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この際、諸葛亮が自ら帳簿の確認を行っているの見て、その働きすぎを治国のあるべき姿である礼制を一家のあり方に例え、[[前漢]]の宰相である[[丙吉]]・[[陳平]]の故事を引いて諌めた。諸葛亮は彼の忠告に陳謝した。 |
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後に東曹属となって官吏の推挙を担当した。楊顒が亡くなると、諸葛亮はその死を痛み三日間にわたって涙を流した。諸葛亮は留府長史の[[張裔]]・[[ |
後に東曹属となって官吏の推挙を担当した。楊顒が亡くなると、諸葛亮はその死を痛み三日間にわたって涙を流した。諸葛亮は留府長史の[[張裔]]・[[蔣琬|蔣琬]]に手紙を送った際に、同時期に亡くなった西曹令史の頼広とともに、その死は朝廷の重大な損失であると書き記している<ref>『三国志』蜀書楊戯伝</ref>。 |
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== 『三国志演義』における楊顒 == |
== 『三国志演義』における楊顒 == |
2020年9月15日 (火) 15:53時点における版
楊 顒(よう ぎょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の人物。字は子昭。荊州襄陽郡の人。宗族には楊慮・楊儀がいる。諸葛亮の北伐時、その幕僚として従軍し、諸葛亮に高く評価された。『三国志』に注釈として付けられた習鑿歯の『襄陽記』に事跡が記録されている。
生涯
楊顒は漢水の傍、蔡洲の西にある洄湖の南岸に居住していた[1]。
劉備が荊州南部を征圧するとこれに仕え、入蜀に付き従って巴郡太守に任命された。諸葛亮が丞相となるとその主簿となった。
この際、諸葛亮が自ら帳簿の確認を行っているの見て、その働きすぎを治国のあるべき姿である礼制を一家のあり方に例え、前漢の宰相である丙吉・陳平の故事を引いて諌めた。諸葛亮は彼の忠告に陳謝した。
後に東曹属となって官吏の推挙を担当した。楊顒が亡くなると、諸葛亮はその死を痛み三日間にわたって涙を流した。諸葛亮は留府長史の張裔・蔣琬に手紙を送った際に、同時期に亡くなった西曹令史の頼広とともに、その死は朝廷の重大な損失であると書き記している[2]。
『三国志演義』における楊顒
『三国志演義』に一度だけ登場し、史実と同様諸葛亮の働きすぎを諌めている。