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「キネトスコープ」の版間の差分

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[[File:Kinetoscope.jpg|thumb|キネトスコープ(開けて内部構造を見せた状態)。木箱上部にのぞき穴が付いている。]]
{{出典の明記|date=2018年5月}}
'''キネトスコープ'''({{Lang-en-short|Kinetoscope}})は、初期の[[映画]]鑑賞装置である。名称は[[ギリシャ語]]の「''kineto'' (運動)」と「''scopos'' (見る)」を組み合わせたものである{{Sfn|Muser|1994|pp=62-63}}。木箱内をのぞき込む形で映像を見る仕組みで、一度に1人しか見ることができなかった。キネトスコープは[[映写|映写機]]ではないが、その後の映画の基本的技術を備えている。それは連続写真を記録した[[セルロイド]]のロール・フィルムを、[[光源]]の前で[[シャッター (カメラ)|シャッター]]を切りながら高速移動させて動く映像を作り出したことと、[[パーフォレーション]]付きの[[35mmフィルム|35ミリフィルム]]を採用し、映画フィルムの標準を設定したことである。[[1888年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の発明家[[トーマス・エジソン]]が最初のアイデアを考案し、助手の[[ウィリアム・K・L・ディクソン]]が中心になって開発した。彼らはキネトスコープと同時に、[[映画用カメラ]]の'''キネトグラフ'''({{Lang-en-short|Kinetograph}})も開発しており、[[1891年]]8月に両方の特許を申請した。
{{Expand English|Kinetoscope|date=2020年8月}}


1893年5月9日に[[ブルックリン区|ブルックリン]]芸術科学協会でキネトスコープの最初の公開実演が行われ、[[1894年]]4月14日に[[ニューヨーク]]で一般興行が開始した。アメリカの映画文化の誕生に貢献したキネトスコープは[[ヨーロッパ]]でも公開されたが、エジソンがキネトスコープの国際特許を申請しなかったため、多数の模造品が作られた。日本では、[[1896年]]11月25日に[[神戸市]]の神港倶楽部で初めて一般公開された。やがてエジソンが経済的理由で開発しなかった映写機がキネトスコープに取って代わる存在となり、エジソンも1896年に{{仮リンク|ヴァイタスコープ|en|Vitascope}}を発売して映写機を導入した。[[1895年]]にはキネトスコープと[[蝋管]]式[[蓄音機]]を結合した'''[[#キネトフォン|キネトフォン]]'''を開発し、映像と音を同期する試みを行った。
[[画像:Kinetoscope.jpg|thumb|right|キネトスコープ(開けて内部構造を見せた状態)]]
{{Commonscat|Kinetoscope}}
'''キネトスコープ'''({{Lang-en-short|''[[w:Kinetoscope|Kinetoscope]]''}})は、[[トーマス・エジソン]]によって発明([[1891年]])された[[映画]]を上映する装置である。撮影機の方は[[キネトグラフ]]({{Lang-en-short|[[w:Kinetograph|Kinetograph]]}})といい、キネトスコープより先に、同じくエジソンが発明した。


== 概要 ==
== 仕組み ==
キネトスコープは高さ4フィート(約1.2メートル)の木箱でできており、その上部に[[接眼レンズ]]が付いたのぞき穴がある{{Sfn|Robinson|1997|p=34}}。箱の内部には長さが約50フィート(約15メートル){{Sfn|Robinson|1997|p=34}}{{Sfn|マッサー|2015|p=23}}のフィルムが蛇腹状にたたみ込まれており、両端に配置された小さな滑車にかけられている{{Sfn|サドゥール|1992|pp=203-205}}。フィルムの幅は約35ミリで、その両端に1フレームごとに4個ずつ[[パーフォレーション]]が開けられている{{Sfn|藤田|2014|pp=3, 67}}。キネトスコープはコインを入れると、内蔵されている蓄電池で動く[[電動機|モーター]]により作動した{{Sfn|サドゥール|1992|pp=203-205}}{{Sfn|藤田|2014|p=160}}。
[[1893年]]に[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]に出展し、[[1894年]][[4月14日]]には[[ニューヨーク]]のブロードウェイ1155番地に世界初の映画館(キネトスコープ・パーラー)が設置された。キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パーラーが設置されることになった。


フィルムは箱内上部の[[スプロケット]]がパーフォレーションにかみ合うことで、レンズの下を一定速度で連続的に送られた。送られるフィルムの下には[[光源]]のランプがあり、フィルムとランプの間には狭い[[スリット]]の入った回転[[シャッター (カメラ)|シャッター]]が付いていた{{Sfn|Robinson|1997|p=34}}{{Refnest|group="注"|研究家のゴードン・ヘンドリックスによると、シャッターはレンズとフィルムの間に付いていたという{{Sfn|Hendricks|1966|p=14}}。}}。各フレームがレンズの下を通過すると、フィルムの下から照らされるランプの光を回転シャッターが瞬間的に遮り、その明滅する一連のフレームは{{仮リンク|視覚の持続性|en|Persistence of vision}}により動く映像として見ることができた{{Sfn|Robinson|1997|p=34}}。しかし、今日までの映写機と同じ間欠的な駆動方式ではないため、映像が安定的に見れないという欠点があった<ref>{{Cite book|和書 |author=山口康男 |date=2004-5 |title=日本のアニメ全史 世界を制した日本アニメの奇跡 |publisher=テン・ブックス |page=21}}</ref>。フィルムの駆動速度は毎秒40フレーム(40[[フレームレート|fps]]){{Sfn|Hendricks|1966|pp=6-8}}<ref>{{Cite web |url=https://www.victorian-cinema.net/features |title=Features |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月17日}}</ref>で、1つの作品の上映時間は約20秒ほどしかなかったが、フィルムはループ状になっており、同じ映像を何度も続けて見ることができた{{Sfn|サドゥール|1992|pp=203-205}}<ref>{{Cite book|和書 |editor=飯田豊編 |date=2017-4 |title=メディア技術史 デジタル社会の系譜と行方 |publisher=北樹出版 |page=48}}</ref>。
スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき込む形になる。当時は「ピープショー」とも呼ばれた<ref>ピープ(英・peepとは、英語で覗く(のぞく)という意味。</ref>。一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投影される形の映画(シネマ)は、[[1895年]]、[[リュミエール兄弟]]によって発明された「[[シネマトグラフ]]」の登場を待つことになる。


== 開発 ==
1896年11月上旬、神戸のリネル商会がエジソン発明のキネトスコープ2台、フィルム10種を輸入した。高橋信治らが購入し、11月17日、神戸で映写した<ref>日本映画発達史 田中純一郎</ref>。
=== 初期のシリンダー式装置 ===
[[File:MonkeyshinesStrip.jpg|thumb|エジソンが開発初期に考案したシリンダー式キネトグラフでテスト撮影した『{{仮リンク|モンキーシャインズ|en|Monkeyshines}}』(1889年または1890年頃)のフィルムのシート。]]
[[1888年]]2月25日、連続写真の技法を開拓した写真家[[エドワード・マイブリッジ]]が、[[ニュージャージー州]]オレンジ近郊で{{仮リンク|ズープラキシスコープ|en|Zoopraxiscope}}を用いた講演を行った。ズープラキシスコープは連続写真を元にした絵を描いたガラスの円盤を高速回転してスクリーンに投影し、静止画が一つの動きに見えるようにする装置である{{Sfn|マッサー|2015|pp=15-16}}{{Sfn|藤田|2014|pp=21-22}}。その2日後、マイブリッジは{{仮リンク|ウエスト・オレンジ|en|West Orange, New Jersey}}にあるエジソンの研究所でエジソンと会談し、彼が発明した[[蓄音機|フォノグラフ]]([[蝋管]]式蓄音機)とズープラキシスコープを連結して、映像と音声を同期させることを提案したが、実現には至らなかった。映画史家の{{仮リンク|チャールズ・マッサー|en|Charles Musser}}によると、マイブリッジとの出会いが「エジソンにとって映画発明の最初のひらめきとなったかもしれない」という{{Sfn|マッサー|2015|pp=15-16}}。同年10月8日、エジソンはキネトスコープに関する最初の特許保護願{{Refnest|group="注"|特許保護願は、将来特許を申請する発明について事前に通知する法的文書のことである{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}。}}を提出した。エジソンはこの文書で、映像を記録する装置を「キネトグラフ」、再生する装置を「キネトスコープ」と名付けている{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}。保護願の原稿の冒頭には、以下の内容が記述されている。
{{Quote|私はフォノグラフが耳に与えるのと同じことを目に与える装置を実験している。それは動いているものを記録し再現するものであり、安価で便利な形をとっている{{Sfn|藤田|2014|pp=39-41}}。}}


エジソンの最初のアイデアは、フォノグラフの技術的原理を応用したシリンダー式で、幅1/32[[インチ]](約0.8ミリ)の写真を[[シリンダー]]に螺旋状に配置し、回転するシリンダーが[[レンズ]]を通過する時にシャッターが開閉するカメラで撮影するというものだった{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}。ポジ画像用の不透明な素材またはネガ画像用のガラスで作られたシリンダーは、写真感光剤として[[コロジオン]]が全体を覆うように塗布された{{Sfn|Spehr|2008|p=91}}。撮影された一連の画像は[[顕微鏡]]のような鑑賞装置で覗いて見るという仕組みで、エジソンはフォノグラフの音を聞きながら動く映像を見ることができるとし、非常に大きいシリンダーを使えばスクリーンに映写することもできると考えていた。しかし、得られる画像は小さく、シリンダーの表面が曲面のため[[焦点 (光学)|焦点]]もうまく合わないなどの問題が生じた。[[1889年]]2月、エジソンは平らな表面を持つシリンダーを導入した2度目の特許保護願を提出した{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}。
[[日本]]でエジソンが発明したキネトスコープを初上映したのは[[神戸市|神戸]]の[[神港倶楽部]]で、[[1896年]][[11月25日]]から[[12月1日]]までであった。日本の[[映画の日]]が[[12月28日]]から12月1日に変更されたのは、この日付に因むためと言われる<ref>リュミエールが発明したスクリーン式の「シネマトグラフ」は、[[1897年]]、大阪の南地演舞場や京都で披露されている。</ref>。

同年6月、エジソン研究所の従業員[[ウィリアム・K・L・ディクソン]]が映画装置の開発に配属された{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}。ディクソンの助手にはチャールズ・A・ブラウンが就いた。エジソンは映画装置のアイデアを考案して実験を始めたが、その開発作業はディクソンを中心とするエジソン研究所の従業員によるチームで行われ、現代の研究家のほとんどはディクソンが開発の大きな貢献者としている<ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/collections/edison-company-motion-pictures-and-sound-recordings/articles-and-essays/history-of-edison-motion-pictures/origins-of-motion-pictures/ |title=Origins of Motion Pictures |website=Library of Congress |language=英語 |accessdate=2020年11月18日}}</ref>。マッサーは、エジソンの映画の発明はエジソンとディクスンの異なる資質が協力し合った結果であり、エジソンは最初のアイデアを発展させ、その基本原理に基づいてディクスンが改良を進めたとしている{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}。

同年初夏に書かれた3度目の特許保護願では、これまでのシリンダーの表面に感光乳剤を直接塗る方法ではなく、ガラスのシリンダーに[[写真フィルム]]を覆う方法が記述された{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}。ディクソンは{{仮リンク|ジョン・カーバット|en|John Carbutt}}のキーストン・ドライ・プレート・ワークス社が製造した[[セルロイド]]の写真フィルムのシートを使用し、幅が約1/4インチ(約6ミリ)のより大きな画像を採用した{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}{{Sfn|Spehr|2008|p=138}}。この写真フィルムを使うシリンダー式キネトグラフで実験的に撮影したのが『{{仮リンク|モンキーシャインズ|en|Monkeyshines}}』である。この作品は3本の映像が残されており、いずれも黒地の背景に白い衣装を着た従業員が大きく身振りをする姿が記録されている。撮影時期については1889年6月説と1890年11月説があり、未だにこの議論は決着していない{{Refnest|group="注"|被写体の従業員について、1889年6月説では{{仮リンク|フレッド・オット|en|Fred Ott}}{{Sfn|Spehr|2008|p=151}}、1890年11月説では{{仮リンク|G・サッコ・アルバニーズ|fr|G. Sacco Albanese}}とされている{{Sfn|Musser|1997|pp=71-72}}。}}。

=== ストリップ式装置への変更 ===
1889年8月初旬、エジソンは[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]へ出発した{{Refnest|group="注"|エジソンのパリ出発の日付について、映画史家のデヴィッド・ロビンソンは8月2日{{Sfn|Robinson|1997|p=27}}、ゴードン・ヘンドリックスは8月3日としている{{Sfn|Hendricks|1961|p=48}}。}}。エジソンは2ヶ月間[[ヨーロッパ]]に滞在したが、その間もディクソンは実験を進めていた。パリ訪問中にエジソンは[[エティエンヌ=ジュール・マレー]]と出会い、彼が発明した{{仮リンク|クロノフォトグラフィ|en|Chronophotography}}の存在を知った。マレーのカメラは紙のロール・フィルムが一定間隔でレンズを通過する方法により、一連の連続写真を撮影する仕組みだった{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}。アメリカに戻ったエジソンは、11月2日に4度目の特許保護願を提出した。そこでは従来のシリンダー式ではなく、クロノフォトグラフと同じストリップ式の装置が記述された。それはパーフォレーションを付けたロール・フィルムを、歯のついた輪にかみ合わせて動かし、レンズの前で毎秒10フレームの速度で撮影するという方法で、フィルムをスクリーンに映写することも想定されていた{{Sfn|マッサー|2015|pp=17-19}}{{Sfn|藤田|2014|pp=63-66}}。多くの研究者はエジソンがシリンダー式からストリップ式に転換したのはマレーの影響であるとしているが{{Sfn|Musser|1994|p=66}}{{Sfn|Robinson|1997|p=28}}{{Sfn|Hendricks|1961|p=171}}、エジソンや従業員の証言では、エジソンのパリ出発前からストリップ式のキネトグラフを開発していたとしている{{Sfn|藤田|2014|pp=94-107}}。ロール・フィルムは、8月27日に[[コダック|イーストマン社]]が発売したセルロイド製を使用した{{Refnest|group="注"|ディクソンによると、それまではカーバットから供給されたセルロイドシートをストリップ状に切断して使用していたが、カーバットのシートは重くて硬い素材だったためストリップ式には向かなかったという{{Sfn|藤田|2014|pp=116-123}}{{Sfn|Spehr|2008|p=138}}。イーストマンによると、フィルムの発売直前の8月24日にディクソンに一巻のロール・フィルムを送ったという{{Sfn|藤田|2014|pp=116-123}}。}}。この保護願はストリップ式の移行とパーフォレーションの導入により、エジソンの映画システムの基本原理を確立した{{Sfn|藤田|2014|pp=3, 67}}{{Sfn|マッサー|2015|pp=19, 22}}。

[[File:KinetographKayser2bis.jpg|thumb|left|200px|ディクソンの助手のチャールズ・H・カイザー。その手前にあるのが横送り式のキネトグラフである。]]
[[1890年]]2月頃からキネトスコープは新聞や雑誌に取り上げられるようになり、2月2日の[[ニューヨーク・ヘラルド]]紙には「話し手の仕草を捉える」という見出しの記事で紹介され、キネトグラフは毎秒8~20フレームの撮影が可能と伝えられている<ref name="訳者解説">藤田純一「訳者解説1 映画の始まりと表現様式の変化」({{Harvnb|マッサー|2015|pp=208-209}})</ref>。しかし、同年にエジソンはディクソンを連れて、[[鉄鉱石]]の磁気[[選鉱]]の研究に集中していた{{Sfn|マッサー|2015|p=22}}{{Sfn|サドゥール|1992|p=202}}。そのため5月から10月までは、研究所のキネトスコープ事業の[[勘定科目|アカウント]]に支出や就労状況が記録されておらず、キネトスコープの開発作業は中断されていたと考えられている{{Sfn|藤田|2014|pp=155-157}}。10月にキネトスコープの開発に戻ると、[[ウィリアム・ハイセ|ウィリアム・ハイス]]が新たにディクソンの助手に就いた{{Sfn|マッサー|2015|p=22}}。当時は{{仮リンク|フレッド・オット|en|Fred Ott}}、その兄のジョン・オット、{{仮リンク|ユージン・ロースト|fr|Eugene Lauste}}などの従業員も開発に参加していた{{Sfn|サドゥール|1992|pp=203-205}}{{Sfn|藤田|2014|p=160}}。

1891年春までにディクソンとハイスは、4度目の特許保護願に基づくストリップ式によるキネトグラフを開発し、[[ボクシング]]や体操選手、[[パイプ (たばこ)|パイプ]]をくゆらす従業員などを写した短いフィルムを撮影した{{Sfn|マッサー|2015|p=22}}。このキネトグラフはモーター駆動で、カメラ内のフィルムの間欠的な動きを実現するため、各フレームをレンズの前で[[露出 (写真)|露光]]するのに十分な時間停止させ、次のフレームに素早くスプロケットで送る仕組みになっており、この技術は現代の映画用カメラでも使われている<ref>{{Cite web |url=http://www.filmreference.com/encyclopedia/Academy-Awards-Crime-Films/Camera-DEVELOPMENT-OF-THE-MOTIONPICTURE-CAMERA.html |title=Development of the motionpicture camera |website=Film Reference |accessdate=2020年11月18日}}</ref>。フィルムは幅が3/4インチ(約19ミリ)で、現在のフィルムと同じ縦送りではなく、水平方向に走る横送りであり、フィルムの片端にだけパーフォレーションが開けられていた{{Sfn|マッサー|2015|p=22}}。同時にディクソンとハイスは、横送り式のフィルムを使用したのぞき穴のキネトスコープを製作した{{Sfn|Robinson|1997|p=31}}。

[[File:Courtesy Edison National Historic Site, West Orange, NJ.jpg|thumb|280px|19ミリフィルムを使用した横送り式キネトグラフ(1891年頃)。]]
1891年5月20日、エジソンは妻のマイナ・エジソンを訪ねて来たアメリカ婦人クラブの会員147人を研究所に案内し、そこで[[プロトタイプ]]の横送り式のキネトスコープを披露した。この時に上映されたのは、ディクソンが帽子をとって挨拶をする姿を撮影した『''[[:en:Dickson Greeting|Dickson Greeting]]''』という短い作品だった{{Sfn|マッサー|2015|pp=13-14}}。[[ニューヨーク・サン]]紙は彼女たちが見た映像について、「男はお辞儀をして微笑み、手を振り、自然かつ優雅に帽子を脱いでみせた。すべての動きが完璧だった<ref>{{Cite book|last=Robertson |first=Patrick |year=2001 |title=Film Facts |publisher=Billboard Books |page=5}}</ref>」と記述している。6月13日の{{仮リンク|ハーパーズ・ウィークリー|en|Harper's Weekly}}誌と、同月20日の[[サイエンティフィック・アメリカン]]誌には、横送り式のフィルムの図版が掲載された<ref name="訳者解説"/>。

[[1892年]]夏までにキネトグラフは縦送り式に改良され、マッサー曰く「我々が現代的な映画カメラと呼ぶもの」が完成した{{Sfn|マッサー|2015|p=23}}。同年10月にフォノグラム誌の「新しい産業の予感」という記事にキネトグラフが公式発表され、縦送りのフィルムの図版が掲載された{{Sfn|Musser|1994|pp=72-74}}{{Sfn|Spehr|2008|p=257}}。フィルムは実質的に[[35mmフィルム|35ミリ]]のフォーマットであり、パーフォレーションは両端に4個ずつ付けられた{{Sfn|マッサー|2015|p=23}}<ref name="年表">{{Cite web |url=https://www.filmsite.org/milestonespre1900s_2.html |title=Film History Milestones - Pre-1900s |website=filmsite.org |language=英語 |accessdate=2020年11月15日}}</ref>。この規格は後に映画フィルムの国際標準に採用され、現代までその基本構造はほとんど変化していない{{Sfn|藤田|2014|pp=3, 67}}<ref>{{Cite book|和書 |author=石原香絵 |date=2018-3 |title=日本におけるフィルムアーカイブ活動史 |publisher=美学出版 |pages=51-52}}</ref>。エジソンは当初のイーストマン社ではなくブレア・カメラ社のフィルムを注文し、[[1896年]]まで同社がエジソンのフィルムの供給者となった<ref>{{Cite web |last=Rossell |first=Deac |url=https://www.victorian-cinema.net/blair.php |title=Thomas Henry Blair |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月7日}}</ref>{{Refnest|group="注"|1986年にエジソンが映写機のヴァイタスコープを販売すると、ブレア・カメラ社のフィルムが映写に適していないことが分かり、フィルムの供給先をイーストマン社に切り替えている{{Sfn|マッサー|2015|pp=41-42}}。}}。一方、キネトスコープは1892年6月にコインを入れて動く仕組みによる試作機が作られ<ref name="訳者解説"/>、[[1893年]]2月に商品化に向けた耐久性のテストが行われた{{Sfn|藤田|2014|pp=171-172}}。

=== 特許の申請と交付 ===
1891年8月24日、エジソンはキネトスコープとキネトグラフに関する3件の特許を申請した。1件目は「キネトグラフ・カメラ(''Kinetographic Camera'')」、2件目は「写真撮影用の方法および装置の改良(''Improvement in Model & Apparatus for Taking the Pictures'')」、3件目は「運動する被写体の写真を見せる装置(''Apparatus for Exhibiting Photographs of Moving Objects'')」である{{Sfn|藤田|2014|pp=164-167}}{{Sfn|Spehr|2008|pp=225-227}}。そのうち3件目は1893年3月14日に特許が交付されたが、1件目は[[1897年]]8月31日にようやく特許が交付された{{Sfn|藤田|2014|pp=164-167}}。2件目は内容が撮影装置と鑑賞装置の橋渡しを果たすものであり、その相互関連性が特許庁に認められなかった{{Sfn|Spehr|2008|pp=225-227}}。そこで2件目は申請内容が分割され、1892年4月11日にその一部が「ストップ機構(''Stop Device'')」として申請され、1893年2月21日に交付された。ストップ機構は高速で写真を撮影するときに、歯車が回転して止まる間欠的な動作を確実にするためのメカニズムである{{Sfn|藤田|2014|pp=164-167}}。

== 映画撮影と公開 ==
=== 商業利用に向けた準備 ===
[[File:Black Maria.jpg|thumb|280px|ブラック・マリアの外観。]]
1892年12月、エジソンは研究所内にディクソンが設計した{{仮リンク|ブラック・マリア (映画スタジオ)|label=ブラック・マリア|en|Edison's Black Maria}}という[[映画スタジオ]]の建設を始めた。ブラック・マリアは世界初の映画撮影専用のスタジオであり、その名前は建物全体が黒い[[乾溜液|タール]]紙に覆われており、それが[[護送車|囚人護送車]]に似ていたことにちなんでいる。建物は長方形の箱型で、撮影に必要な[[太陽光]]を取り入れるため、太陽の位置に合わせて回転することができた。1893年2月にブラック・マリアが完成し、4月までにディクソンとハイスにより最初の商業用映画『{{仮リンク|鍛冶屋の場面|en|Blacksmith Scene}}』が撮影された。ブラック・マリアはその後数年間、エジソンの映画撮影の中心となった{{Sfn|マッサー|2015|pp=23, 25-26}}。

[[File:Fred Ott Sneeze L.gif|thumb|left|『[[フレッド・オットのくしゃみ]]』(1894年)は[[アメリカ議会図書館]]に著作権登録された現存最古の映画である<ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/item/95505651/ |title=Edison kinetoscopic record of a sneeze / taken & copyrighted by W.K.-L. Dickson, Orange, N.J. |website=Library of Congress |language=英語 |accessdate=2020年11月10日}}</ref>。]]
キネトスコープの最初の公式実演は、1893年5月9日にブルックリン芸術科学協会の物理学部門の月例集会で行われた<ref>{{Cite news |title=First Public Exhibition of Edison’s Kinetograph |newspaper=Scientific American |date=20 Mai 1893 |page=310}}</ref>。この時に上映されたのは『鍛冶屋の場面』で、400人以上の参加者が順番にキネトスコープを覗き込み、全員が見終わるまで数時間かかった{{Sfn|マッサー|2015|pp=28-29}}。6月にエジソンは機械工のジェームズ・イーガンに25台のキネトスコープを発注し、商業利用に向けて準備を進めた{{Sfn|藤田|2014|p=172}}。エジソンは同年夏に[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]でキネトスコープを発表する計画を立てていたが、ディクソンが病気休養となり、発注品の準備が間に合わなかったため、出品されることはなかった{{Sfn|マッサー|2015|pp=28-29}}{{Sfn|岩本|2011|p=27}}{{Sfn|Hendricks|1966|pp=28-33}}。

[[1894年]]1月上旬、ブラック・マリアで『[[フレッド・オットのくしゃみ]]』が撮影された。この作品は商業用ではなく、ハーパーズ・ウィークリー誌に掲載される記事の図版用として宣伝目的で作られた{{Sfn|マッサー|2015|pp=28-29}}。3月からディクソンとハイスは商業用作品の撮影を始めた。3月6日には世界的なボディビルダーの[[ユージン・サンドウ]]が研究所を訪問し、ブラック・マリアでサンドウがポーズをとる姿を写した『''[[:en:Sandow (film)|Sandow]]''』が撮影された{{Sfn|マッサー|2015|p=30}}。サンドウに続き、3月10日から16日の間には[[スペイン人]]ダンサーの{{仮リンク|カルメンシータ|en|Carmencita}}がダンスをする姿が撮影された。カルメンシータはキネトグラフの前に立った最初の女性であり、アメリカで映画に出演した最初の女性と考えられている<ref name="年表"/><ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/item/00694116/ |title=Carmencita |website=Library of Congress |language=英語 |accessdate=2020年11月8日}}</ref>。さらに4月までに女性曲芸師エナ・ベルトルディのパフォーマンス、[[闘鶏]]、理髪店の再現場面など、主に男性観客向けの内容のフィルムが撮影された{{Sfn|Robinson|1997|p=43}}。

=== キネトスコープの一般公開 ===
[[File:KinetoscopeParlorbis.jpg|thumb|[[サンフランシスコ]]のキネトスコープ・パーラーの店内(1894~1895年頃)。]]
1894年4月、エジソンはキネトスコープの事業を研究所から{{仮リンク|エジソン製造会社|en|Edison Manufacturing Company}}(以下エジソン社)に移した。それまでのキネトスコープとキネトグラフの開発費は、ブラック・マリアの建設費を含めて2万4000ドル以上にのぼった{{Sfn|Musser|1994|p=75}}。4月14日、[[ニューヨーク]]の[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]1115番地にホランド兄弟が所有する「キネトスコープ・パーラー」の1号店が開店した<ref name="ホランド兄弟">{{Cite web |last=McKernan |first=Luke |url=https://www.victorian-cinema.net/holland |title=Holland brothers |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月8日}}</ref>。店内には最初に製造したキネトスコープ25台のうち10台が設置され、それぞれ異なる作品が上映された。観客は25セントを払うことで5台のキネトスコープを覗き見ることができた{{Sfn|マッサー|2015|p=30}}。興行を取り仕切ったアルフレッド・O・テートによると、4月16日に開く予定だったが、準備を終えた14日にはエジソンの新発明を見ようと人だかりができていて、その夜の夕食代を稼ごうと一足早く開店し、深夜まで客が途絶えることがなかったという<ref>{{Cite book|last=Tate |first=Alfred O. |year=1938 |title=Edison’s Open Door |publisher=E. P. Dutton & Co., Inc |location=New York |pages=285-287}}</ref>。

同年5月17日、[[シカゴ]]の[[フリーメイソン]]の集会所にホランド兄弟が運営するキネトスコープ・パーラーの2号店が開かれ、10台のキネトスコープが設置された<ref name="ホランド兄弟"/>{{Sfn|サドゥール|1992|pp=208, 211-212}}。6月1日には[[サンフランシスコ]]にもキネトスコープ・パーラーが開店した<ref name="キネトスコープ年表">{{Cite web |url=https://www.victorian-cinema.net/when_chrono |title=A CHRONOLOGY OF THE WORLD'S FILM PRODUCTIONS AND FILM SHOWS BEFORE MAY 1896 |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月11日}}</ref>。エジソンはキネトスコープとフィルムの販売を市場化するため、ノーマン・ラフとフランク・ガモンが経営する{{仮リンク|キネトスコープ社|en|Raff & Gammon}}にアメリカと[[カナダ]]での独占販売権を与えた{{Sfn|マッサー|2015|p=33}}<ref name="ラフとガモン">{{Cite web |last=Herbert |first=Stephen |url=https://www.victorian-cinema.net/raff |title=Norman C. Raff and Frank R. Gammon |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月8日}}</ref>。キネトスコープ社や他の販売業者は、エジソン社から200ドルまたは250ドルでキネトスコープを購入し、それを自社が所有するキネトスコープ・パーラーに設置するか、他の興行者たちに350ドルで再販した{{Sfn|サドゥール|1992|pp=208, 211-212}}{{Sfn|マッサー|2015|p=33}}{{Sfn|Hendricks|1966|pp=13, 56, 59}}。フィルムは1本あたり10ドルで販売された{{Sfn|Hendricks|1966|pp=13, 56, 59}}。[[1895年]]2月までにキネトスコープとフィルムの販売額は18万ドルを計上し、エジソン社は8万9000ドルの利益を得た{{Sfn|マッサー|2015|p=33}}。

=== キネトスコープ映画 ===
[[File:Annie Oakley shooting glass balls, 1894.ogv|thumb|『[[:en:Annie Oakley (1894 film)|Annie Oakley]]』(1894年)は、[[アニー・オークレイ]]の早撃ちを撮影した作品である。]]
1894年の夏から秋にかけて、エジソン社は需要が増えたキネトスコープの上映用作品を撮影するため、ブラック・マリアに多くの有名な芸人やダンサーを招いた{{Sfn|マッサー|2015|pp=31-32}}。映画史家の{{仮リンク|ジョルジュ・サドゥール|fr|Georges Sadoul}}によると、エジソンは蓄音機の蝋管を売り出した時に、有力芸人が出演した録音ほど売れたことから、キネトスコープ映画にも芸人たちを起用したという{{Sfn|サドゥール|1993|pp=50-51, 62-63}}。[[岩本憲児]]によると、キネトスコープ映画の題材は観客の強い関心や好奇心を引き付けるものでなければならないため、アクロバットやダンスなどの訓練された身体技術を見世物とする芸人や達人たちが撮影されたという{{Sfn|岩本|2011|pp=16-17}}。しかし、キネトグラフは大型で重量があり、持ち運びに不便なためブラック・マリアの中に固定され、屋外で撮影されることはほとんどなかった。また、多くの作品は太陽光を取り入れるため、黒い背景の前で撮影された{{Sfn|サドゥール|1992|pp=208, 211-212}}。

この時期に主にエジソン社が撮影したものに、ジュアン・カイセドの[[綱渡り]]、ルイス・マルティネッティの[[つり輪]]、[[リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス|バーナム・アンド・ベイリー・サーカス]]の異国のダンス、グレンロイ兄弟の[[バーレスク]]、黒人の[[ケークウォーク]]などがある{{Sfn|マッサー|2015|pp=31-32}}{{Sfn|サドゥール|1993|pp=50-51, 62-63}}{{Sfn|Spehr|2008|p=343}}。その中には日本の[[芸妓]]の手踊りを撮影した作品も存在する{{Refnest|group="注"|この作品の原題は『インペリアル・ジャパニーズ・ダンス』で、1894年10月から11月に撮影された{{Sfn|岩本|2011|pp=16-17}}。被写体である芸妓の正体について、映画史家の[[田中純一郎]]は、1893年のシカゴ万博に日本から出店した茶店の接待係として派遣された[[祇園]]の芸妓であるとしている{{Sfn|田中|1976|pp=34-35}}。一方、岩本憲児は、関西の舞妓という触れ込みでシカゴ万博で踊るために派遣され、アメリカの劇場で『[[ミカド (オペレッタ)|ミカド]]』に出演した日本人であるとしている{{Sfn|岩本|2011|pp=19-20}}。}}。[[バッファロー・ビル]]の{{仮リンク|ワイルド・ウエスト・ショー|en|Wild West shows}}の座員も出演しており、[[アニー・オークレイ]]の射撃、[[スー族]][[インディアン]]のゴースト・ダンスなどが撮影された{{Sfn|サドゥール|1993|pp=50-51, 62-63}}{{Sfn|Spehr|2008|p=342}}。[[アナベル・ムーア]]が蛇や蝶のダンスをする映画は特に人気があり、[[1897年]]までに彼女のダンス映画が何度も撮影された{{Sfn|マッサー|2015|pp=31-32}}。こうした芸やダンスを撮影した作品だけでなく、酒場や火事現場などの風景を再現した作品、[[ブロードウェイ]]の[[ミュージカル]]『''Milk White Flag''』のハイライトを撮影した作品、『''Robetta and Doretto, [no. 2]''』のようなコミカルなシチュエーションを持つ作品も存在する{{Sfn|サドゥール|1993|pp=50-51, 62-63}}<ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/item/00694111/ |title=Band drill |website=Library of Congress |language=英語 |accessdate=2020年11月10日}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/item/00694137/ |title=Robetta and Doretto, [no. 2] |website=Library of Congress |language=英語 |accessdate=2020年11月10日}}</ref>。

=== レイサム兄弟のボクシング映画 ===
[[File:Leonard Cushing Kinetograph 1894.ogv|thumb|left|1894年6月に撮影されたレナード対カッシングのボクシング試合。キネトグラフで記録された1分間の各ラウンドの映像は、22.50ドルで興行者に提供された<ref name="ボクシング">{{Cite web |url=https://www.loc.gov/item/00694127/ |title=Leonard-Cushing fight |website=Library of Congress |language=英語 |accessdate=2020年11月8日}}</ref>。]]
1894年夏にグレイ・レイサムとオトウェイ・レイサムの兄弟は、同級生の{{仮リンク|イノック・J・レクター|en|Enoch J. Rector}}とサミュエル・J・ティルデンとともにキネトスコープ公開会社(''Kinetoscope Exhibition Company'')を設立し、エジソン社の認可を受けて[[ボクシング]]の映画をキネトスコープで上映した{{Sfn|サドゥール|1992|pp=247-249}}<ref name="レイサム">{{Cite web |last=Herbert |first=Stephen |url=https://www.victorian-cinema.net/latham |title=Major Woodville Latham, Grey Latham and Otway Latham |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月8日}}</ref>。従来のキネトスコープは約50フィートの長さのフィルムしか入らず、毎秒40fpsで上映時間が20秒しかなかったため、長いボクシングの試合を上映することができなかった。そのためレクターの要請により、研究所は150フィートのフィルムが入る大容量のキネトスコープを製造し、上映時間を1分近くにまで増やすことに成功した{{Sfn|サドゥール|1992|pp=247-249}}<ref name="初期映画史">{{Cite web |url=http://cinemathequefroncaise.com/Chapter1-2/CHAPTER_01_PART_02.html |title=FROM THE MAGIC LANTERN TO THE PROJECTED MOTION PICTURE |website=AN ILLUSTRATED HISTORY OF THE EARLY CINEMA |language=英語 |accessdate=2020年11月9日}}</ref>。6月14日、ブラック・マリアでマイケル・レナード対ジャック・カッシングのボクシング試合を6ラウンド分撮影したが、1ラウンドの時間はフィルムの最大容量に相当する1分間に短縮され、試合はあらかじめ成り行きが決められていた<ref name="ボクシング"/>{{Sfn|サドゥール|1992|pp=247-249}}{{Sfn|Musser|1994|pp=82-83}}。

8月、レイサム兄弟はニューヨークの[[ナッソー・ストリート (マンハッタン)|ナッソー・ストリート]]83番地にボクシング映画専門のキネトスコープ・パーラーを開店し、店内に6台の大容量のキネトスコープを設置してレナード対カッシングの試合を上映した{{Sfn|サドゥール|1992|pp=247-249}}<ref name="レイサム"/>。1台のキネトスコープで1ラウンドの試合を見ることができたが、そのために10セントを支払う必要があり、全試合を見るには60セントも支払わなければならなかった<ref name="年表"/>。それでもアメリカ人のボクシング熱が高いこともあり映画は成功を収め、行列を整理するために警察を呼ばなければならないほどだった{{Sfn|サドゥール|1992|pp=247-249}}。続いてレイサム兄弟は[[ヘビー級]]王者の[[ジェームス・J・コーベット]]と契約を結び、9月7日にブラック・マリアでコーベット対ピーター・コートニーの試合を6ラウンド分撮影した。試合は第6ラウンドでコーベットが[[ノックアウト]]するように取り決められ、コーベットには5000ドルのギャラが支払われた<ref>{{Cite web |last=McKernan |first=Luke |url=https://www.victorian-cinema.net/corbett |title=James J. Corbet |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月9日}}</ref>。

=== ヨーロッパでの公開と模造品 ===
[[File:KinetoscopeLondonbis.jpg|thumb|1894年10月17日にロンドンで最初のキネトスコープ・パーラーが開店したことを発表する広告。]]
1894年、フランク・マグワイアとジョゼフ・ボーカスが経営する大陸通商社(''Continental Commerce Company'')は、[[ヨーロッパ]]におけるキネトスコープとフィルムの販売代理店となり、10月17日に[[ロンドン]]の[[オックスフォード・ストリート]]70番地にキネトスコープ・パーラーを開設した{{Sfn|マッサー|2015|p=33}}<ref>{{Cite web |last=Gray |first=Frank |url=https://www.victorian-cinema.net/maguire |title=Maguire & Baucus |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月10日}}</ref>。同月にはパリのポワソニエール大通り20番地に、{{仮リンク|ヴェルネル兄弟|fr|Eugène et Michel Werner}}が運営するキネトスコープ・パーラーが開店した<ref name="ヴェルネル">{{Cite web |last=Herbert |first=Stephen |url=https://www.victorian-cinema.net/werner |title=Alexis, Michel and Eugène Werner |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月10日}}</ref>。続いて、12月に[[コペンハーゲン]]と[[アムステルダム]]、[[1895年]]2月に[[ストックホルム]]、3月に[[リスボン]]と[[ベルリン]]でキネトスコープが上映された<ref name="キネトスコープ年表"/>。しかし、エジソンはキネトスコープの国際特許を申請していなかったため、ヨーロッパではヴェルネル兄弟を含む数人の発明家により、キネトスコープの模造品が作られた<ref name="ヴェルネル"/>{{Sfn|Robinson|1997|p=50}}。

ロンドンの光学器械製造業者の[[ロバート・W・ポール]]は、1894年に[[ギリシャ人]]興行師のゲオルギ・ゲオルギアデスとゲオルギ・トライェディスの依頼を受けて、廉価なキネトスコープの模造品を製造した{{Sfn|サドゥール|1992|p=263}}<ref name="ポール">{{Cite web |last=Barnes |first=John |url=https://www.victorian-cinema.net/paul |title=Robert William Paul |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月11日}}</ref>。それを知ったエジソン社は上映用作品の提供を拒否し、打撃を受けたゲオルギアデスとトライェディスはポールに新作映画を作るように頼んだ{{Sfn|サドゥール|1992|p=263}}。ポールは写真家の{{仮リンク|バート・エイカーズ|en|Birt Acres}}と組んで、1895年にポール=エイカーズ・カメラを開発し、エイカーズが『''[[:en: The Derby (1895 film)|The Derby]]''』『''[[:en:Rough Sea at Dover|Rough Sea at Dover]]''』などのキネトスコープ用作品を撮影した<ref name="ポール"/>。これらの作品はイギリスで作られた最初の商業用映画の一つである<ref name="ポール"/>。

フランスの蓄音機販売業者の{{仮リンク|シャルル・パテ|fr|Charles Pathé}}は、1895年3月にロンドンでポールが製造したキネトスコープの模造品を手に入れ、[[ヴァンセンヌ]]の店で興行師向けに販売した<ref name="ジョリ">{{Cite web |last=Mannoni |first=Laurent |url=https://www.victorian-cinema.net/joly |title=Henri Joly |website=Who's Who of Victorian Cinema |language=英語 |accessdate=2020年11月12日}}</ref>。しかし、キネトスコープは1台に1人しか見れないため商売にならないうえに、パテの元にはフィルムが数本しかなく、すぐに観客に飽きられてしまった。キネトスコープを興行に利用しようとパテの店を訪れた{{仮リンク|アンリ・ジョリ|fr|Henri Joly (cinéma)}}は、そのことを知るとパテに映画用カメラを作ることを申し出た。パテは必要な資金を調達し、同年8月26日にジョリはキネトスコープと映写機の両方に対応したカメラの特許を申請した。ジョリはこのカメラでキネトスコープ用作品を撮影した。これと並行してパテとジョリは、一度に4人が覗き見ることができる大型キネトスコープのフォトゾーイトロープを組み立て、11月8日に特許を申請したが、成功を収めることはなかった<ref name="ジョリ"/><ref>{{Cite book|和書 |author=岡田晋 |date=1980-9 |title=映画の誕生物語 パリ・1900年 |publisher=[[美術出版社]] |pages=134-135}}</ref>。

== 映写機の導入 ==
=== キネトスコープの衰退 ===
[[File:The Execution of Mary Stuart, 1895.ogv|thumb|1895年にアルフレッド・クラークが製作したキネトスコープ用作品『[[メアリー女王の処刑]]』は、最初に[[SFX|特殊効果]]が行われた作品で、{{仮リンク|ストップ・アクション|en|Substitution splice}}を使用して処刑場面を再現している<ref name="年表"/>。]]
1895年の初め、キネトスコープとフィルムの売上げが落ち込み、エジソン社の映画事業は厳しくなり始めた。新作映画は独創性を欠き、後述する[[#キネトフォン|キネトフォン]]の試みも失敗した{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-35}}。そうした時に多くの関係者は、フィルム映写がエジソンの追求すべき次のステップであると考えていた。キネトスコープ社を経営するラフとガモンも、エジソンに映写機を作るように催促した{{Sfn|サドゥール|1992|pp=214-215}}。しかし、エジソンはラフとガモンの要求に対して次のように答えた。
{{Quote|もし映写機を作るとすれば、私たちはすべてを台無しにしてしまうだろう。私たちは現に覗き眼鏡式の器械を作り、大量に販売して満足すべき利益を得ている。もし、映写機を私たちが売り出したとしても、おそらく合衆国で10台そこそこが売れればいいところだ。国中で私たちの映像を見せるのに数台もあれば十分だ。だから、諸君は金の卵を生む鶏を殺してしまうことになる<ref>{{Harvnb|Ramsaye|1986|loc=ch. 9}}. 引用文の訳は{{Harvnb|サドゥール|1992|pp=214-215}}に基づく</ref>。}}
エジソンは経済的な理由でキネトスコープに固執したが、ディクソンは意見を異にし、フィルム映写の可能性を確信していた{{Sfn|Robinson|1997|pp=53-55}}。ディクソンはエジソン社総支配人のウィリアム・ギルモアと不和を募らせていたこともあり、同じく映写機を求めるレイサム兄弟に密かに技術を提供していた{{Sfn|サドゥール|1992|pp=247-249}}{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-35}}。結局、同年4月にディクソンはエジソン社を退社した。その後はハイスが新作映画を作っていたが、8月にラフとガモンは従業員の{{仮リンク|アルフレッド・クラーク|en|Alfred Clark (director)}}にフィルムの販売を刺激する映画を作るように指示し、クラークは『[[メアリー女王の処刑]]』など数本の歴史的題材の作品を手がけた。それでも売上げは落ち続け、やがてクラークは映画製作から手を引いた{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-35}}。秋までにキネトスコープの人気は衰退し、映画製作もしばらく中止することになった{{Sfn|Musser|1997|p=194}}。キネトスコープの商品化2年目で、売上高は前年と比べて95%も減少し、わずか4000ドルとなった{{Sfn|Musser|1994|p=84}}。

=== ヴァイタスコープの導入以後 ===
[[File:EdisonAdCa1900bis.jpg|thumb|1900年代の映写式キネトスコープの広告。]]
1895年の間、欧米ではキネトスコープの公開をきっかけにして多くの映写機が開発された。レイサム兄弟と協力したディクソンは、4月に{{仮リンク|パントプティコン|en|Eidoloscope}}を共同開発し、5月20日にニューヨークで商業上映を始めた{{Sfn|Ramsaye|1986|loc=ch. 9-10}}{{Sfn|Musser|1994|pp=92-93}}。その後、ディクソンはエジソン社の主要な競争相手となる{{仮リンク|アメリカン・ミュートスコープ社|en|Biograph Company}}の設立に参加した{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-35}}。同社が発売したのぞき穴式装置[[ミュートスコープ]]は、キネトスコープよりも安価で良質なため、すぐにそれを上回る人気を獲得した{{Sfn|サドゥール|1993|pp=121-124}}。アメリカの発明家{{仮リンク|トーマス・アーマット|en|Thomas Armat}}と{{仮リンク|チャールズ・フランシス・ジェンキンス|en|Charles Francis Jenkins}}は、キネトスコープに影響されて{{仮リンク|ファントスコープ|en|Phantoscope}}を開発し、9月に[[アトランタ]]でキネトスコープ用作品を映写した<ref name="年表"/>{{Sfn|サドゥール|1992|pp=255-257}}。ヨーロッパでは、フランスの[[リュミエール兄弟]]が[[シネマトグラフ]]、ドイツの{{仮リンク|スクラダノフスキー兄弟|de|Max Skladanowsky}}が{{仮リンク|ビオスコープ|de|Bioscop}}を開発した。

キネトスコープに固執したエジソンも、最終的にラフとガモンの要求に応じ、助手のチャールズ・H・カイザーに映写機の研究を行わせたが、カイザーはこの問題を進展させることができなかった{{Sfn|サドゥール|1992|pp=214-215}}{{Sfn|マッサー|2015|pp=36-37}}。しかし、[[1896年]]にエジソンは映写機を導入し、自社の映画事業を復活させた。同年1月にエジソンはラフとガモンを通じてアーマットからファントスコープの特許権を購入し、それを{{仮リンク|ヴァイタスコープ|en|Vitascope}}と改名した。ヴァイタスコープはエジソンの発明品ではないが、ラフとガモンは宣伝価値を高めるために「エジソンのヴァイタスコープ」として商品化した{{Sfn|サドゥール|1993|pp=121-124}}{{Sfn|マッサー|2015|pp=36-37}}。ヴァイタスコープは最初は人気を呼んたが、すぐに国内外の競合相手による安価で良質な映写機が市場にあふれたこともあり、同年秋までに商業的に失敗した{{Sfn|マッサー|2015|pp=41-42}}{{Sfn|サドゥール|1993|pp=164-165}}。

その後、エジソンはキネトスコープの名称を使用した自身の映写機を開発した。[[1897年]]2月に「映写式キネトスコープ(プロジェクトスコープ)」を発売し、1900年代にかけて改良を施した映写式キネトスコープが何度も販売された{{Sfn|マッサー|2015|pp=41-42}}<ref>{{Cite web |url=http://www.silentmovies.com/edison/chronology/edison.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061106172027/http://www.silentmovies.com/edison/chronology/edison.html |archivedate=2006-11-6 |title=Edison Motion Picture Equipment Chronology |website= |language=英語 |accessdate=2020年12月10日}}</ref>。[[1911年]]末には家庭や教会などで使用するための「家庭用映写式キネトスコープ」を発売した。フィルムの幅は21ミリで、その幅に5.7ミリのフレームが3つ並ぶという特殊な形をしていた。しかし、独自のフォーマットのために上映作品が限られ、技術的欠陥にも悩まされたため、特に人気が出ることはなかった{{Sfn|マッサー|2015|pp=76-78}}<ref>{{Cite web |url=http://www.thehenryford.org/exhibits/pic/1999/99.nov.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070310221409/http://www.thehenryford.org/exhibits/pic/1999/99.nov.html |archivedate=2007-3-10 |title=The Henry Ford: Pic of the Month—November 1999 |website=The Henry Ford |language=英語 |accessdate=2020年11月15日}}</ref>。[[1915年]]には「スーパー・キネトスコープ」の開発も試みられたが、製造費があまりにも高くなるため中止となり、これがエジソンの最後の映画装置となった{{Sfn|マッサー|2015|pp=76-78}}。

== 日本でのキネトスコープの公開 ==
1896年秋、[[神戸外国人居留地|神戸居留地]]の貿易商リネル商会がキネトスコープとフィルムを日本に輸入し、それを[[神戸市]]の銃砲店経営者である高橋信治が購入した{{Sfn|塚田|1981|pp=65-66}}。高橋のキネトスコープは、同年11月17日に[[宇治郷 (神戸市)|宇治川]]の旅館「常盤」で[[小松宮彰仁親王]]が台覧し、11月19日付の[[神戸又新日報]]で新聞報道されたが、その記事ではキネトスコープを「写真活動器械」と紹介した{{Sfn|塚田|1981|pp=30, 318}}。11月20日には[[舞子 (神戸市)|舞子]]の[[周布公平]]の別荘で[[熾仁親王妃董子|有栖川大宮妃]]が台覧し、11月21日付の神戸又新日報に新聞報道された{{Sfn|塚田|1981|pp=33, 317}}。

11月25日、高橋は神戸市の神港倶楽部でキネトスコープの一般上映を開始した。同日付の神戸又新日報に上映広告が掲載されたが、そこではキネトスコープを「ニーテスコップ(電気作用写真活動機械){{Refnest|group="注"|映画史家の[[田中純一郎]]によると、ニーテスコップの呼称は「''Kinetoscope''」の頭文字”K”をサイレントと誤読して発音したものだという{{Sfn|田中|1976|pp=36-37}}。}}」と紹介し、11月29日まで5本の作品を日替わりで上映すると告知した{{Sfn|塚田|1981|pp=35-37}}<ref>{{Cite web |url=https://jaa2100.org/entry/detail/047283.html |title=映画(明治29年)▷日本初の映画上映(覗き穴式、キネトスコープ、11/25~12/1) |website=ジャパンアーカイブズ |accessdate=2020年12月2日}}</ref>。その作品名は25日から順に『西洋人スペンサー銃ヲ以テ射撃ノ図』『同 縄使用別ケノ図』『同旅館ニテトランプ遊戯ノ図』『京都祇園新地芸妓三人晒布舞ノ図』『悪徒死刑ノ図』である{{Refnest|group="注"|岩本は、それぞれの作品の原題について、『西洋人スペンサー銃ヲ以テ射撃ノ図』は『''Buffalo Bill''』、『同 縄使用別ケノ図』は『''Vincente Ore Passo''』、『同旅館ニテトランプ遊戯ノ図』は不明、『京都祇園新地芸妓三人晒布舞ノ図』は『''Imperial Japanese Dance''(インペリアル・ジャパニーズ・ダンス)』、『悪徒死刑ノ図』は『''The Execution of Mary, Queen of Scots''(メアリー女王の処刑)』と推測している{{Sfn|岩本|2011|pp=24-26}}。}}。上映会の日程は12月1日まで延期されており、『米国都府ニ於テ馬車ト自転車競走ノ図』が追加上映された{{Sfn|塚田|1981|pp=35-37}}{{Refnest|group="注"|岩本は、『米国都府ニ於テ馬車ト自転車競走ノ図』の原題は『''Parade of Bicyclists at Brooklyn, New York''』と推測している{{Sfn|岩本|2011|pp=24-26}}。}}。この上映会には装置の仕組みや作品の内容を解説する説明者がいたとされているが、その人物の正体ははっきりと分かっていない。映画史家の塚田嘉信は、その人物は高橋であると推定している{{Sfn|塚田|1981|pp=67, 79-80}}。

神港倶楽部での興行を終えたキネトスコープは、12月3日から22日まで[[大阪市]]の南地演舞場で公開し、1897年1月1日から12日まで同会場で再公開した{{Sfn|塚田|1981|p=39}}。この興行は高橋と大阪の時計店主である三木福助との共同出資で行われ、[[上田布袋軒]]が説明者を務めた{{Sfn|塚田|1981|pp=67, 79-80}}。興行の見物者の回想では、一回の見物料は10銭か15銭で、まず待合室に通され、順番に呼び出されて別の部屋でキネトスコープを覗き、側に立っている人が題名を言ってくれたが、映像はチカチカしていて見づらく、順番待ちの退屈しのぎに見せられた[[鉄道模型]]の方に人が群がったという<ref>「関西映画落穂集2」『映画史料』第九集、1963年5月15日。{{Harvnb|塚田|1981|pp=76-77}}に引用。</ref>。南地演舞場での興行が終わると、高橋はキネトスコープを周弘社に売却し、1月29日に同社が[[東京]]の[[浅草]][[浅草花やしき|花屋敷]]の五階楼(奥山閣)で「写真人物活動機」の名称で公開した{{Sfn|塚田|1981|pp=48-50, 59}}。3月には[[上野恩賜公園|上野公園]]でも公開されたが、その後のキネトスコープの公開記録はない{{Sfn|塚田|1981|p=55}}。

== キネトフォン ==
[[File:Kinetophonebis1.jpg|thumb|200px|1895年頃のキネトフォン。観客は木箱内に備え付けられたフォノグラフにつながるイヤホンを通して音楽を聴きながら、映画を覗き見ることができた。]]
[[File:DicksonFilm Still.png|thumb|left|キネトフォンの実験用に撮影された『''[[:en:The Dickson Experimental Sound Film|The Dickson Experimental Sound Film]]''』(1894年または1895年)。1960年代に長年消失したと考えられていた付属の蝋管が発見され、後にデジタル技術を使用して音と映像を組み合わせたフィルムが作成された<ref>{{Cite web |url=https://archive.org/details/dicksonfilmtwo |title=Dickson Experimental Sound Film |website=Internet Archive |language=en |accessdate=2020年11月13日}}</ref>。]]
'''キネトフォン'''(英: ''Kinetophone'')は、エジソンとディクソンが映像と音を同期する[[トーキー]]を実現するために、キネトスコープとフォノグラフを組み合わせた装置である。この試みはエジソンが映画の実験を始めた当初からの夢の一つだった{{Sfn|マッサー|2015|pp=76-78}}。キネトフォンの実験用に作られた最初の作品が『''[[:en:The Dickson Experimental Sound Film|The Dickson Experimental Sound Film]]''』で、1894年後半または1895年初頭にブラック・マリアで撮影された。その映像にはディクソンがカメラ外の[[蝋管]]につながる録音用ホーンに向けて[[ヴァイオリン]]を弾いている姿が記録されており<ref>{{Cite book |last=Dixon |first=Wheeler Winston |year=2003 |title=Straight: Constructions of Heterosexuality in the Cinema |publisher=State University of New York Press |page=53}}</ref>、撮影中に音楽が同時録音されている。1895年3月にエジソン社はキネトフォンを発売し、4月に最初のデモンストレーションが行われた。キネトフォンはそれ自体に技術革新を伴うものではなく、キネトスコープの木箱内にフォノグラフを備え付けただけの装置だった{{Sfn|Robinson|1997|p=51}}{{Sfn|Musser|1994|p=87}}。しかし、映像と音の同期は不正確で、ダンスや吹奏楽団などの映像を見ながら、それに付けられた伴奏音楽を聴くという緩やかな同期にとどまった{{Sfn|サドゥール|1992|pp=214-215}}{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-35}}。キネトフォン用作品のほとんどは[[サイレント映画]]で、その映像に合う音楽の蝋管が購入者に提供された{{Sfn|Hendricks|1966|pp=124-125}}{{Sfn|Altman|2004|pp=81-83}}。

[[1913年]]1月、エジソンは映写式に改良したキネトフォンを発表した。1895年のシステムと同様に蝋管式蓄音機を使用し、それを複雑な滑車とベルトを介して映写式キネトスコープに接続することで、録音した音と同期させた映像をスクリーンに映写した{{Sfn|マッサー|2015|pp=76-78}}{{Sfn|Gomery|2005|pp=27-28}}。キネトフォンは当初は成功を収めたが、当時の他のサウンドシステムと同様に映像と音の同期はまだ不完全で、適切な訓練が不十分な映写技師は音声との同期を保つのに苦労し、理想的な条件下で上映が行われることは滅多になかった{{Sfn|マッサー|2015|pp=76-78}}{{Sfn|Gomery|2005|pp=28-29}}{{Sfn|Altman|2004|pp=175-178}}。上映作品も平凡な[[ヴォードヴィル]]の出し物を写した6分ほどの短い内容だったため、最初は目新しさで劇場に詰めかけた観客にも次第に飽きられてしまった。エジソン社はキネトフォンの権利を海外の業者に売りつけたが、わずか1年ほどで姿を消した{{Sfn|マッサー|2015|pp=76-78}}。

日本では、1896年末に神戸居留地の[[ブルウル兄弟商会]]がキネトフォンを輸入したが、それがどのように使用されたかは不明である{{Sfn|塚田|1981|pp=48-50, 59}}{{Sfn|大傍|2011|p=338}}。1913年12月、肥塚竜は映写式のキネトフォンの権利を購入し、日本キネトフォン株式会社を設立した。同社はエジソン研究所にいた[[岡部芳郎]]を技術者に迎え、日本で発声映画の興行を始めた{{Sfn|田中|1980|pp=211-213}}。披露興行は12月6日と7日に[[帝国劇場]]で行われ、[[1914年]]4月には[[浅草公園]]にキネトフォンの常設興行館・日本座が開館した{{Sfn|大傍|2011|pp=341-343}}。6月には同社の撮影場が完成し、[[長唄]]や[[浄瑠璃]]などを題材にした日本製キネトフォン映画を製作した。日本でもキネトフォンは一時的な好況を見せ、8月1日に日本座で公開した[[松井須磨子]]出演の『[[カチューシャの唄#1914年 キネトフォン版|カチューシャの唄]]』は高い成功を収めた。これは[[芸術座 (劇団)|芸術座]]の翻訳劇『[[復活 (小説)|復活]]』の挿入歌として松井が歌い、全国的に流行した「[[カチューシャの唄]]」をキネトフォンに取り入れた作品である。やがてキネトフォンは技術的制約や人気の下火で興行に向かなくなり、[[1917年]]春に日本キネトフォンは倒産した{{Sfn|田中|1980|pp=211-213}}{{Sfn|大傍|2011|pp=344, 346}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
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* {{Cite book |last=Spehr |first=Paul |year=2008 |title=The Man Who Made Movies: W.K.L. Dickson |publisher= John Libbery Publishing Ltd |location=New Barnet |isbn=978-0861966950 |ref={{Harvid|Spehr|2008}}}}

== 関連項目 ==
* [[映画史]]
* [[35mmフィルム]]
* [[シネマトグラフ]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kinetoscope}}
* [http://www.youtube.com/watch?v=XTc8yBDncU0 'Imperial Japanese Dance' 1894] - エジソン映画スタジオ制作のキネトスコープ用フィルム。日本女性が歌舞伎舞踊『近江のお兼』の晒女の所作を披露している。
* {{URL|https://www.loc.gov/collections/edison-company-motion-pictures-and-sound-recordings/about-this-collection/| Inventing Entertainment: The Early Motion Pictures and Sound Recordings of the Edison Companies}} - [[アメリカ議会図書館]]
* [https://www.rokkosan.com/museum/ 六甲オルゴールミュージアム]-キネトスコープの復元品を所蔵。
* {{URL|http://www.victorian-cinema.net/machines.htm|Machines}} - ''Who's Who of Victorian Cinema''内の初期の映画装置の紹介
* {{URL|https://www.rokkosan.com/museum/|六甲オルゴールミュージアム}} - キネトスコープの復元品を所蔵


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2020年12月26日 (土) 01:33時点における版

キネトスコープ(開けて内部構造を見せた状態)。木箱上部にのぞき穴が付いている。

キネトスコープ: Kinetoscope)は、初期の映画鑑賞装置である。名称はギリシャ語の「kineto (運動)」と「scopos (見る)」を組み合わせたものである[1]。木箱内をのぞき込む形で映像を見る仕組みで、一度に1人しか見ることができなかった。キネトスコープは映写機ではないが、その後の映画の基本的技術を備えている。それは連続写真を記録したセルロイドのロール・フィルムを、光源の前でシャッターを切りながら高速移動させて動く映像を作り出したことと、パーフォレーション付きの35ミリフィルムを採用し、映画フィルムの標準を設定したことである。1888年アメリカの発明家トーマス・エジソンが最初のアイデアを考案し、助手のウィリアム・K・L・ディクソンが中心になって開発した。彼らはキネトスコープと同時に、映画用カメラキネトグラフ: Kinetograph)も開発しており、1891年8月に両方の特許を申請した。

1893年5月9日にブルックリン芸術科学協会でキネトスコープの最初の公開実演が行われ、1894年4月14日にニューヨークで一般興行が開始した。アメリカの映画文化の誕生に貢献したキネトスコープはヨーロッパでも公開されたが、エジソンがキネトスコープの国際特許を申請しなかったため、多数の模造品が作られた。日本では、1896年11月25日に神戸市の神港倶楽部で初めて一般公開された。やがてエジソンが経済的理由で開発しなかった映写機がキネトスコープに取って代わる存在となり、エジソンも1896年にヴァイタスコープを発売して映写機を導入した。1895年にはキネトスコープと蝋管蓄音機を結合したキネトフォンを開発し、映像と音を同期する試みを行った。

仕組み

キネトスコープは高さ4フィート(約1.2メートル)の木箱でできており、その上部に接眼レンズが付いたのぞき穴がある[2]。箱の内部には長さが約50フィート(約15メートル)[2][3]のフィルムが蛇腹状にたたみ込まれており、両端に配置された小さな滑車にかけられている[4]。フィルムの幅は約35ミリで、その両端に1フレームごとに4個ずつパーフォレーションが開けられている[5]。キネトスコープはコインを入れると、内蔵されている蓄電池で動くモーターにより作動した[4][6]

フィルムは箱内上部のスプロケットがパーフォレーションにかみ合うことで、レンズの下を一定速度で連続的に送られた。送られるフィルムの下には光源のランプがあり、フィルムとランプの間には狭いスリットの入った回転シャッターが付いていた[2][注 1]。各フレームがレンズの下を通過すると、フィルムの下から照らされるランプの光を回転シャッターが瞬間的に遮り、その明滅する一連のフレームは視覚の持続性英語版により動く映像として見ることができた[2]。しかし、今日までの映写機と同じ間欠的な駆動方式ではないため、映像が安定的に見れないという欠点があった[8]。フィルムの駆動速度は毎秒40フレーム(40fps[9][10]で、1つの作品の上映時間は約20秒ほどしかなかったが、フィルムはループ状になっており、同じ映像を何度も続けて見ることができた[4][11]

開発

初期のシリンダー式装置

エジソンが開発初期に考案したシリンダー式キネトグラフでテスト撮影した『モンキーシャインズ』(1889年または1890年頃)のフィルムのシート。

1888年2月25日、連続写真の技法を開拓した写真家エドワード・マイブリッジが、ニュージャージー州オレンジ近郊でズープラキシスコープ英語版を用いた講演を行った。ズープラキシスコープは連続写真を元にした絵を描いたガラスの円盤を高速回転してスクリーンに投影し、静止画が一つの動きに見えるようにする装置である[12][13]。その2日後、マイブリッジはウエスト・オレンジ英語版にあるエジソンの研究所でエジソンと会談し、彼が発明したフォノグラフ蝋管式蓄音機)とズープラキシスコープを連結して、映像と音声を同期させることを提案したが、実現には至らなかった。映画史家のチャールズ・マッサー英語版によると、マイブリッジとの出会いが「エジソンにとって映画発明の最初のひらめきとなったかもしれない」という[12]。同年10月8日、エジソンはキネトスコープに関する最初の特許保護願[注 2]を提出した。エジソンはこの文書で、映像を記録する装置を「キネトグラフ」、再生する装置を「キネトスコープ」と名付けている[14]。保護願の原稿の冒頭には、以下の内容が記述されている。

私はフォノグラフが耳に与えるのと同じことを目に与える装置を実験している。それは動いているものを記録し再現するものであり、安価で便利な形をとっている[15]

エジソンの最初のアイデアは、フォノグラフの技術的原理を応用したシリンダー式で、幅1/32インチ(約0.8ミリ)の写真をシリンダーに螺旋状に配置し、回転するシリンダーがレンズを通過する時にシャッターが開閉するカメラで撮影するというものだった[14]。ポジ画像用の不透明な素材またはネガ画像用のガラスで作られたシリンダーは、写真感光剤としてコロジオンが全体を覆うように塗布された[16]。撮影された一連の画像は顕微鏡のような鑑賞装置で覗いて見るという仕組みで、エジソンはフォノグラフの音を聞きながら動く映像を見ることができるとし、非常に大きいシリンダーを使えばスクリーンに映写することもできると考えていた。しかし、得られる画像は小さく、シリンダーの表面が曲面のため焦点もうまく合わないなどの問題が生じた。1889年2月、エジソンは平らな表面を持つシリンダーを導入した2度目の特許保護願を提出した[14]

同年6月、エジソン研究所の従業員ウィリアム・K・L・ディクソンが映画装置の開発に配属された[14]。ディクソンの助手にはチャールズ・A・ブラウンが就いた。エジソンは映画装置のアイデアを考案して実験を始めたが、その開発作業はディクソンを中心とするエジソン研究所の従業員によるチームで行われ、現代の研究家のほとんどはディクソンが開発の大きな貢献者としている[17]。マッサーは、エジソンの映画の発明はエジソンとディクスンの異なる資質が協力し合った結果であり、エジソンは最初のアイデアを発展させ、その基本原理に基づいてディクスンが改良を進めたとしている[14]

同年初夏に書かれた3度目の特許保護願では、これまでのシリンダーの表面に感光乳剤を直接塗る方法ではなく、ガラスのシリンダーに写真フィルムを覆う方法が記述された[14]。ディクソンはジョン・カーバット英語版のキーストン・ドライ・プレート・ワークス社が製造したセルロイドの写真フィルムのシートを使用し、幅が約1/4インチ(約6ミリ)のより大きな画像を採用した[14][18]。この写真フィルムを使うシリンダー式キネトグラフで実験的に撮影したのが『モンキーシャインズ』である。この作品は3本の映像が残されており、いずれも黒地の背景に白い衣装を着た従業員が大きく身振りをする姿が記録されている。撮影時期については1889年6月説と1890年11月説があり、未だにこの議論は決着していない[注 3]

ストリップ式装置への変更

1889年8月初旬、エジソンはパリ万国博覧会へ出発した[注 4]。エジソンは2ヶ月間ヨーロッパに滞在したが、その間もディクソンは実験を進めていた。パリ訪問中にエジソンはエティエンヌ=ジュール・マレーと出会い、彼が発明したクロノフォトグラフィ英語版の存在を知った。マレーのカメラは紙のロール・フィルムが一定間隔でレンズを通過する方法により、一連の連続写真を撮影する仕組みだった[14]。アメリカに戻ったエジソンは、11月2日に4度目の特許保護願を提出した。そこでは従来のシリンダー式ではなく、クロノフォトグラフと同じストリップ式の装置が記述された。それはパーフォレーションを付けたロール・フィルムを、歯のついた輪にかみ合わせて動かし、レンズの前で毎秒10フレームの速度で撮影するという方法で、フィルムをスクリーンに映写することも想定されていた[14][23]。多くの研究者はエジソンがシリンダー式からストリップ式に転換したのはマレーの影響であるとしているが[24][25][26]、エジソンや従業員の証言では、エジソンのパリ出発前からストリップ式のキネトグラフを開発していたとしている[27]。ロール・フィルムは、8月27日にイーストマン社が発売したセルロイド製を使用した[注 5]。この保護願はストリップ式の移行とパーフォレーションの導入により、エジソンの映画システムの基本原理を確立した[5][29]

ディクソンの助手のチャールズ・H・カイザー。その手前にあるのが横送り式のキネトグラフである。

1890年2月頃からキネトスコープは新聞や雑誌に取り上げられるようになり、2月2日のニューヨーク・ヘラルド紙には「話し手の仕草を捉える」という見出しの記事で紹介され、キネトグラフは毎秒8~20フレームの撮影が可能と伝えられている[30]。しかし、同年にエジソンはディクソンを連れて、鉄鉱石の磁気選鉱の研究に集中していた[31][32]。そのため5月から10月までは、研究所のキネトスコープ事業のアカウントに支出や就労状況が記録されておらず、キネトスコープの開発作業は中断されていたと考えられている[33]。10月にキネトスコープの開発に戻ると、ウィリアム・ハイスが新たにディクソンの助手に就いた[31]。当時はフレッド・オット、その兄のジョン・オット、ユージン・ローストなどの従業員も開発に参加していた[4][6]

1891年春までにディクソンとハイスは、4度目の特許保護願に基づくストリップ式によるキネトグラフを開発し、ボクシングや体操選手、パイプをくゆらす従業員などを写した短いフィルムを撮影した[31]。このキネトグラフはモーター駆動で、カメラ内のフィルムの間欠的な動きを実現するため、各フレームをレンズの前で露光するのに十分な時間停止させ、次のフレームに素早くスプロケットで送る仕組みになっており、この技術は現代の映画用カメラでも使われている[34]。フィルムは幅が3/4インチ(約19ミリ)で、現在のフィルムと同じ縦送りではなく、水平方向に走る横送りであり、フィルムの片端にだけパーフォレーションが開けられていた[31]。同時にディクソンとハイスは、横送り式のフィルムを使用したのぞき穴のキネトスコープを製作した[35]

19ミリフィルムを使用した横送り式キネトグラフ(1891年頃)。

1891年5月20日、エジソンは妻のマイナ・エジソンを訪ねて来たアメリカ婦人クラブの会員147人を研究所に案内し、そこでプロトタイプの横送り式のキネトスコープを披露した。この時に上映されたのは、ディクソンが帽子をとって挨拶をする姿を撮影した『Dickson Greeting』という短い作品だった[36]ニューヨーク・サン紙は彼女たちが見た映像について、「男はお辞儀をして微笑み、手を振り、自然かつ優雅に帽子を脱いでみせた。すべての動きが完璧だった[37]」と記述している。6月13日のハーパーズ・ウィークリー英語版誌と、同月20日のサイエンティフィック・アメリカン誌には、横送り式のフィルムの図版が掲載された[30]

1892年夏までにキネトグラフは縦送り式に改良され、マッサー曰く「我々が現代的な映画カメラと呼ぶもの」が完成した[3]。同年10月にフォノグラム誌の「新しい産業の予感」という記事にキネトグラフが公式発表され、縦送りのフィルムの図版が掲載された[38][39]。フィルムは実質的に35ミリのフォーマットであり、パーフォレーションは両端に4個ずつ付けられた[3][40]。この規格は後に映画フィルムの国際標準に採用され、現代までその基本構造はほとんど変化していない[5][41]。エジソンは当初のイーストマン社ではなくブレア・カメラ社のフィルムを注文し、1896年まで同社がエジソンのフィルムの供給者となった[42][注 6]。一方、キネトスコープは1892年6月にコインを入れて動く仕組みによる試作機が作られ[30]1893年2月に商品化に向けた耐久性のテストが行われた[44]

特許の申請と交付

1891年8月24日、エジソンはキネトスコープとキネトグラフに関する3件の特許を申請した。1件目は「キネトグラフ・カメラ(Kinetographic Camera)」、2件目は「写真撮影用の方法および装置の改良(Improvement in Model & Apparatus for Taking the Pictures)」、3件目は「運動する被写体の写真を見せる装置(Apparatus for Exhibiting Photographs of Moving Objects)」である[45][46]。そのうち3件目は1893年3月14日に特許が交付されたが、1件目は1897年8月31日にようやく特許が交付された[45]。2件目は内容が撮影装置と鑑賞装置の橋渡しを果たすものであり、その相互関連性が特許庁に認められなかった[46]。そこで2件目は申請内容が分割され、1892年4月11日にその一部が「ストップ機構(Stop Device)」として申請され、1893年2月21日に交付された。ストップ機構は高速で写真を撮影するときに、歯車が回転して止まる間欠的な動作を確実にするためのメカニズムである[45]

映画撮影と公開

商業利用に向けた準備

ブラック・マリアの外観。

1892年12月、エジソンは研究所内にディクソンが設計したブラック・マリアという映画スタジオの建設を始めた。ブラック・マリアは世界初の映画撮影専用のスタジオであり、その名前は建物全体が黒いタール紙に覆われており、それが囚人護送車に似ていたことにちなんでいる。建物は長方形の箱型で、撮影に必要な太陽光を取り入れるため、太陽の位置に合わせて回転することができた。1893年2月にブラック・マリアが完成し、4月までにディクソンとハイスにより最初の商業用映画『鍛冶屋の場面』が撮影された。ブラック・マリアはその後数年間、エジソンの映画撮影の中心となった[47]

フレッド・オットのくしゃみ』(1894年)はアメリカ議会図書館に著作権登録された現存最古の映画である[48]

キネトスコープの最初の公式実演は、1893年5月9日にブルックリン芸術科学協会の物理学部門の月例集会で行われた[49]。この時に上映されたのは『鍛冶屋の場面』で、400人以上の参加者が順番にキネトスコープを覗き込み、全員が見終わるまで数時間かかった[50]。6月にエジソンは機械工のジェームズ・イーガンに25台のキネトスコープを発注し、商業利用に向けて準備を進めた[51]。エジソンは同年夏にシカゴ万国博覧会でキネトスコープを発表する計画を立てていたが、ディクソンが病気休養となり、発注品の準備が間に合わなかったため、出品されることはなかった[50][52][53]

1894年1月上旬、ブラック・マリアで『フレッド・オットのくしゃみ』が撮影された。この作品は商業用ではなく、ハーパーズ・ウィークリー誌に掲載される記事の図版用として宣伝目的で作られた[50]。3月からディクソンとハイスは商業用作品の撮影を始めた。3月6日には世界的なボディビルダーのユージン・サンドウが研究所を訪問し、ブラック・マリアでサンドウがポーズをとる姿を写した『Sandow』が撮影された[54]。サンドウに続き、3月10日から16日の間にはスペイン人ダンサーのカルメンシータ英語版がダンスをする姿が撮影された。カルメンシータはキネトグラフの前に立った最初の女性であり、アメリカで映画に出演した最初の女性と考えられている[40][55]。さらに4月までに女性曲芸師エナ・ベルトルディのパフォーマンス、闘鶏、理髪店の再現場面など、主に男性観客向けの内容のフィルムが撮影された[56]

キネトスコープの一般公開

サンフランシスコのキネトスコープ・パーラーの店内(1894~1895年頃)。

1894年4月、エジソンはキネトスコープの事業を研究所からエジソン製造会社(以下エジソン社)に移した。それまでのキネトスコープとキネトグラフの開発費は、ブラック・マリアの建設費を含めて2万4000ドル以上にのぼった[57]。4月14日、ニューヨークブロードウェイ1115番地にホランド兄弟が所有する「キネトスコープ・パーラー」の1号店が開店した[58]。店内には最初に製造したキネトスコープ25台のうち10台が設置され、それぞれ異なる作品が上映された。観客は25セントを払うことで5台のキネトスコープを覗き見ることができた[54]。興行を取り仕切ったアルフレッド・O・テートによると、4月16日に開く予定だったが、準備を終えた14日にはエジソンの新発明を見ようと人だかりができていて、その夜の夕食代を稼ごうと一足早く開店し、深夜まで客が途絶えることがなかったという[59]

同年5月17日、シカゴフリーメイソンの集会所にホランド兄弟が運営するキネトスコープ・パーラーの2号店が開かれ、10台のキネトスコープが設置された[58][60]。6月1日にはサンフランシスコにもキネトスコープ・パーラーが開店した[61]。エジソンはキネトスコープとフィルムの販売を市場化するため、ノーマン・ラフとフランク・ガモンが経営するキネトスコープ社英語版にアメリカとカナダでの独占販売権を与えた[62][63]。キネトスコープ社や他の販売業者は、エジソン社から200ドルまたは250ドルでキネトスコープを購入し、それを自社が所有するキネトスコープ・パーラーに設置するか、他の興行者たちに350ドルで再販した[60][62][64]。フィルムは1本あたり10ドルで販売された[64]1895年2月までにキネトスコープとフィルムの販売額は18万ドルを計上し、エジソン社は8万9000ドルの利益を得た[62]

キネトスコープ映画

Annie Oakley』(1894年)は、アニー・オークレイの早撃ちを撮影した作品である。

1894年の夏から秋にかけて、エジソン社は需要が増えたキネトスコープの上映用作品を撮影するため、ブラック・マリアに多くの有名な芸人やダンサーを招いた[65]。映画史家のジョルジュ・サドゥールフランス語版によると、エジソンは蓄音機の蝋管を売り出した時に、有力芸人が出演した録音ほど売れたことから、キネトスコープ映画にも芸人たちを起用したという[66]岩本憲児によると、キネトスコープ映画の題材は観客の強い関心や好奇心を引き付けるものでなければならないため、アクロバットやダンスなどの訓練された身体技術を見世物とする芸人や達人たちが撮影されたという[67]。しかし、キネトグラフは大型で重量があり、持ち運びに不便なためブラック・マリアの中に固定され、屋外で撮影されることはほとんどなかった。また、多くの作品は太陽光を取り入れるため、黒い背景の前で撮影された[60]

この時期に主にエジソン社が撮影したものに、ジュアン・カイセドの綱渡り、ルイス・マルティネッティのつり輪バーナム・アンド・ベイリー・サーカスの異国のダンス、グレンロイ兄弟のバーレスク、黒人のケークウォークなどがある[65][66][68]。その中には日本の芸妓の手踊りを撮影した作品も存在する[注 7]バッファロー・ビルワイルド・ウエスト・ショーの座員も出演しており、アニー・オークレイの射撃、スー族インディアンのゴースト・ダンスなどが撮影された[66][71]アナベル・ムーアが蛇や蝶のダンスをする映画は特に人気があり、1897年までに彼女のダンス映画が何度も撮影された[65]。こうした芸やダンスを撮影した作品だけでなく、酒場や火事現場などの風景を再現した作品、ブロードウェイミュージカルMilk White Flag』のハイライトを撮影した作品、『Robetta and Doretto, [no. 2]』のようなコミカルなシチュエーションを持つ作品も存在する[66][72][73]

レイサム兄弟のボクシング映画

1894年6月に撮影されたレナード対カッシングのボクシング試合。キネトグラフで記録された1分間の各ラウンドの映像は、22.50ドルで興行者に提供された[74]

1894年夏にグレイ・レイサムとオトウェイ・レイサムの兄弟は、同級生のイノック・J・レクターとサミュエル・J・ティルデンとともにキネトスコープ公開会社(Kinetoscope Exhibition Company)を設立し、エジソン社の認可を受けてボクシングの映画をキネトスコープで上映した[75][76]。従来のキネトスコープは約50フィートの長さのフィルムしか入らず、毎秒40fpsで上映時間が20秒しかなかったため、長いボクシングの試合を上映することができなかった。そのためレクターの要請により、研究所は150フィートのフィルムが入る大容量のキネトスコープを製造し、上映時間を1分近くにまで増やすことに成功した[75][77]。6月14日、ブラック・マリアでマイケル・レナード対ジャック・カッシングのボクシング試合を6ラウンド分撮影したが、1ラウンドの時間はフィルムの最大容量に相当する1分間に短縮され、試合はあらかじめ成り行きが決められていた[74][75][78]

8月、レイサム兄弟はニューヨークのナッソー・ストリート83番地にボクシング映画専門のキネトスコープ・パーラーを開店し、店内に6台の大容量のキネトスコープを設置してレナード対カッシングの試合を上映した[75][76]。1台のキネトスコープで1ラウンドの試合を見ることができたが、そのために10セントを支払う必要があり、全試合を見るには60セントも支払わなければならなかった[40]。それでもアメリカ人のボクシング熱が高いこともあり映画は成功を収め、行列を整理するために警察を呼ばなければならないほどだった[75]。続いてレイサム兄弟はヘビー級王者のジェームス・J・コーベットと契約を結び、9月7日にブラック・マリアでコーベット対ピーター・コートニーの試合を6ラウンド分撮影した。試合は第6ラウンドでコーベットがノックアウトするように取り決められ、コーベットには5000ドルのギャラが支払われた[79]

ヨーロッパでの公開と模造品

1894年10月17日にロンドンで最初のキネトスコープ・パーラーが開店したことを発表する広告。

1894年、フランク・マグワイアとジョゼフ・ボーカスが経営する大陸通商社(Continental Commerce Company)は、ヨーロッパにおけるキネトスコープとフィルムの販売代理店となり、10月17日にロンドンオックスフォード・ストリート70番地にキネトスコープ・パーラーを開設した[62][80]。同月にはパリのポワソニエール大通り20番地に、ヴェルネル兄弟フランス語版が運営するキネトスコープ・パーラーが開店した[81]。続いて、12月にコペンハーゲンアムステルダム1895年2月にストックホルム、3月にリスボンベルリンでキネトスコープが上映された[61]。しかし、エジソンはキネトスコープの国際特許を申請していなかったため、ヨーロッパではヴェルネル兄弟を含む数人の発明家により、キネトスコープの模造品が作られた[81][82]

ロンドンの光学器械製造業者のロバート・W・ポールは、1894年にギリシャ人興行師のゲオルギ・ゲオルギアデスとゲオルギ・トライェディスの依頼を受けて、廉価なキネトスコープの模造品を製造した[83][84]。それを知ったエジソン社は上映用作品の提供を拒否し、打撃を受けたゲオルギアデスとトライェディスはポールに新作映画を作るように頼んだ[83]。ポールは写真家のバート・エイカーズ英語版と組んで、1895年にポール=エイカーズ・カメラを開発し、エイカーズが『The Derby』『Rough Sea at Dover』などのキネトスコープ用作品を撮影した[84]。これらの作品はイギリスで作られた最初の商業用映画の一つである[84]

フランスの蓄音機販売業者のシャルル・パテフランス語版は、1895年3月にロンドンでポールが製造したキネトスコープの模造品を手に入れ、ヴァンセンヌの店で興行師向けに販売した[85]。しかし、キネトスコープは1台に1人しか見れないため商売にならないうえに、パテの元にはフィルムが数本しかなく、すぐに観客に飽きられてしまった。キネトスコープを興行に利用しようとパテの店を訪れたアンリ・ジョリフランス語版は、そのことを知るとパテに映画用カメラを作ることを申し出た。パテは必要な資金を調達し、同年8月26日にジョリはキネトスコープと映写機の両方に対応したカメラの特許を申請した。ジョリはこのカメラでキネトスコープ用作品を撮影した。これと並行してパテとジョリは、一度に4人が覗き見ることができる大型キネトスコープのフォトゾーイトロープを組み立て、11月8日に特許を申請したが、成功を収めることはなかった[85][86]

映写機の導入

キネトスコープの衰退

1895年にアルフレッド・クラークが製作したキネトスコープ用作品『メアリー女王の処刑』は、最初に特殊効果が行われた作品で、ストップ・アクション英語版を使用して処刑場面を再現している[40]

1895年の初め、キネトスコープとフィルムの売上げが落ち込み、エジソン社の映画事業は厳しくなり始めた。新作映画は独創性を欠き、後述するキネトフォンの試みも失敗した[87]。そうした時に多くの関係者は、フィルム映写がエジソンの追求すべき次のステップであると考えていた。キネトスコープ社を経営するラフとガモンも、エジソンに映写機を作るように催促した[88]。しかし、エジソンはラフとガモンの要求に対して次のように答えた。

もし映写機を作るとすれば、私たちはすべてを台無しにしてしまうだろう。私たちは現に覗き眼鏡式の器械を作り、大量に販売して満足すべき利益を得ている。もし、映写機を私たちが売り出したとしても、おそらく合衆国で10台そこそこが売れればいいところだ。国中で私たちの映像を見せるのに数台もあれば十分だ。だから、諸君は金の卵を生む鶏を殺してしまうことになる[89]

エジソンは経済的な理由でキネトスコープに固執したが、ディクソンは意見を異にし、フィルム映写の可能性を確信していた[90]。ディクソンはエジソン社総支配人のウィリアム・ギルモアと不和を募らせていたこともあり、同じく映写機を求めるレイサム兄弟に密かに技術を提供していた[75][87]。結局、同年4月にディクソンはエジソン社を退社した。その後はハイスが新作映画を作っていたが、8月にラフとガモンは従業員のアルフレッド・クラーク英語版にフィルムの販売を刺激する映画を作るように指示し、クラークは『メアリー女王の処刑』など数本の歴史的題材の作品を手がけた。それでも売上げは落ち続け、やがてクラークは映画製作から手を引いた[87]。秋までにキネトスコープの人気は衰退し、映画製作もしばらく中止することになった[91]。キネトスコープの商品化2年目で、売上高は前年と比べて95%も減少し、わずか4000ドルとなった[92]

ヴァイタスコープの導入以後

1900年代の映写式キネトスコープの広告。

1895年の間、欧米ではキネトスコープの公開をきっかけにして多くの映写機が開発された。レイサム兄弟と協力したディクソンは、4月にパントプティコン英語版を共同開発し、5月20日にニューヨークで商業上映を始めた[93][94]。その後、ディクソンはエジソン社の主要な競争相手となるアメリカン・ミュートスコープ社英語版の設立に参加した[87]。同社が発売したのぞき穴式装置ミュートスコープは、キネトスコープよりも安価で良質なため、すぐにそれを上回る人気を獲得した[95]。アメリカの発明家トーマス・アーマットチャールズ・フランシス・ジェンキンス英語版は、キネトスコープに影響されてファントスコープ英語版を開発し、9月にアトランタでキネトスコープ用作品を映写した[40][96]。ヨーロッパでは、フランスのリュミエール兄弟シネマトグラフ、ドイツのスクラダノフスキー兄弟ドイツ語版ビオスコープを開発した。

キネトスコープに固執したエジソンも、最終的にラフとガモンの要求に応じ、助手のチャールズ・H・カイザーに映写機の研究を行わせたが、カイザーはこの問題を進展させることができなかった[88][97]。しかし、1896年にエジソンは映写機を導入し、自社の映画事業を復活させた。同年1月にエジソンはラフとガモンを通じてアーマットからファントスコープの特許権を購入し、それをヴァイタスコープと改名した。ヴァイタスコープはエジソンの発明品ではないが、ラフとガモンは宣伝価値を高めるために「エジソンのヴァイタスコープ」として商品化した[95][97]。ヴァイタスコープは最初は人気を呼んたが、すぐに国内外の競合相手による安価で良質な映写機が市場にあふれたこともあり、同年秋までに商業的に失敗した[43][98]

その後、エジソンはキネトスコープの名称を使用した自身の映写機を開発した。1897年2月に「映写式キネトスコープ(プロジェクトスコープ)」を発売し、1900年代にかけて改良を施した映写式キネトスコープが何度も販売された[43][99]1911年末には家庭や教会などで使用するための「家庭用映写式キネトスコープ」を発売した。フィルムの幅は21ミリで、その幅に5.7ミリのフレームが3つ並ぶという特殊な形をしていた。しかし、独自のフォーマットのために上映作品が限られ、技術的欠陥にも悩まされたため、特に人気が出ることはなかった[100][101]1915年には「スーパー・キネトスコープ」の開発も試みられたが、製造費があまりにも高くなるため中止となり、これがエジソンの最後の映画装置となった[100]

日本でのキネトスコープの公開

1896年秋、神戸居留地の貿易商リネル商会がキネトスコープとフィルムを日本に輸入し、それを神戸市の銃砲店経営者である高橋信治が購入した[102]。高橋のキネトスコープは、同年11月17日に宇治川の旅館「常盤」で小松宮彰仁親王が台覧し、11月19日付の神戸又新日報で新聞報道されたが、その記事ではキネトスコープを「写真活動器械」と紹介した[103]。11月20日には舞子周布公平の別荘で有栖川大宮妃が台覧し、11月21日付の神戸又新日報に新聞報道された[104]

11月25日、高橋は神戸市の神港倶楽部でキネトスコープの一般上映を開始した。同日付の神戸又新日報に上映広告が掲載されたが、そこではキネトスコープを「ニーテスコップ(電気作用写真活動機械)[注 8]」と紹介し、11月29日まで5本の作品を日替わりで上映すると告知した[106][107]。その作品名は25日から順に『西洋人スペンサー銃ヲ以テ射撃ノ図』『同 縄使用別ケノ図』『同旅館ニテトランプ遊戯ノ図』『京都祇園新地芸妓三人晒布舞ノ図』『悪徒死刑ノ図』である[注 9]。上映会の日程は12月1日まで延期されており、『米国都府ニ於テ馬車ト自転車競走ノ図』が追加上映された[106][注 10]。この上映会には装置の仕組みや作品の内容を解説する説明者がいたとされているが、その人物の正体ははっきりと分かっていない。映画史家の塚田嘉信は、その人物は高橋であると推定している[109]

神港倶楽部での興行を終えたキネトスコープは、12月3日から22日まで大阪市の南地演舞場で公開し、1897年1月1日から12日まで同会場で再公開した[110]。この興行は高橋と大阪の時計店主である三木福助との共同出資で行われ、上田布袋軒が説明者を務めた[109]。興行の見物者の回想では、一回の見物料は10銭か15銭で、まず待合室に通され、順番に呼び出されて別の部屋でキネトスコープを覗き、側に立っている人が題名を言ってくれたが、映像はチカチカしていて見づらく、順番待ちの退屈しのぎに見せられた鉄道模型の方に人が群がったという[111]。南地演舞場での興行が終わると、高橋はキネトスコープを周弘社に売却し、1月29日に同社が東京浅草花屋敷の五階楼(奥山閣)で「写真人物活動機」の名称で公開した[112]。3月には上野公園でも公開されたが、その後のキネトスコープの公開記録はない[113]

キネトフォン

1895年頃のキネトフォン。観客は木箱内に備え付けられたフォノグラフにつながるイヤホンを通して音楽を聴きながら、映画を覗き見ることができた。
キネトフォンの実験用に撮影された『The Dickson Experimental Sound Film』(1894年または1895年)。1960年代に長年消失したと考えられていた付属の蝋管が発見され、後にデジタル技術を使用して音と映像を組み合わせたフィルムが作成された[114]

キネトフォン(英: Kinetophone)は、エジソンとディクソンが映像と音を同期するトーキーを実現するために、キネトスコープとフォノグラフを組み合わせた装置である。この試みはエジソンが映画の実験を始めた当初からの夢の一つだった[100]。キネトフォンの実験用に作られた最初の作品が『The Dickson Experimental Sound Film』で、1894年後半または1895年初頭にブラック・マリアで撮影された。その映像にはディクソンがカメラ外の蝋管につながる録音用ホーンに向けてヴァイオリンを弾いている姿が記録されており[115]、撮影中に音楽が同時録音されている。1895年3月にエジソン社はキネトフォンを発売し、4月に最初のデモンストレーションが行われた。キネトフォンはそれ自体に技術革新を伴うものではなく、キネトスコープの木箱内にフォノグラフを備え付けただけの装置だった[116][117]。しかし、映像と音の同期は不正確で、ダンスや吹奏楽団などの映像を見ながら、それに付けられた伴奏音楽を聴くという緩やかな同期にとどまった[88][87]。キネトフォン用作品のほとんどはサイレント映画で、その映像に合う音楽の蝋管が購入者に提供された[118][119]

1913年1月、エジソンは映写式に改良したキネトフォンを発表した。1895年のシステムと同様に蝋管式蓄音機を使用し、それを複雑な滑車とベルトを介して映写式キネトスコープに接続することで、録音した音と同期させた映像をスクリーンに映写した[100][120]。キネトフォンは当初は成功を収めたが、当時の他のサウンドシステムと同様に映像と音の同期はまだ不完全で、適切な訓練が不十分な映写技師は音声との同期を保つのに苦労し、理想的な条件下で上映が行われることは滅多になかった[100][121][122]。上映作品も平凡なヴォードヴィルの出し物を写した6分ほどの短い内容だったため、最初は目新しさで劇場に詰めかけた観客にも次第に飽きられてしまった。エジソン社はキネトフォンの権利を海外の業者に売りつけたが、わずか1年ほどで姿を消した[100]

日本では、1896年末に神戸居留地のブルウル兄弟商会がキネトフォンを輸入したが、それがどのように使用されたかは不明である[112][123]。1913年12月、肥塚竜は映写式のキネトフォンの権利を購入し、日本キネトフォン株式会社を設立した。同社はエジソン研究所にいた岡部芳郎を技術者に迎え、日本で発声映画の興行を始めた[124]。披露興行は12月6日と7日に帝国劇場で行われ、1914年4月には浅草公園にキネトフォンの常設興行館・日本座が開館した[125]。6月には同社の撮影場が完成し、長唄浄瑠璃などを題材にした日本製キネトフォン映画を製作した。日本でもキネトフォンは一時的な好況を見せ、8月1日に日本座で公開した松井須磨子出演の『カチューシャの唄』は高い成功を収めた。これは芸術座の翻訳劇『復活』の挿入歌として松井が歌い、全国的に流行した「カチューシャの唄」をキネトフォンに取り入れた作品である。やがてキネトフォンは技術的制約や人気の下火で興行に向かなくなり、1917年春に日本キネトフォンは倒産した[124][126]

脚注

注釈

  1. ^ 研究家のゴードン・ヘンドリックスによると、シャッターはレンズとフィルムの間に付いていたという[7]
  2. ^ 特許保護願は、将来特許を申請する発明について事前に通知する法的文書のことである[14]
  3. ^ 被写体の従業員について、1889年6月説ではフレッド・オット[19]、1890年11月説ではG・サッコ・アルバニーズフランス語版とされている[20]
  4. ^ エジソンのパリ出発の日付について、映画史家のデヴィッド・ロビンソンは8月2日[21]、ゴードン・ヘンドリックスは8月3日としている[22]
  5. ^ ディクソンによると、それまではカーバットから供給されたセルロイドシートをストリップ状に切断して使用していたが、カーバットのシートは重くて硬い素材だったためストリップ式には向かなかったという[28][18]。イーストマンによると、フィルムの発売直前の8月24日にディクソンに一巻のロール・フィルムを送ったという[28]
  6. ^ 1986年にエジソンが映写機のヴァイタスコープを販売すると、ブレア・カメラ社のフィルムが映写に適していないことが分かり、フィルムの供給先をイーストマン社に切り替えている[43]
  7. ^ この作品の原題は『インペリアル・ジャパニーズ・ダンス』で、1894年10月から11月に撮影された[67]。被写体である芸妓の正体について、映画史家の田中純一郎は、1893年のシカゴ万博に日本から出店した茶店の接待係として派遣された祇園の芸妓であるとしている[69]。一方、岩本憲児は、関西の舞妓という触れ込みでシカゴ万博で踊るために派遣され、アメリカの劇場で『ミカド』に出演した日本人であるとしている[70]
  8. ^ 映画史家の田中純一郎によると、ニーテスコップの呼称は「Kinetoscope」の頭文字”K”をサイレントと誤読して発音したものだという[105]
  9. ^ 岩本は、それぞれの作品の原題について、『西洋人スペンサー銃ヲ以テ射撃ノ図』は『Buffalo Bill』、『同 縄使用別ケノ図』は『Vincente Ore Passo』、『同旅館ニテトランプ遊戯ノ図』は不明、『京都祇園新地芸妓三人晒布舞ノ図』は『Imperial Japanese Dance(インペリアル・ジャパニーズ・ダンス)』、『悪徒死刑ノ図』は『The Execution of Mary, Queen of Scots(メアリー女王の処刑)』と推測している[108]
  10. ^ 岩本は、『米国都府ニ於テ馬車ト自転車競走ノ図』の原題は『Parade of Bicyclists at Brooklyn, New York』と推測している[108]

出典

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関連項目

外部リンク