「アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)」の版間の差分
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2020年9月17日 (木) 08:06時点における版
アッピウス・クラウディウス・プルケル Ap. Claudius P.f. Ap.n. Pulcher | |
---|---|
出生 | 不明 |
死没 | 紀元前212年 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | クラウディウス氏族 |
官職 |
按察官(紀元前217年) 法務官(紀元前215年) 前法務官(紀元前214年) 執政官(紀元前212年) |
指揮した戦争 | 第二次ポエニ戦争(カプア包囲戦) |
アッピウス・クラウディウス・プルケル(ラテン語: Appius Claudius Pulcher、 ? - 紀元前212年)は、第二次ポエニ戦争期の共和政ローマの元老院議員。父はプブリウス・クラウディウス・プルケル、息子は同名のアッピウス・クラウディウス・プルケル、プブリウス・クラウディウス・プルケル、ガイウス・クラウディウス・プルケル。
紀元前217年、アエディリスに選ばれ、翌年トリブヌス・ミリトゥムへ、カンナエの戦いでハンニバルに敗れるが、彼は生き残った。紀元前215年にプラエトルに就任、この間にシチリア島のヒエロニムスとカルタゴの間を引き裂く事に努めるが、うまくはいかなかった。翌年もプロプラエトル待遇でこの地に留まり、マルクス・クラウディウス・マルケッルスに合流、レオンティウム(現レンティーニ)に駐留する。
紀元前212年にコンスルに選ばれ、クィントゥス・フルウィウス・フラックスとともにカプアを包囲、任期終了まぎわにローマに赴き、元老院を説得、再びコンスルに選ばれ、軍事権の延長の許可をもらった。そしてカプア包囲中にハンニバルと戦闘、カプアはローマに降伏したが、この戦闘で彼は負傷、降伏の直後に没した。ローマに反旗を翻したカプアの報復措置に彼は反対の立場を取っていたと言う。
家族
- プブリウス・クラウディウス・プルケル:父
- アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官):息子
- プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前184年の執政官):息子
- ガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前177年の執政官):息子
関連項目
公職 | ||
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先代 クィントゥス・ファビウス・マクシムス、 ティベリウス・センプロニウス・グラックス |
執政官 同僚:クィントゥス・フルウィウス・フラックス III 紀元前212年 |
次代 プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムス、 グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムス |