて平らげたという[42]。
- 清武英利によれば、渡邉の野球知識は素人以前で、巨人の選手やコーチの名前すら覚えていない。当時球団社長の桃井恒和に「いまさら誰にも聞けないんだがな。君、遊撃と二塁はどちらが一塁に近いんだ?」と質問したことがある[43]。
- 「情報保全諮問会議」の座長となった際、高知新聞で「『報道の自由』と相反しかねない特定秘密保護法だけに、取りまとめ役の座長に就くことに違和感が拭えない。」と論評されている[44]。
靖国神社に対する見解
渡邉は、内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対している事で知られ、「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。すべての日本人はいずれも戦犯がどのような戦争の罪を犯したのかを知るべきである」[45]、「今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力で、それを倒す」[46] と述べ、靖国神社の代わりに無宗教の国立戦没者追悼施設を建設すべきと主張している(後述)[47]。また「内務班で受けた暴力をいまでも許せない、だから首相の靖国参拝には反対だ」[48]と本音を語っている。ただし、極東国際軍事裁判の判決が絶対的正義ではない、とも述べている[49]。
2001年から2006年に靖国神社を参拝した当時の首相・小泉純一郎を「愚かな総理大臣」と辛辣に批判しており、小泉が自身の靖国参拝は「心」の問題だと語っていた事に対しては、日本遺族会が選挙における票田になっていることを挙げた上で、小泉が自由民主党総裁選挙の際、遺族会に向けて、自身が首相に就任すれば靖国神社を参拝することを約束していたとして、「私はそれは偽善的であり、彼は心から参拝に行きたいと思っているのではなく、そういうパフォーマンスで、戦犯の遺族から得票を増やすためであったと思っている」と主張している[50]。2006年、ニューヨーク・タイムズのインタビューに対して、渡邉は「(小泉純一郎は)歴史も哲学も知らず、勉強もせず教養も全くない」とまで述べた。渡邉は「小泉首相が『靖国参拝のどこが誤っているのか』『靖国を批判する国は韓国、中国しかない』と愚かな発言をするのは無知から始まったこと」とも述べた[51]。
旧日本軍の戦争行為に対する見方も厳しい。ミッドウェイ海戦とガダルカナル島の戦いでの大敗以来、大日本帝国陸軍・海軍から再び上申された神風特別攻撃隊に対しては「今でも許せない軍の非人間的作戦」[52]としているほか、アッツ島の戦いで大本営が前線にいる兵士に全員自決せよとの命令を出した玉砕に対しては「前線の将兵に対する鬼畜の行為」と怒りを露わにし、戦陣訓を作成したとされる当時の陸軍大臣の東條英機を批判している。渡邉曰く「焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られている所へ行って頭を下げる義理は全く無い」[53]、「加害者と被害者を同じ場所に祀って、同様に追悼、顕彰することは不条理ではないか」[54]。
靖国神社の遊就館に対しては、真珠湾攻撃などの日本が勝利を勝ち取った写真が展示されているため、「非常に有害な場所であり、あれは閉鎖しなければならない」と主張している。また、自民党幹事長だった加藤紘一が遊就館を参観した後、遊就館はまことに行き過ぎだと語ったとも述べている[55]。
2005年、読売新聞社は渡邉の主導のもとで、日本の戦争責任を反省するための「戦争責任検証委員会」を創設し、『戦争責任を検証する』という本にまとめた。日本語版と英語版のほか、2007年には中国語版も新華出版社から出版・発行された[45]。渡邉は中国語版の序文にて、「本書を出版した動機は、日本のこの戦争に対する非人道性及び責任の所在を研究して明白にし、日本人自身の良心に照らして、正確な歴史認識を得てはじめて、被害国と率直かつ友好的な対話が可能になる、との信念からにほかならない」と記している[56]。また朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記にも「読んでほしい」と述べている[57]。
社会民主党は2006年9月7日午後、東京都内で「千鳥ケ淵戦没者墓苑・平和祈念施設提言委員会」を開き、渡邉と意見交換し、渡邉は「世界各国に無名戦士の墓があり、国賓が来た時に訪問する国も多い。日本でこれに該当するのは千鳥ケ淵墓苑だ」と主張し、同墓苑に隣接する公務員宿舎などを廃止して墓苑を拡充、無宗教の追悼施設にする事を提案した。党首(当時)の福島瑞穂は「社民党の考え方と共通点が大変多く、とても参考になった」と応じた[58]。
尊敬している中国人政治家は鄧小平と述べ、渡邉が鄧小平に日本の対中侵略戦争の責任問題についてどう見ているのかと尋ねたところ、鄧小平は侵略戦争を起こしたのは大日本帝国政府と軍隊の中のひと握りのものであり、広範な日本国民に罪はないと言明し、渡邉はこの言葉を聞いた後「親中派」となった、と言う[46]。ただし、2005年の中国における反日活動では「中国の反日暴動は、中国政府の統治能力と国民の文明開化度が日本より半世紀遅れていることを示すもので、いたずらに興奮するのは無益だが、あの暴挙については、日本国政府は厳しく抗議して、損害賠償を求め、国の威信を保たねばならない」と中国側を批判していた[59]。
2013年末に、内閣総理大臣の安倍晋三が靖国神社を参拝した事に対して、幹部たちとの会合で、「あれにはオレも失望した」と漏らしている[60]。2007年には「安倍さんとは歴史観が違うんだ。僕は少年時代から反戦でね。A級戦犯が合祀されている靖国には参拝しない。彼は戦争を知らないから、仕方ないけどね」と述べている[61]。
略年譜
- 4月 - 開成中学校に入学。
- 1945年(昭和20年)
- 4月 - 東京帝国大学文学部に入学。
- 7月 - 砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊[63]
- 12月 - 日本共産党に入党を申し込む。日本青年共産同盟の同盟員を経て、1947年頃、同党の正規の党員になる[64]。入党の動機は天皇制への嫌悪から[65]
- 1947年(昭和22年)
- 1949年 (昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 11月 - 読売新聞社に入社。読売ウィークリーに配属される。高校時代からの学友である氏家齊一郎を誘う。
- 1952年(昭和27年)
- 日本共産党山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入し、拘束されるも、無事解放される。このとき隊のリーダーだった人物が、『生きることの意味』の著者、高史明であったという。このスクープが認められて政治部に異動[67]。
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 中曽根康弘と知り合う。
- 1958年(昭和33年)
- 児玉誉士夫と知り合う。初の著作『派閥』を上梓。
- 1959年(昭和34年)
- 児玉誉士夫邸を初訪問。
- 1960年(昭和35年)
- 1968年(昭和43年)
- 9月 - ワシントン支局長
- 1972年(昭和47年)
- 1月 - 編集局参与。
- 10月 - 解説部長。
- 1975年(昭和50年)
- 6月 - 政治部長兼局次長。
- 1977年(昭和52年)
- 7月 - 編集局総務(局長待遇)。
- 1979年(昭和54年)
- 6月 - 取締役論説委員長。読売の論調に変化。
- 1987年(昭和62年)
- 6月 - 筆頭副社長。
- 1991年(平成3年)
- 1996年(平成8年)
- 読売ジャイアンツのオーナーに就任。
- 1999年(平成11年)
- 2000年(平成12年)
- 中央公論新社から『渡邉恒雄回顧録』を出版。
- 2003年(平成15年)
- 日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任。
- 2004年(平成16年)
- 一場事件の責任をとってジャイアンツオーナーを辞任。
- マスコミ集中排除原則対策としての渡邉名義日本テレビ株の解消に際し、同社株が管理ポストに割り当てられる。
- 2005年(平成17年)
- 横綱審議委員を任期満了で退任。
- ジャイアンツ取締役会長に就任。
- 2006年(平成18年)
- 1月5日に刊行された論座(朝日新聞社)において、靖国神社への首相参拝を非難する内容の対談を若宮啓文・『朝日新聞』論説委員と行う。この年に白内障の手術を受ける。
- 12月 日本経済新聞『私の履歴書』執筆(2007年11月に「君命も受けざる所あり―私の履歴書―」として出版)。
- 2007年(平成19年)
- 第54回カンヌ国際広告祭でメディアパーソン・オブ・ザ・イヤーをアジア人では二番目の受賞。
- 2009年(平成21年)
- 2014年(平成26年)
- 特定秘密の保護に関する法律「情報保全諮問会議」の座長となる[69]。
- ジャイアンツ取締役最高顧問に就任[70]。
- 2016年(平成28年)
- 3月 ジャイアンツ取締役最高顧問を辞任。
- 6月 読売新聞グループ本社会長を退き、読売新聞グループ本社代表取締役主筆となる[71]。
家族・親族
渡邉家
- 父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)の重役だった柳井信治(千葉県 平民[72])は伯父(母・花の実兄)[4]。柳井信治は苦学の末、巨額の資産を築いた立志伝中の人である[4]。
- 渡邉は愛妻家である。妻が事故により認知症になった今でも、出かけるときはキスを忘れない(本人談)。長い夫婦生活で妻は空気のような存在になっていたが、認知症の発症により自分が面倒を見なければならなくなり、妻が愛おしくなったと渡邉は自伝で記している。
受賞歴
- 2002年(平成14年) - 第14回日本メガネベストドレッサー賞経済部門を受賞
- 2008年(平成20年) - 旭日大綬章受章
著書
単著・共著・編著
- 『派閥――保守党の解剖』(弘文堂, 1958年/増補版, 1964年)
- 『大臣』(弘文堂, 1959年)
- 『党首と政党――そのリーダーシップの研究』(弘文堂, 1961年)
- 『政治の密室――総理大臣への道』(雪華社, 1966年/増補改題「派閥と多党化時代」, 1967年)
- 『ホワイトハウスの内幕――アメリカの権力政治』(読売新聞社, 1971年/増補改題「ウォーターゲート事件の背景」, 1973年)
- 『大統領と補佐官――キッシンジャーの権力とその背景』(日新報道, 1972年)
- 『保革連立政権論―― 一九七〇年代後半の政治展望』(ダイヤモンド社, 1974年)
- 『永田町見聞録――政界・派閥・権力の実像』(編著, 東洋経済新報社, 1980年)
- 『ポピュリズム批判――直近15年全コラム』(博文館新社, 1999年)
- 『天運天職――戦後政治の裏面史、半生、巨人軍を明かす』(光文社, 1999年)
- 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社, 2000年/中公文庫, 2007年)、聞き手伊藤隆・御厨貴・飯尾潤
- 『闘争 渡邉恒雄の経営術』(三宅久之共著, ぺんぎん書房, 2005年)
- 『わが人生記――青春・政治・野球・大病』(中公新書ラクレ, 2005年)
- 『「靖国」と小泉首相――渡辺恒雄・読売新聞主筆vs.若宮啓文・朝日新聞論説主幹』(論座編集部編, 朝日新聞社, 2006年)
- 『君命も受けざる所あり――私の履歴書』(日本経済新聞社, 2007年)
- 『反ポピュリズム論』(新潮新書, 2012年)
訳書
- ジェイムズ・M・キャノン編『政界入門』中曽根康弘共訳(弘文堂, 1962年)
- セオドア・ホワイト『大統領になる方法(上・下)』小野瀬嘉慈共訳(弘文堂, 1964年/「大統領への道」に一冊本に改題, 1965年/「大統領職をめぐる死闘」に再改題, 1968年)
脚注
- ^ a b c 魚住昭 『渡邉恒雄 メディアと権力』 p23
- ^ 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p23-24
- ^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p24
- ^ a b c d e f g 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p25
- ^ 目黒の伯父さんとは、母・花の実兄で、父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)の重役・柳井信治のこと(魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p25)
- ^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p26
- ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、27、35-41頁
- ^ 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p36
- ^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p37
- ^ 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社, 2000年
- ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、60-69頁
- ^ 渡辺オーナー発言 署名活動は“大衆迎合”か
- ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、83頁
- ^ 水木楊『誠心誠意、うそをつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』177頁 - 178頁
- ^ 魚住昭 『渡邉恒雄 メディアと権力』 p145
- ^ 『渡邉恒雄回顧録』第3章・第4章などを参照。大野の回想録(『大野伴睦回想録』弘文堂)も大半を渡邉が執筆している。
- ^ 魚住昭 2000, pp. 154–155, 160–166, 204–216
- ^ 杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。
- ^ 魚住昭 2000, p. 132-134,355-360
- ^ 魚住昭 2000, pp. 260–274。この件については、杉山隆男『メディアの興亡』下巻などにも詳しい記述がある。
- ^ 知のゆくえ 第十四回魚住昭 第2週 渡邉恒雄氏の魅力
- ^ 西川伸一 "読売新聞の論調にみる「改憲意識インプット戦略」" 社会主義理論学会会報 第56号 (2004)
- ^ 第136回国会 衆議院 規制緩和に関する特別委員会 第9号(1996年6月5日)
- ^ 衆議院への小選挙区比例代表並立制導入に際し、中曽根が小選挙区における公認を求めない代償として、中曽根を終身的に比例北関東ブロックの名簿一位に載せるという約束を中曽根と当時の自民党執行部(橋本龍太郎総裁及び加藤紘一幹事長)が交わしていたが、小泉は党規の比例代表候補73歳定年制を厳格に適用すべくこの約束を反故とした[要出典]。
- ^ “読売新聞:元論説委員、渡辺会長を提訴”. 毎日新聞. (2010年11月25日), “渡辺恒雄氏を元部下が提訴 「虚偽の発言で名誉棄損」”. 共同通信社. (2010年11月25日)
- ^ メディア・ウォッチング―Tokyo Journalim Review
- ^ 『週刊文春』(2012年11月7日)「渡辺恒雄・読売新聞会長兼主筆が運転免許を不正更新」
- ^ 渡辺恒雄主筆「死亡説を流されたから来たんだよ」5カ月ぶり公の場で周囲にジョーク
- ^ BRUTUS2009年7月15日号
- ^ 【9月26日】2003年(平15) 原辰徳監督 無念の“辞任”「読売グループ内の人事異動」
- ^ 原は渡邉の説得を受け入れ、渡邉自身は特別顧問の肩書で引き続き球団に残った。
- ^ 堀江は仙台ライブドアフェニックス設立構想を持っていたが, この構想は楽天のプロ野球チーム・東北楽天ゴールデンイーグルスの影響で立ち消えとなっている
- ^ asahi.com : ニュース特集 - 球団合併問題「『話をしたい』という古田に、渡辺オーナーが『無礼な』」 - 2004年7月8日21:55配信、2015年12月5日閲覧
- ^ 渡辺会長×選手会全面戦争再燃、25日強制開幕でスト必至 zakzak 2011年3月17日
- ^ 巨人・渡辺会長、25日開幕を主張=プロ野球 時事ドットコム 2011年3月16日
- ^ プロ野球:巨人・渡邉会長「しゃあない」 開幕日再延期 - 2011年4月4日
- ^ 巨人・清武代表、涙の告発「渡辺会長の球団私物化許せない」 デイリースポーツ 2011年11月11日閲覧
- ^ 朝日新聞 2011年11月26日
- ^ 巨人渡辺恒雄最高顧問、白石オーナー、桃井会長辞任 日刊スポーツ 2016年3月8日閲覧
- ^ “巨人、渡辺恒雄最高顧問が引責辞任”. デイリースポーツ. (2016年3月8日) 2016年3月8日閲覧。
- ^ #24 渡邉恒雄(24)中曽根首相売上税導入つまずく 主筆を兼務し社論を指揮
- ^ 『長嶋一茂の言いたいこと言えなかったコト』第34回 週刊新潮2010年1月14日号
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- ^ “日本人に戦争の真相と戦犯犯罪をはっきりと知らせるようにしなければならない─渡辺恒雄氏に対する特別取材 (3/5)”. 北京週報日本語版 (人民網). (2007年8月10日) 2014年2月20日閲覧。
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- ^ 産経新聞2006年9月8日号より。
- ^ 『文藝春秋7月号2005 大論争アンケート 小泉総理 「靖国参拝」是か非か』
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- ^ (毎日新聞2007年6月1日)
- ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、33頁
- ^ 魚住昭 2000, pp. 48–49
- ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、60-61、315頁
- ^ 渡邉自身は自著で敗戦後天皇退位を主張した唯一の政治団体が共産党であったことが入党の理由であると記している。
- ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、69頁
- ^ 高史明は『青春無明』(1983年、径書房)で、渡邉恒雄は『わが人生記』(2005年、中公新書ラクレ)でこの事件について詳しい回想文を書いている。
- ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、112頁
- ^ 特定秘密保護法の有識者会議、初会合を開催議事録全文は非公開にクリスチャントゥデイ2014年1月18日、2014年1月19日観覧
- ^ 久保新社長が就任「ファンに愛され、常勝の巨人を」
- ^ 読売新聞グループ本社、社長に山口氏 白石氏は会長
- ^ 『人事興信録. 7版』(大正14年)や二二
参考文献
- 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社、2000年。ISBN 4-06-209819-9。
- 伊藤隆, 御厨貴, 飯尾潤 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)ISBN 4-12-002976-X
- 『君命も受けざる所あり―私の履歴書―』(日本経済新聞社)ISBN 4-53-216643-8
関連項目
- 読売新聞社
- 水野成夫(共産党から転向→政界と太いパイプを持つ→メディア支配→プロ野球オーナーというところが渡邉と類似している)
- 黒田清
- 三宅久之
- 西山太吉
- 読売ジャイアンツ
- プロ野球再編問題 (2004年)
- 大連立構想 (日本 2007)