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2020年10月2日 (金) 14:04時点における版
谷 梅処(たに ばいしょ、天保14年(1843年) - 明治42年(1909年))は、幕末から大正時代を生きた尼。元は下関裏町の芸妓で源氏名は「此の糸(このいと)」。通称は「おうの」といい、高杉晋作の愛妾として知られる。
略歴
晋作とうのの出会いの経緯は不明だが、慶応元年(1865年)4月、晋作の四国亡命に同行者としてうのの名が見られる。以降、愛人として晋作と行動を共にする。
晋作の死後、剃髪して「梅処」と号する。維新後、戸籍が必要となったうのを、入江和作が養女とした。明治2年、山県有朋は洋行に際して吉田村の住居で晋作の墓所・清水山の麓にある無憐庵を梅処に贈る。晋作のもう一つの姓である「谷」を継ぎ、谷梅処となる。晋作の菩提を弔い、墓守として暮らした。
明治14年、永平寺管長・久我環渓(くがかんけい)の手で正式に得度。明治17年に山縣有朋・井上馨・伊藤博文・山田顕義の主唱により、1550円の募金を集めて東行庵が建立され、梅処に贈られた。
明治42年(1909年)、67歳で死去。