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「五丈原の戦い」の版間の差分

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== 戦後 ==
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撤退直後の蜀軍では、[[魏延]]が諸葛亮の後継を巡って[[楊儀]]と争い敗死した。だが楊儀もまた[[蒋エン|琬]]、[[費イ|費禕]]に実権を掌握され失脚した。蜀の実権を掌握した琬も諸葛亮の遺志を継ぎ、魏の討伐を計画していたが、自身の病気と他の重臣たちの反対により計画は実行されなかった。
撤退直後の蜀軍では、[[魏延]]が諸葛亮の後継を巡って[[楊儀]]と争い敗死した。だが楊儀もまた[[蔣琬|琬]]、[[費イ|費禕]]に実権を掌握され失脚した。蜀の実権を掌握した琬も諸葛亮の遺志を継ぎ、魏の討伐を計画していたが、自身の病気と他の重臣たちの反対により計画は実行されなかった。


蜀の侵攻を退けた司馬懿は、[[238年]]には[[遼東]]の[[公孫淵]]を討伐し、野戦から籠城へと誘い込む巧みな軍略によってこれを滅ぼした。東西の外患を除いた大功から、司馬懿は魏の朝廷内で揺るぎない地位を確立した。更に皇帝の曹叡は[[239年]]に若くして崩御した。養子の[[曹芳]]が皇帝となったが幼少であり、司馬懿の権威は帝室の曹氏をも凌駕していくことになる。
蜀の侵攻を退けた司馬懿は、[[238年]]には[[遼東]]の[[公孫淵]]を討伐し、野戦から籠城へと誘い込む巧みな軍略によってこれを滅ぼした。東西の外患を除いた大功から、司馬懿は魏の朝廷内で揺るぎない地位を確立した。更に皇帝の曹叡は[[239年]]に若くして崩御した。養子の[[曹芳]]が皇帝となったが幼少であり、司馬懿の権威は帝室の曹氏をも凌駕していくことになる。

2020年9月15日 (火) 15:51時点における版

五丈原の戦い
戦争:第五次北伐
年月日234年
場所五丈原(現在の陝西省宝鶏市岐山県
結果諸葛亮が陣没(死亡)し撤退。蜀漢による第五次北伐失敗。
交戦勢力
蜀漢
指導者・指揮官
諸葛亮
魏延
司馬懿
郭淮
戦力
不詳。一説に6万人 不詳。一説に20万
損害
不詳 不詳
三国時代

五丈原の戦い(ごじょうげんのたたかい、中国語: 五丈原之戰)は、中国三国時代に、(蜀漢)と五丈原(現在の陝西省宝鶏市岐山県)で対陣した戦いである。

経緯

231年の第四次北伐において、蜀の諸葛亮は魏の司馬懿と対戦し勝利した。しかし、大雨により李厳が食糧輸送に失敗して食糧が尽きたため、撤退せざるをえなくなった。撤退時に魏の車騎将軍張郃を射殺している。これまで蜀は第一次北伐から連年数万規模の軍を出撃させていたが、これ以後は遠征を休止させた。『晋書』宣帝紀によると、司馬懿は諸葛亮が常に兵糧不足に悩まされていることから、三年間は糧食の蓄積に専念しなければならないだろうと推測している。

戦いの経緯

234年春2月、蜀の諸葛亮は魏への遠征を再開し、褒斜道を通って長安をめざす構えを見せた。『晋書』宣帝紀では、この時動員された蜀軍は十余万とされている。司馬懿も諸葛亮を迎え撃つために、自ら指揮を執り出撃し、人口が集中している渭水の南に砦を築き、防備を固めた。『晋書』宣帝紀によると司馬懿は諸将に対し、「諸葛亮が勇者なら武功に出て東進するだろうが、五丈原に布陣するなら問題ない」と語っていた、一方、陳寿は『三国志』諸葛亮伝に諸葛亮は武功に拠り五丈原に布陣したと正反対の見解を記している。果たして諸葛亮は渭水南岸の五丈原に布陣した。また『三国志』張翼伝によると諸葛亮は武功に出て、張翼を先鋒の前軍都督とし、扶風太守に任命したとある。諸葛亮は渭水の沿岸で兵士に屯田を行わせたが、軍規は厳正で当地の民は安堵したという。魏の皇帝の曹叡は征蜀護軍秦朗に2万の兵を与えて、司馬懿の援軍として派遣した。また、曹叡は「砦の防備を固め、守備に徹するべし。敵の食料がつきて撤退したとき、追撃するのが、遠来の敵を迎え撃って勝利を得る方法である」と司馬懿に勅令を下した。

司馬懿が指揮を執る魏の大軍は、渭水を背にして五丈原を望む形で対陣し、柵を築いて砦の防備を固めた。諸葛亮は陽動作戦を用いて魏軍を攻撃したが、郭淮に作戦を見破られて防がれた。さらに諸葛亮は女の服を送り、司馬懿を女扱いしたり、さまざまな手を使って司馬懿を挑発して魏軍の出陣を誘った。魏の諸将の間には撃って出るべきという気運が高まっていたが、皇帝の曹叡から出陣を禁じられていることを理由に司馬懿は挑発に乗らなかった。それでも司馬懿が出撃許可を求める上奏を行うと、辛毗が曹叡の命令を携えて陣を訪問し、出撃してはならないと命じた。習鑿歯の『漢晋春秋』および『晋書』宣帝紀では、辛毗が現れたことを聞いた姜維は、司馬懿がもはや絶対に出撃してこないであろうと諸葛亮に語ったが、これに対し諸葛亮は、司馬懿が出撃の姿勢を示して上奏したこと自体、諸将の不満を和らげるための策略に過ぎないと語っている。

5月、の皇帝孫権が蜀に呼応し、自ら大軍の指揮を執り複数方面から魏への親征を開始した。魏は国土の東西に大規模な戦線を抱え込むこととなったが、合肥を守備していた張穎が堅守して耐え、満寵が奇襲攻撃で孫権を苦しめ、さらに曹叡自らが救援に赴くと聞くと、孫権は曹叡の寿春到着を待たずに全軍を撤退させた。

蜀軍と魏軍の対陣は百日余りに及んだが、234年8月、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退した。魏軍は撤退した蜀軍を追撃しようとしたが、蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いた。人々はこれを揶揄して諺を作り「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言った。司馬懿は人伝にこのことを聞き、「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手にするのは不得手だ」(『論語』の「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」に基づいたと見られる)と答えたという。司馬懿は撤退後の諸葛亮の陣営を視察し、「天下の奇才」という感想を漏らした。

戦後

撤退直後の蜀軍では、魏延が諸葛亮の後継を巡って楊儀と争い敗死した。だが楊儀もまた蔣琬費禕に実権を掌握され失脚した。蜀の実権を掌握した蔣琬も諸葛亮の遺志を継ぎ、魏の討伐を計画していたが、自身の病気と他の重臣たちの反対により計画は実行されなかった。

蜀の侵攻を退けた司馬懿は、238年には遼東公孫淵を討伐し、野戦から籠城へと誘い込む巧みな軍略によってこれを滅ぼした。東西の外患を除いた大功から、司馬懿は魏の朝廷内で揺るぎない地位を確立した。更に皇帝の曹叡は239年に若くして崩御した。養子の曹芳が皇帝となったが幼少であり、司馬懿の権威は帝室の曹氏をも凌駕していくことになる。

脚注