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幼い時から賢く早熟で、教育熱心な母親の影響もあり、若い頃から勉学に励んだ。鍾会の母親は謹厳な性格であり、また勉強熱心かつ教育熱心で、鍾会に4歳で『[[孝経]]』を教え、その後も『[[論語]]』『[[詩経]]』『[[書経|尚書]]』『[[春秋左氏伝]]』『[[易経|易]]』などの様々な書物を鍾会に教え暗唱させた。鍾会の母親は鍾会を15歳で[[太学]]に入学させ、自分ひとりで勉強するように説いた。[[蔣済]]は、5歳の時の鍾会を「並外れた人間」と高く評価している。鍾会は[[草書]]・[[隷書]]に巧みで、他人の筆跡を真似る事も得意であったという。また、文章も巧く論文を多数書いている。 |
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20歳で朝廷に出仕した。父が[[曹操]]・[[曹丕]]時代の元老であった事もあり、才略・技能に優れ、博学で勉強熱心だったので、若くして重用される事となった。正始年間(西暦240〜249年)、[[曹芳]]時代に秘書郎に任ぜられ[[尚書]]中書侍郎に昇進し、[[曹髦]]時代になると[[関内侯]]の爵位が与えられている。[[司馬師]]・[[司馬昭]]に重用され、[[カン丘倹|毌丘倹]]・[[文欽]]・[[諸葛誕]]の乱の鎮圧に参謀として参加した。 |
20歳で朝廷に出仕した。父が[[曹操]]・[[曹丕]]時代の元老であった事もあり、才略・技能に優れ、博学で勉強熱心だったので、若くして重用される事となった。正始年間(西暦240〜249年)、[[曹芳]]時代に秘書郎に任ぜられ[[尚書]]中書侍郎に昇進し、[[曹髦]]時代になると[[関内侯]]の爵位が与えられている。[[司馬師]]・[[司馬昭]]に重用され、[[カン丘倹|毌丘倹]]・[[文欽]]・[[諸葛誕]]の乱の鎮圧に参謀として参加した。 |
2020年9月15日 (火) 15:28時点における版
鍾会 | |
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清代の書物に描かれた鍾会の挿絵 | |
魏 県侯・司徒・仮節・鎮西将軍 | |
出生 |
黄初6年(225年) 豫州潁川郡長社県 |
死去 |
景元5年正月18日(264年3月3日) 成都 |
拼音 | Zhōng Huì |
字 | 士季 |
主君 | 曹丕→曹叡→曹芳→曹髦→曹奐 |
鍾 会(しょう かい、225年 - 264年3月3日)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は士季。父は鍾繇。母は張昌蒲。異母兄姉は鍾毓・鍾氏(荀勗の母)。豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌市長葛市)の人。蜀漢を平定した功労者となるも、蜀漢の滅亡後に謀反を起こして殺害された。
生涯
蜀漢侵攻前
幼い時から賢く早熟で、教育熱心な母親の影響もあり、若い頃から勉学に励んだ。鍾会の母親は謹厳な性格であり、また勉強熱心かつ教育熱心で、鍾会に4歳で『孝経』を教え、その後も『論語』『詩経』『尚書』『春秋左氏伝』『易』などの様々な書物を鍾会に教え暗唱させた。鍾会の母親は鍾会を15歳で太学に入学させ、自分ひとりで勉強するように説いた。蔣済は、5歳の時の鍾会を「並外れた人間」と高く評価している。鍾会は草書・隷書に巧みで、他人の筆跡を真似る事も得意であったという。また、文章も巧く論文を多数書いている。
20歳で朝廷に出仕した。父が曹操・曹丕時代の元老であった事もあり、才略・技能に優れ、博学で勉強熱心だったので、若くして重用される事となった。正始年間(西暦240〜249年)、曹芳時代に秘書郎に任ぜられ尚書中書侍郎に昇進し、曹髦時代になると関内侯の爵位が与えられている。司馬師・司馬昭に重用され、毌丘倹・文欽・諸葛誕の乱の鎮圧に参謀として参加した。
諸葛誕の乱時は、参謀として軍事を取り仕切り、諸葛誕の救援に来ていた呉の全懌らを策略で魏に帰順させ、勝利に貢献した。当時の人々は鍾会を子房(張良)のようだと言った。その後、司隷校尉に昇進した。中央官庁から離れても、当時の政治上の変更や賞罰を全て取り仕切ったという。
鍾会は人物眼にも優れており、司馬昭に王戎など才覚ある名臣を多く紹介しているが、讒言で人を追い落とす事も多かった。嵆康らが処刑されたのも、鍾会の計略によるものである。
鍾会は功績を誇る節があり、「野心がその器量より大きい。慎み深くしないといけない」と友人の傅嘏に窘められた。
司馬昭の夫人王元姫は、夫に常々「鍾士季は利に目を向けて義を忘れ、何でも自分でやりたがる人です。恩寵が過ぎれば、必ずや見境をなくします。大任を与えてはなりません」と言っていたという。
また、辛憲英は鍾会の野心を見抜いていたとされ、甥の羊祜に「鍾会は勝手に物事を判断するので、いつまでも人に仕えているような人ではないでしょう」と言い、羊祜を慌てさせたという。
蜀漢攻略と鍾会の乱
司馬昭は鍾会とともに、蜀の国力が衰えたので制圧できると考え、蜀漢の地形を調査し状勢を検分していた。262年、鍾会は鎮西将軍・仮節・都督関中諸軍事に任命された。
263年、司馬昭の命で鄧艾らと共に蜀征伐に出陣した。鍾会は胡烈らを先鋒とし関城(陽安関)を降した。鍾会は田章らに剣閣の西を通り江油へ出る道を取らせ、田章は江油の手前で蜀軍の伏兵三部隊を撃破した。その後、田章は鄧艾の指揮下に入り、先鋒に命じられた。鄧艾が綿竹で諸葛瞻らを討ち取ると、劉禅は鄧艾に降伏した。劉禅が降伏した後、鍾会は魏兵らに略奪を許さず、蜀の官僚達と友好的に接し、姜維と親交を深めた。鍾会は蜀漢征伐の功績により司徒に任じられ、爵位も県侯に昇進し、一万戸を加増された。
一方でこの蜀漢征伐時に、桟道が崩れた事を理由に許儀を処刑し、さらに諸葛緒が怯んで前進しないと密告し、諸葛緒の兵権を取り上げ配下の兵を自分のものにしている。また諸葛亮の墓の祭祀を行なわせている。
『三国志』魏書鍾会伝の注に引く『世語』および『漢晋春秋』によれば、蜀漢に亡命していた夏侯覇は鍾会の才能を高く評価しており、「鍾会は蜀漢・呉にとって心配な事態を招くかもしれません」と語ったという。
鄧艾が独断専横し勝手な処置をしたので、鍾会は胡烈・師纂らとともに鄧艾を告発した。その結果、鄧艾は兵権を剥奪され逮捕された[1]。これによって自立の野心を抱いていた鍾会は、大軍勢を1人で統率するようになったので、姜維と手を結んで魏に反逆しようとした。鍾会はあわ良くば司馬昭に取って代わり、失敗しても(蜀漢を築いた)劉備くらいにはなれると計算した。264年正月15日、成都で護軍・郡太守・牙門将・騎督以上の者を宴に招待し、監禁した。しかし胡烈の計略により、胡烈の子胡淵ら将兵が反逆したため、鍾会は殺された。この時40歳であった。同行していた兄の子も斬られた。なお、鍾会は遠征に息子ではなく甥たちを同行させている。というのも、彼は蜀漢討伐の少し前の時点に独り身であったという記述があり、実の子に関する具体的な記述がないことから、生涯独身だったとする意見がある[2]。
蜀漢討伐前に、邵悌は司馬昭に対し「鍾会に10数万の軍を与えるのは危険です」と言った。司馬昭は「蜀漢討伐に勝機を見出している人は少ないが、鍾会は蜀漢討伐に勝機を見出している。だから鍾会に蜀漢討伐をさせるのだ。それに、もし鍾会が裏切ったとしても鍾会は上手くできないだろう。敗軍(蜀漢軍)の将兵は意気消沈し、遠征軍(魏軍)の将兵は魏に帰りたいから同調しないだろう」と答えた。
鍾会の遺体は向雄に引き取られ、埋葬された。司馬昭は「かつて王経が死んだ時、私は貴卿が東市で哭泣したことを咎めなかった。しかしこの度は鍾会が自らの意志で叛逆したというのに、なぜ貴卿は葬儀を行ったのか。このようなことを許していたら法はどうなるのだ」と向雄を叱った。しかし、向雄は「先王は朽ちた骨にまで仁愛を及ぼされました。先に功罪を知ってから埋葬することができるでしょうか。今、誅伐がすでに鍾会へ加えられ、法は全うされました。私は彼の遺体を収め、埋葬を行なって道義を貫きました。殿下は朽ちた骨を憎み野辺に捨てておいでですが、将来、仁者賢人に嘆かれることになります。それは残念なことではありませんか」と答えた。司馬昭はこれを聞きたいへん喜び、宴席で談笑してから寝殿に帰った。
陳寿は鍾会を「熟練した策略家であったが、大きな野心を抱き、災禍をよく考えずに反逆した結果、一族とともに殺害された」と評している。
『三国志演義』の毛宗崗の批評では、鍾会の反逆計画について「秘密が守られずしかも迅速でなかった。その死は当然である。しかし事がうまくいっていればいたで、諸将を殺した後に姜維に殺されていただろうから、どちらにせよ鍾会は死ぬことになっただろう」と評している。
人物
文学者として
鍾会は『易に互体なし』という論文や、才能と本性の同異についての論文を書いた[3]。鍾会の死後に、鍾会の家から、鍾会が書いたと思われる『道論』と名づけられた20編の文章が見つかったが、内容は「道家」の説でなく「形名家(論理学派)」の説であった。
鍾会は王弼と仲が良く、王弼の論の高邁さに感服していた。鍾会は何晏とも交流があり、何晏の「聖人には喜怒哀楽の情が無い」という論を祖述した。ちなみに王弼は何晏の論を批判している。
『三国志』魏書三小帝紀の注に引く『晋書公賛』によれば、曹髦はいつも司馬望・王沈・裴秀・鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いていたとある。
世説新語
『世説新語』にはいくつかの逸話が載せられている。
- 子供時代、父の酒を兄と共に盗み飲んだ。兄は拝礼をしてから飲んだが鍾会は拝礼をしなかった。それを見ていた父が「なぜ拝礼をせずに飲んだのか」と、尋ねると「そもそも盗みというものは礼から外れている事なので、拝礼をしませんでした」と答えた。
- 甥の荀勗の筆跡を真似て荀勗が母に預けていた高価な剣を、騙し取った。
- 裴楷に人物評をされたとき、「鍾士季に会うと、武器庫を見ているようだ。ただ矛や戟が並んでいるかのようだ」と言われた。
- 嵆康を訪ねたとき、嵆康は刀鍛冶に熱中していた。鍾会は近づいていき待っていたが、いつまで待っても声をかけてもらえなかった。立ち去ろうとしたときに「何を聞きに来たのか。何を見て去るのか」と聞かれ「聞きたい事が聞きたかったから来ただけで、見たかった事を見たので帰るだけだ」と答えた。