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'''朱 友諒'''(しゅ ゆうりょう、? - [[921年]])は、[[後梁]]の太祖[[朱全忠]]の甥。[[朱全イク|朱全昱]]の長男。
'''朱 友諒'''(しゅ ゆうりょう、? - [[921年]])は、[[後梁]]の太祖[[朱全忠]]の甥。[[朱全昱]]の長男。


== 略歴 ==
== 略歴 ==

2020年9月25日 (金) 08:31時点における最新版

朱 友諒(しゅ ゆうりょう、? - 921年)は、後梁の太祖朱全忠の甥。朱全昱の長男。

略歴

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初め、叔父から衡王に封じられた。後に広王に転封される。904年正月、朱全忠と共に従弟の朱友倫の仇討ちと称して、唐の宰相崔胤の自邸を包囲し、崔胤とその妻・子・孫らを皆殺しとした。しかし法に背く行動が多く、921年、実弟の朱友能の謀反に連座し、従弟の末帝によって、もう一人の弟の朱友誨と共に捕らえられ処刑された。

史料

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旧五代史』(梁書巻十二 宗室列伝)

友諒,全昱子,初封衡王,後嗣廣王。継歴藩郡,多行不法。坐弟友能反,廢囚京師。唐師入汴,與友能、友誨同日遇害。