コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「陳開」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 臏珖玦玠猨琛を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (葉名琛) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
5行目: 5行目:
陳開・李文茂は[[広西省]]に逃れ、[[1855年]]に[[桂平市|潯州]]を占領した。ここで陳開は大成国の建国を宣言し、[[洪徳 (陳開)|洪徳]]と年号を定め、貨幣として洪徳通宝を発行した。陳開は鎮南王(のち平潯王と改称)、李文茂は平靖王、[[梁培友]]は平東王、[[区潤]]は平西王、[[梁昌]]は定北王を名乗り、潯州を秀京と改称した。さらに[[柳州市|柳州]]・[[梧州市|梧州]]・[[南寧市|南寧]]を支配下に置いた。
陳開・李文茂は[[広西省]]に逃れ、[[1855年]]に[[桂平市|潯州]]を占領した。ここで陳開は大成国の建国を宣言し、[[洪徳 (陳開)|洪徳]]と年号を定め、貨幣として洪徳通宝を発行した。陳開は鎮南王(のち平潯王と改称)、李文茂は平靖王、[[梁培友]]は平東王、[[区潤]]は平西王、[[梁昌]]は定北王を名乗り、潯州を秀京と改称した。さらに[[柳州市|柳州]]・[[梧州市|梧州]]・[[南寧市|南寧]]を支配下に置いた。


[[1858年]]、梧州を出発した陳開率いる東路軍と、柳州を出発した李文茂率いる西路軍は[[桂林市|桂林]]攻略を目指したが、桂林には[[レイ|益澧]]率いる[[湘軍]]が応援に来ており、西路軍は敗れ、東路軍も撤退に追い込まれた。その後、柳州・梧州も失った。
[[1858年]]、梧州を出発した陳開率いる東路軍と、柳州を出発した李文茂率いる西路軍は[[桂林市|桂林]]攻略を目指したが、桂林には[[|益澧]]率いる[[湘軍]]が応援に来ており、西路軍は敗れ、東路軍も撤退に追い込まれた。その後、柳州・梧州も失った。


[[1861年]]、[[清]]軍は秀京に総攻撃をかけ、激戦の末に陳開は水軍を失い、秀京城内に撤退した。しかし秀京では地主が蜂起して、陳開は秀京を脱出して[[太平天国]]の[[石達開]]軍に合流しようとした。しかし果たせずに捕らえられて斬られた。
[[1861年]]、[[清]]軍は秀京に総攻撃をかけ、激戦の末に陳開は水軍を失い、秀京城内に撤退した。しかし秀京では地主が蜂起して、陳開は秀京を脱出して[[太平天国]]の[[石達開]]軍に合流しようとした。しかし果たせずに捕らえられて斬られた。

2020年9月15日 (火) 15:50時点における版

陳 開(ちん かい、Chen Kai1822年1861年)は大成国の指導者の一人。

広東省三水県出身の桶屋という説と、広東省南海県仏山鎮出身の船頭という説がある。天地会の指導者となり、金田蜂起に刺激を受け、1854年李文茂らと蜂起して、広州を包囲した。しかし、陥落させることはできず蜂起軍は両広総督葉名琛の反撃を受け、拠点を失った。

陳開・李文茂は広西省に逃れ、1855年潯州を占領した。ここで陳開は大成国の建国を宣言し、洪徳と年号を定め、貨幣として洪徳通宝を発行した。陳開は鎮南王(のち平潯王と改称)、李文茂は平靖王、梁培友は平東王、区潤は平西王、梁昌は定北王を名乗り、潯州を秀京と改称した。さらに柳州梧州南寧を支配下に置いた。

1858年、梧州を出発した陳開率いる東路軍と、柳州を出発した李文茂率いる西路軍は桂林攻略を目指したが、桂林には蔣益澧率いる湘軍が応援に来ており、西路軍は敗れ、東路軍も撤退に追い込まれた。その後、柳州・梧州も失った。

1861年軍は秀京に総攻撃をかけ、激戦の末に陳開は水軍を失い、秀京城内に撤退した。しかし秀京では地主が蜂起して、陳開は秀京を脱出して太平天国石達開軍に合流しようとした。しかし果たせずに捕らえられて斬られた。

参考文献

  • 羅爾綱『太平天国史』中華書局