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2020年9月25日 (金) 08:31時点における版
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後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の哀帝より禅譲を受けて建国した。都は汴州[1]。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。
歴史
朱全忠は黄巣の乱において反乱軍に属していた。しかし反乱軍である黄巣軍は根拠地を持たず全国を流浪しながら拡大してきた軍勢だったため、長安一帯を制圧し斉の建国を宣言するとたちまち兵士たちの統制がとれなくなり略奪殺戮を重ねて大衆の支持をなくした。上層部でも権力抗争が発生し、前途を見限った朱全忠は唐に寝返り黄巣軍と戦いこれを壊滅させた。
黄巣の乱以後、唐は地方政権に転落した。朱全忠は物流の中心地である開封の節度使となり、黄巣軍の残党や各地の軍閥と争いながら支配領域を広げていった。その軍は軍規が厳正で精強であり、農民からは無理な収奪は行わず荒地を開拓し、また唐朝で不遇だった下級士人を登用した。元来、唐朝では宰相派と宦官たちが争いを重ねていたが、朱は宰相側について宦官たちを一掃した。その後、宰相たち高級官僚も粛清し皇帝の昭宗を完全に傀儡にした。そして経済的には不便な土地にあった首都長安から洛陽へ遷都させ、同時に住民も移動させ建物は解体して運び完全に破壊した。まもなく昭宗は殺され、907年に朱は次の哀帝より禅譲をされ後梁を建国した。それからまもなく元皇帝や一族は毒殺された。
後梁は、唐の弊害だった宦官と門閥貴族を一掃し、首都の移転、農民生活の安定につとめて下級士人に支えられる合理的な革新政権だった。歴史的にも唐を滅ぼし700年続いた貴族制を終焉させ、しばらく実力を持った武人が横行する時代を招いた。しかし、唐を滅ぼしたとき、晋王李克用ら唐末の混乱に乗じて地方で自立していた軍閥(節度使)が後梁の受禅を認めずに各地で自立したため、五代十国の分裂時代が到来した。
後梁は人口が稠密で文化が進んだ地域を支配し、首都は中国経済の中心地だった。しかし版図は元来の唐の4分の一にすぎず、建国後に李克用の子・李存勗の晋国(のちの後唐)に敗れ押され気味となり、呉との戦でも破られた。また朱全忠は、病気もあって性格が苛烈となり部下を罰することが多く、将来を期待していた長男の朱友裕にも先立たれるなど後継者にも恵まれなかった。そのため912年、病床より養子の博王朱友文を後嗣に立てようとしたため、実子の郢王朱友珪によって殺された。帝位についた朱友珪は即位の経緯もあり人望を得ず、贅沢三昧の日々を送るなかで弟の均王朱友貞に殺されて帝位を奪われた。こうした内訌で弱体化した後梁は晋国に侵食され、朱友貞も李存勗との戦いに敗れて殺された。こうして後梁の皇帝はみな非業の最期を遂げ、後梁は3代16年の短命をもって滅んだ。
その後の五代の王朝も後梁を正当な王朝と認めず、後世の評判も良くなかった。現代の中国でも朱全忠は農民反乱軍の裏切者として高い評価が与えられていない。
後梁の皇帝
系図
朱信 | 朱誠 | 広王朱全昱 | 広王朱友諒 | ||||||||||||||||||||||||||||
恵王朱友能 | |||||||||||||||||||||||||||||||
邵王朱友誨 | |||||||||||||||||||||||||||||||
朗王朱存 | 安王朱友寧 | ||||||||||||||||||||||||||||||
密王朱友倫 | |||||||||||||||||||||||||||||||
1太祖(朱全忠) | 郴王朱友裕 | ||||||||||||||||||||||||||||||
2郢王朱友珪 | |||||||||||||||||||||||||||||||
3末帝(朱友貞) | |||||||||||||||||||||||||||||||
福王朱友璋 | |||||||||||||||||||||||||||||||
賀王朱友雍 | |||||||||||||||||||||||||||||||
建王朱友徽 | |||||||||||||||||||||||||||||||
康王朱友敬 | |||||||||||||||||||||||||||||||
博王朱友文 | |||||||||||||||||||||||||||||||
冀王朱友謙 | |||||||||||||||||||||||||||||||
朱友恭 | |||||||||||||||||||||||||||||||
朱友讓 | |||||||||||||||||||||||||||||||
実子 | 養子(仮子) | ||||||||||||||||||||||||||||||
後梁の元号
脚注
参考文献
- 愛宕元 著「第1章五代 1.五代王朝の興亡」、松丸道雄; 池田温; 斯波義信 ほか 編『中国史3:五代 - 元』山川出版社〈世界歴史体系〉、1997年、9-14頁。ISBN 4-634-46170-6。
- 竺沙雅章『征服王朝の時代』講談社、1977年。
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