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広西省を統一した李宗仁は、その後、[[広東省 (中華民国)|広東]]方面へも国民党支援のために出兵し、広東の平定にも貢献した。[[1926年]]3月、李の軍は国民革命軍第7軍に改組され、李宗仁が軍長、黄紹竑が党代表、白崇禧が参謀長となった。7月、李は[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に自ら第7軍を率いて参戦し、[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]・[[江西省 (中華民国)|江西省]]方面へ進撃して[[北京政府]]側の[[呉佩孚]]・[[孫伝芳]]などを撃破した。翌年3月、[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]に進駐している。 |
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4月12日、[[上海クーデター]]が発生すると、李は[[蔣介石]]を支持して[[中国共産党]]粛清に従事した。[[武漢市|武漢]]と[[上海市|上海]]の[[国民政府]]の分裂([[寧漢分裂]])でも上海国民政府を支持している。[[1928年]]、武漢政治分会主席を兼ね、さらに第4集団軍総司令に昇進した。北伐勝利後の10月、国民政府委員兼軍事参議院院長に任じられている。 |
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蔣介石が[[李済深]]を捕らえるなどの挙に出たこと、また、新広西派の軍事力を削減しようと図ったことに不満を覚え、[[1929年]]3月、李宗仁は蔣に反旗を翻して挙兵した([[蔣桂戦争]])。しかし同年6月、広西省で部下の[[兪作柏]]らが兵変を起こしたため敗北を喫し、[[香港]]へ逃亡した。それでも同年に広西省内が混乱したため、兵変を起こした軍人たちに李は再度呼び戻され、新広西派の指導者として復帰した。李は「護党救国軍」を組織し、翌年、[[中原大戦]]に参戦したが、蔣に再び敗北した。 |
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[[1931年]]5月、反蔣派の軍人・政治家が広州非常会議を開催すると、李宗仁の新広西派もこれに参加し、西南派を結成した。だが9月[[満州事変]]の勃発もあって西南派は蔣との大同団結に回帰するが、新広西派の国民政府内における勢力は、これにより大きく強化されることとなる。李宗仁・白崇禧は、広西統治において「三自三寓」<ref>「三自」とは、「自衛・自治・自給」を指し、「三寓」とは「寓兵于団(軍政一致と民兵強化、すなわち全民皆兵を指す)、寓将于学(軍幹部教育と初中等以上の学校での軍事訓練)、寓徴于募(募兵制と徴兵制の混合)」を指す。郭緒印主編『国民党派系闘争史』上海人民出版社、1992年、341-343頁。</ref>政策を実践し、軍事・内政・財政など様々な方面で改革に大きな成果をあげている。 |
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=== 日中戦争での指揮 === |
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=== 初代中華民国副総統・総統代理 === |
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[[ファイル:Chiang Kai-shek, Li Zongren and XGOA microphone 19480520.jpg|200px|thumb|right|初代副総統に就任する李宗仁(右)、中央は総統の蔣介石([[1948年]][[5月20日]])]] |
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日中戦争勝利後、李宗仁は軍事委員会委員長[[北京市|北平]]行営主任([[1946年]]9月、国民政府主席北平行轅主任に改組)に任じられ、共産党との戦いを開始する。[[1948年]]、[[1948年中華民国総統選挙|中華民国副総統選挙]]に出馬し、[[白崇禧]]らの支持を得た李は |
日中戦争勝利後、李宗仁は軍事委員会委員長[[北京市|北平]]行営主任([[1946年]]9月、国民政府主席北平行轅主任に改組)に任じられ、共産党との戦いを開始する。[[1948年]]、[[1948年中華民国総統選挙|中華民国副総統選挙]]に出馬し、[[白崇禧]]らの支持を得た李は蔣介石が推す[[孫科]]を破って[[中華民国副総統|副総統]]に当選した。 |
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翌1949年1月、蔣が[[国共内戦]]不利の責任をとって総統を辞任すると、李が[[中華民国総統|総統代理]]に就任し、共産党との和平交渉を開始する。同年[[4月1日]]、[[張治中]]を代表とする共産党との和平交渉団を首都の[[南京]]から[[北京|北平(北京)]]に派遣して{{仮リンク|北平和談|zh|北平和谈}}を行い、交渉団が最終案である{{仮リンク|国内和平協定|zh|國內和平協定}}を持ち帰ってきた。しかし、国民党は4月20日に和平協定への調印拒否を決定し、共産党に調印拒否を通告する電報を送ったために交渉は決裂した。その結果、3日後の23日には交渉決裂を受けて起きた{{仮リンク|渡江戦役|zh|渡江战役}}で[[人民解放軍]]によって中華民国の首都南京は陥落して南京の[[太平天国天王府跡|総統府]]も占領されてしまった。 |
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1949年10月に内戦も[[毛沢東]]の[[中華人民共和国]]が成立する結末を迎える。11月、李は香港へ逃亡し、さらに12月には[[アメリカ合衆国]]へ亡命してしまった。李は当時の[[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]に台湾に逃れた蔣の打倒を訴えて台湾を[[アメリカ合衆国51番目の州]]にすることも提案した<ref>李守孔. 《中國現代史》. 台北: 三民書局. 1973. ISBN 9571406635. p.176</ref><ref>"CHINA: Return of the Gimo". TIME Magazine. Monday, Mar. 13, 1950. </ref>。 |
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一方、李の逃亡によって空席となった総統代行には[[中華民国憲法|憲法49条]]の規定に基づいて[[行政院長]]の[[閻錫山]]が就任し、国民党とともに[[台湾省|台湾]]へ渡った蔣が[[1950年]]3月1日に総統への復任を宣言するまで在職した。そして、1954年3月の[[1954年中華民国総統選挙|総統選挙]]に際して、台湾に帰国しない李を[[国民大会]]で副総統から解任した<ref>全國政協文史資料委員會編:《文史資料選輯》第140輯,北京:中國文史出版社,2000年2月,ISBN 978-7-5034-1065-9 p.2</ref>。 |
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2020年9月16日 (水) 05:37時点における版
李宗仁 李宗仁 | |
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生年月日 | 1890年8月13日 |
出生地 | 清、広西省桂林府臨桂県 |
没年月日 | 1969年1月30日(78歳没) |
死没地 | 中華人民共和国、北京市 |
所属政党 | 中国国民党 |
配偶者 |
李秀文 郭徳潔(m.1924–1966) 胡友松(m.1966–1969) |
中華民国総統代行 | |
在任期間 | 1949年1月21日 - 1949年11月20日 |
在任期間 | 1948年5月20日 - 1954年3月10日 |
総統 | 蔣介石 |
李宗仁 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 李宗仁 |
簡体字: | 李宗仁 |
拼音: | Lǐ Zōngrén |
ラテン字: | Li Tsung-jen |
和名表記: | り そうじん |
発音転記: | リー・ツォンジェン |
李 宗仁(り そうじん、光緒17年7月9日(1890年8月13日) - 1969年1月30日)は中華民国の軍人・政治家。初代中華民国副総統。国共内戦最終盤に短期間ながら総統(代理)も務めた。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は一級上将。字は徳鄰。
生涯
新広西派の創始
広西省(現在の広西チワン族自治区)の郷村の塾教師の家庭に生まれる。光緒34年(1908年)、広西陸軍小学堂に入学する。宣統2年(1910年)、中国同盟会に加入した。また、この時に黄紹竑と同学になっている。1913年秋に卒業して、南寧の将校講習所で下級軍官に任ぜられた。以後、陸栄廷を指導者とする旧広西派(旧桂系)で軍歴を重ねていく。
1920年に陸栄廷が粤桂戦争で粤軍(広東軍)に敗北してからは、広西省内は混乱して様々な軍人たちが自立するようになる。この混戦の中で1922年、李宗仁は広西自治軍第2路総司令を自称し、黄紹竑らの協力も得た。翌年、広州軍政府の孫文(孫中山)に与して中国国民党に加入し、「広西定桂軍」を組織した。
1924年、旧広西派の陸栄廷・沈鴻英を相手に、李宗仁は三つ巴の戦いを開始する。まず、3勢力中最強の陸に対抗するため、李宗仁は沈との間で事実上の連合を結成する。4月、沈が桂林に進軍してきた陸を包囲・攻撃した。6月、李宗仁らは、手薄になった陸の本拠地・南寧を占領した。このとき、彼は定桂聯軍を組織してその総指揮となる。9月、沈が陸を広西から駆逐し、翌月にこれを下野に追い込んだ[1]。
11月、李宗仁は孫文から広西全省綏靖督弁公署督弁に任命され、黄紹竑は会弁、白崇禧は参謀長に任じられた。白崇禧・黄紹竑とともに新広西派(新桂系)の主要な指導者の一人となり、一般には、その3人の中でも李が最高指導者とみなされる。翌年初頭から、李と沈鴻英との間で戦闘が開始される。4月、李らは桂林を占領し、沈軍をほぼ再起不能に追い込んだ。さらに、広西侵攻を企てた雲南省の唐継尭軍を撃退するなどして、同年中に、李らはついに広西省を統一した[2]。これより、新広西派による広西統治が開始される。
北伐への貢献
広西省を統一した李宗仁は、その後、広東方面へも国民党支援のために出兵し、広東の平定にも貢献した。1926年3月、李の軍は国民革命軍第7軍に改組され、李宗仁が軍長、黄紹竑が党代表、白崇禧が参謀長となった。7月、李は北伐に自ら第7軍を率いて参戦し、湖南省・湖北省・江西省方面へ進撃して北京政府側の呉佩孚・孫伝芳などを撃破した。翌年3月、安徽省に進駐している。
4月12日、上海クーデターが発生すると、李は蔣介石を支持して中国共産党粛清に従事した。武漢と上海の国民政府の分裂(寧漢分裂)でも上海国民政府を支持している。1928年、武漢政治分会主席を兼ね、さらに第4集団軍総司令に昇進した。北伐勝利後の10月、国民政府委員兼軍事参議院院長に任じられている。
蔣介石との戦い
蔣介石が李済深を捕らえるなどの挙に出たこと、また、新広西派の軍事力を削減しようと図ったことに不満を覚え、1929年3月、李宗仁は蔣に反旗を翻して挙兵した(蔣桂戦争)。しかし同年6月、広西省で部下の兪作柏らが兵変を起こしたため敗北を喫し、香港へ逃亡した。それでも同年に広西省内が混乱したため、兵変を起こした軍人たちに李は再度呼び戻され、新広西派の指導者として復帰した。李は「護党救国軍」を組織し、翌年、中原大戦に参戦したが、蔣に再び敗北した。
1931年5月、反蔣派の軍人・政治家が広州非常会議を開催すると、李宗仁の新広西派もこれに参加し、西南派を結成した。だが9月満州事変の勃発もあって西南派は蔣との大同団結に回帰するが、新広西派の国民政府内における勢力は、これにより大きく強化されることとなる。李宗仁・白崇禧は、広西統治において「三自三寓」[3]政策を実践し、軍事・内政・財政など様々な方面で改革に大きな成果をあげている。
日中戦争での指揮
1937年の日中戦争(抗日戦争)勃発とともに、李宗仁は第5戦区司令長官に任ぜられ、津浦線の防御を担当した。翌年1月には、安徽省政府主席も兼任し、これにより安徽省も新広西派の影響下に置かれることになる。
李宗仁は第5戦区司令長官を6年間つとめ、日本軍との戦いでの指揮は優れたものであった。指揮下にあった張自忠、孫連仲、孫震、盧漢らが徐州方面で好戦績を収め、台児荘戦役などで戦果を挙げたことが、その例である。1943年9月、軍事委員会委員長漢中行営主任に転じた。
初代中華民国副総統・総統代理
日中戦争勝利後、李宗仁は軍事委員会委員長北平行営主任(1946年9月、国民政府主席北平行轅主任に改組)に任じられ、共産党との戦いを開始する。1948年、中華民国副総統選挙に出馬し、白崇禧らの支持を得た李は蔣介石が推す孫科を破って副総統に当選した。
翌1949年1月、蔣が国共内戦不利の責任をとって総統を辞任すると、李が総統代理に就任し、共産党との和平交渉を開始する。同年4月1日、張治中を代表とする共産党との和平交渉団を首都の南京から北平(北京)に派遣して北平和談を行い、交渉団が最終案である国内和平協定を持ち帰ってきた。しかし、国民党は4月20日に和平協定への調印拒否を決定し、共産党に調印拒否を通告する電報を送ったために交渉は決裂した。その結果、3日後の23日には交渉決裂を受けて起きた渡江戦役で人民解放軍によって中華民国の首都南京は陥落して南京の総統府も占領されてしまった。
1949年10月に内戦も毛沢東の中華人民共和国が成立する結末を迎える。11月、李は香港へ逃亡し、さらに12月にはアメリカ合衆国へ亡命してしまった。李は当時のアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに台湾に逃れた蔣の打倒を訴えて台湾をアメリカ合衆国51番目の州にすることも提案した[4][5]。
一方、李の逃亡によって空席となった総統代行には憲法49条の規定に基づいて行政院長の閻錫山が就任し、国民党とともに台湾へ渡った蔣が1950年3月1日に総統への復任を宣言するまで在職した。そして、1954年3月の総統選挙に際して、台湾に帰国しない李を国民大会で副総統から解任した[6]。
晩年
その後、李は秘書の程思遠を介して中華人民共和国と水面下で接触しつつ[7]、アメリカで中国情勢を見守っていた。しかし妻の郭徳潔が末期の乳がんと診断され、1965年7月、帰国を決断して妻と北京入りし、毛沢東ら中華人民共和国の首脳から歓迎を受けている。翌1966年3月に郭徳潔は北京で死去した。
1969年1月30日、北京で死去、郊外の八宝山革命公墓に埋葬された。享年80(満78歳)[8]。
注
- ^ 李静之「李宗仁」『民国人物伝 第7巻』は、9月23日に陸栄廷が全州で下野を宣言した、との説を採っている。しかし陸の下野時期についての有力説は、10月9日、湖南省永州において、である(莫済杰・陳福林主編 『新桂系史第1巻』、59-74頁;黄宗炎「陸栄廷」謝本書主編『西南十軍閥』、76頁)。これは、『申報』1924年10月23日記事、黄紹竑の回顧録『五十回憶』等の裏づけがある。
- ^ 統一完了時期については諸説ある。例えば莫済杰・陳福林主編 『新桂系史 第1巻』、96頁は、1925年7月に雲南軍を撃退した時点を統一完了時期と見ている。また、胡啓望・項美珍「黄紹竑」『民国人物伝 第12巻』、132頁は、黄紹竑が広西省民政長に就任した同年9月を統一完了時期としている。一方、当事者の間でも見解が割れている。李宗仁は、やはり7月で統一完了と見ているが(『李宗仁回憶録』、178頁)、黄紹竑は、1925年年末に省内敵対勢力を掃討し終わった時点を、統一完了と見ている(『五十回憶』、109頁)。
- ^ 「三自」とは、「自衛・自治・自給」を指し、「三寓」とは「寓兵于団(軍政一致と民兵強化、すなわち全民皆兵を指す)、寓将于学(軍幹部教育と初中等以上の学校での軍事訓練)、寓徴于募(募兵制と徴兵制の混合)」を指す。郭緒印主編『国民党派系闘争史』上海人民出版社、1992年、341-343頁。
- ^ 李守孔. 《中國現代史》. 台北: 三民書局. 1973. ISBN 9571406635. p.176
- ^ "CHINA: Return of the Gimo". TIME Magazine. Monday, Mar. 13, 1950.
- ^ 全國政協文史資料委員會編:《文史資料選輯》第140輯,北京:中國文史出版社,2000年2月,ISBN 978-7-5034-1065-9 p.2
- ^ 全國政協文史資料委員會編:《文史資料選輯》第140輯,北京:中國文史出版社,2000年2月,ISBN 978-7-5034-1065-9 p.5-6
- ^ 全國政協文史資料委員會編:《文史資料選輯》第140輯,北京:中國文史出版社,2000年2月,ISBN 978-7-5034-1065-9 p.27-28
参考文献
- 李静之「李宗仁」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0。
- 李宗仁口述、唐徳剛撰写『李宗仁回憶録』広西人民出版社、1988年。ISBN 7-219-00473-7。
- 黄紹竑『五十回憶』岳麓書社、1999年。ISBN 7-80520-968-5。
- 莫済杰・陳福林主編『新桂系史 第1巻』広西人民出版社、1991年。ISBN 7-219-01885-1。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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