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「万年国会」の版間の差分

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政府が台湾に移った後も、当時の中華民国政府は、多くの国家から「全中国を代表する唯一の合法的政府である」と見られており、中国大陸で選ばれた議員がいることは中華民国政府にとって「法的正統性('''{{仮リンク|法統|zh|法統#近代以来情况|label = 法統}}''')」の象徴であり、中華民国政府が中国大陸における主権を有することの重要な象徴でもあった。このため、[[台湾地区]]以外で選ばれた国民大会代表たちは、改選されることはなかった。
政府が台湾に移った後も、当時の中華民国政府は、多くの国家から「全中国を代表する唯一の合法的政府である」と見られており、中国大陸で選ばれた議員がいることは中華民国政府にとって「法的正統性('''{{仮リンク|法統|zh|法統#近代以来情况|label = 法統}}''')」の象徴であり、中華民国政府が中国大陸における主権を有することの重要な象徴でもあった。このため、[[台湾地区]]以外で選ばれた国民大会代表たちは、改選されることはなかった。


こうした状況下、政府の標榜する「大陸反攻」は遅々として達成されず、憲法上、任期は3年とされた立法委員の任期満了が近づいてしまった。[[介石]]は[[1950年]][[12月27日]]、「改選するすべがない」として第1期立法委員の任期を1年延長することを立法院に提起し、立法院は同意した<ref name="culture">{{Cite web |url=http://nrch.culture.tw/twpedia.aspx?id=3857 |title=萬年國會 |publisher=[[文化部 (中華民国)|中華民国文化部]] |accessdate=2020-05-16 |language=zh }}</ref>。同様の提案は[[1952年]]5月と[[1953年]]4月にも行われ、第1期の立法委員の任期は[[1954年]]5月まで延長されていった<ref name="culture" />。1954年には、憲法上、任期は6年とされていた国民大会代表と監察委員の任期も改選を迎えることから、これらについても対処が必要であった。このうち、国民大会代表については、中華民国憲法第28条第2項に「毎期の国民大会代表の任期は、次期国民大会開会の日までとする」とあることから、第2期の選挙のめどが立たない以上、それまでは第1期の国民大会代表の任期が継続すると解釈した<ref name="culture" />。一方、こうした定めのない監察委員及び立法委員については、1年ごとの延長では根本的な解決にならないことから、[[司法院]]大法官会議は1959年[[1月29日]]、「国家に重大な事象が発生し、法に基づき次期の選挙を行うことが事実上不可能な場合に、立法院及び監察院に一任している職権の行使が停止するような状態に陥ってしまうと、憲法が定める[[中華民国の政治#五院|五院制度]]の本旨にそぐわなくなってしまう。ゆえに、法に基づき第2期委員の選出や招集ができるまでの間は、第1期立法委員及び監察委員が引き続きその職権を行使できる」との解釈を発した<ref>{{Cite web |url=https://cons.judicial.gov.tw/jcc/zh-tw/jep03/show?expno=31 |title=釋字第31號解釋 |publisher=[[司法院|司法院大法官]] |accessdate=2020-05-16 |language=zh }}</ref>。これらの結果、第1期の議員らの任期が、1948年から[[1991年]]まで40年以上の長きにわたる状況が生まれてしまった。
こうした状況下、政府の標榜する「大陸反攻」は遅々として達成されず、憲法上、任期は3年とされた立法委員の任期満了が近づいてしまった。[[介石]]は[[1950年]][[12月27日]]、「改選するすべがない」として第1期立法委員の任期を1年延長することを立法院に提起し、立法院は同意した<ref name="culture">{{Cite web |url=http://nrch.culture.tw/twpedia.aspx?id=3857 |title=萬年國會 |publisher=[[文化部 (中華民国)|中華民国文化部]] |accessdate=2020-05-16 |language=zh }}</ref>。同様の提案は[[1952年]]5月と[[1953年]]4月にも行われ、第1期の立法委員の任期は[[1954年]]5月まで延長されていった<ref name="culture" />。1954年には、憲法上、任期は6年とされていた国民大会代表と監察委員の任期も改選を迎えることから、これらについても対処が必要であった。このうち、国民大会代表については、中華民国憲法第28条第2項に「毎期の国民大会代表の任期は、次期国民大会開会の日までとする」とあることから、第2期の選挙のめどが立たない以上、それまでは第1期の国民大会代表の任期が継続すると解釈した<ref name="culture" />。一方、こうした定めのない監察委員及び立法委員については、1年ごとの延長では根本的な解決にならないことから、[[司法院]]大法官会議は1959年[[1月29日]]、「国家に重大な事象が発生し、法に基づき次期の選挙を行うことが事実上不可能な場合に、立法院及び監察院に一任している職権の行使が停止するような状態に陥ってしまうと、憲法が定める[[中華民国の政治#五院|五院制度]]の本旨にそぐわなくなってしまう。ゆえに、法に基づき第2期委員の選出や招集ができるまでの間は、第1期立法委員及び監察委員が引き続きその職権を行使できる」との解釈を発した<ref>{{Cite web |url=https://cons.judicial.gov.tw/jcc/zh-tw/jep03/show?expno=31 |title=釋字第31號解釋 |publisher=[[司法院|司法院大法官]] |accessdate=2020-05-16 |language=zh }}</ref>。これらの結果、第1期の議員らの任期が、1948年から[[1991年]]まで40年以上の長きにわたる状況が生まれてしまった。


[[1964年]]、[[国立台湾大学]]政治学部の教授であった[[彭明敏]]は、「{{仮リンク|台湾自救運動宣言|zh|台灣自救運動宣言}}」を発表した。この中で、3,000人あまりの国民大会代表のうち台湾から選ばれた者は十数名にすぎず、473人の立法委員のうち台湾から選ばれた者はわずか6名であり、[[介石政権]]が台湾の人民を代表しているのだろうか、と疑問を呈した。[[1978年]]、後に[[民主進歩党]]主席を務める[[施明徳]]は、許一文の[[ペンネーム]]で党外運動雑誌『這一代』に寄せた原稿の中で、「万年国会」という言葉を用いた。これを契機に、長年にわたって改選されていない国会を批判する言葉として、「万年国会」という言葉が党外運動活動家たちの間で使われるようになった。後に民進党所属で立法委員となった[[朱高正]]は、『[[論語]]』(憲問第十四)にある「幼にして孫弟ならず、長じて述ぶることなく、老いて死せざる、是れを賊となす」を引き合いに出し、万年国会の議員らを「{{仮リンク|老賊|zh|老賊 (臺灣政治)}}」と非難した。
[[1964年]]、[[国立台湾大学]]政治学部の教授であった[[彭明敏]]は、「{{仮リンク|台湾自救運動宣言|zh|台灣自救運動宣言}}」を発表した。この中で、3,000人あまりの国民大会代表のうち台湾から選ばれた者は十数名にすぎず、473人の立法委員のうち台湾から選ばれた者はわずか6名であり、[[介石政権]]が台湾の人民を代表しているのだろうか、と疑問を呈した。[[1978年]]、後に[[民主進歩党]]主席を務める[[施明徳]]は、許一文の[[ペンネーム]]で党外運動雑誌『這一代』に寄せた原稿の中で、「万年国会」という言葉を用いた。これを契機に、長年にわたって改選されていない国会を批判する言葉として、「万年国会」という言葉が党外運動活動家たちの間で使われるようになった。後に民進党所属で立法委員となった[[朱高正]]は、『[[論語]]』(憲問第十四)にある「幼にして孫弟ならず、長じて述ぶることなく、老いて死せざる、是れを賊となす」を引き合いに出し、万年国会の議員らを「{{仮リンク|老賊|zh|老賊 (臺灣政治)}}」と非難した。


この間、民意の代表者である国民大会代表と立法委員については、台湾の人口増加と欠員に伴い、議席の追加が行われた。[[1966年]][[3月22日]]に公布された改正後の動員戡乱時期臨時条款では、これらの増員に係る選挙の定めが追加され、[[1969年]]に国民大会代表と立法委員の増員分の選挙が行われた。さらに[[1972年]][[3月23日]]に公布された改正後の動員戡乱時期臨時条款では、増員された議員らにのみ任期を定め、第1期の議員との明確な違いを設けたため、第1期の議員らは相変わらず改選されなかった。
この間、民意の代表者である国民大会代表と立法委員については、台湾の人口増加と欠員に伴い、議席の追加が行われた。[[1966年]][[3月22日]]に公布された改正後の動員戡乱時期臨時条款では、これらの増員に係る選挙の定めが追加され、[[1969年]]に国民大会代表と立法委員の増員分の選挙が行われた。さらに[[1972年]][[3月23日]]に公布された改正後の動員戡乱時期臨時条款では、増員された議員らにのみ任期を定め、第1期の議員との明確な違いを設けたため、第1期の議員らは相変わらず改選されなかった。

2020年9月15日 (火) 14:52時点における版

万年国会(まんねんこっかい、繁体字中国語: 萬年國會)とは、中華民国国民大会代表立法委員及び監察委員といった議員のうち、中華民国が中国大陸台湾の両地域を領土にしていた時代である1947年から1948年にかけて選出された議員及びこれらの議員で占められた状態の国民大会などのことをいう。国共内戦により中華民国政府が台湾に移った後、国民大会代表などの議員の改選を停止したため、これらの議員は長期にわたって改選されず、その任期は延べ40年以上にわたることとなった。李登輝政権下において国民大会代表と立法委員の改選が行われた。

経緯

1947年に中華民国憲法が施行された後、同年から翌1948年にかけて国民大会代表(1947年11月)中国語版監察委員(1947年12月)中国語版及び立法委員(1948年1月)中国語版が選挙によって選ばれた。これらの議員は、実際に1948年3月以降、当時の首都である南京に集められている。しかし、その後の国共内戦の敗退と1949年10月1日中華人民共和国建国により、国民政府は1949年12月7日に台湾の台北に移り、ほどなくして中国大陸における実質的な統治権を失ってしまった。

政府が台湾に移った後も、当時の中華民国政府は、多くの国家から「全中国を代表する唯一の合法的政府である」と見られており、中国大陸で選ばれた議員がいることは中華民国政府にとって「法的正統性(法統中国語版)」の象徴であり、中華民国政府が中国大陸における主権を有することの重要な象徴でもあった。このため、台湾地区以外で選ばれた国民大会代表たちは、改選されることはなかった。

こうした状況下、政府の標榜する「大陸反攻」は遅々として達成されず、憲法上、任期は3年とされた立法委員の任期満了が近づいてしまった。蔣介石1950年12月27日、「改選するすべがない」として第1期立法委員の任期を1年延長することを立法院に提起し、立法院は同意した[1]。同様の提案は1952年5月と1953年4月にも行われ、第1期の立法委員の任期は1954年5月まで延長されていった[1]。1954年には、憲法上、任期は6年とされていた国民大会代表と監察委員の任期も改選を迎えることから、これらについても対処が必要であった。このうち、国民大会代表については、中華民国憲法第28条第2項に「毎期の国民大会代表の任期は、次期国民大会開会の日までとする」とあることから、第2期の選挙のめどが立たない以上、それまでは第1期の国民大会代表の任期が継続すると解釈した[1]。一方、こうした定めのない監察委員及び立法委員については、1年ごとの延長では根本的な解決にならないことから、司法院大法官会議は1959年1月29日、「国家に重大な事象が発生し、法に基づき次期の選挙を行うことが事実上不可能な場合に、立法院及び監察院に一任している職権の行使が停止するような状態に陥ってしまうと、憲法が定める五院制度の本旨にそぐわなくなってしまう。ゆえに、法に基づき第2期委員の選出や招集ができるまでの間は、第1期立法委員及び監察委員が引き続きその職権を行使できる」との解釈を発した[2]。これらの結果、第1期の議員らの任期が、1948年から1991年まで40年以上の長きにわたる状況が生まれてしまった。

1964年国立台湾大学政治学部の教授であった彭明敏は、「台湾自救運動宣言中国語版」を発表した。この中で、3,000人あまりの国民大会代表のうち台湾から選ばれた者は十数名にすぎず、473人の立法委員のうち台湾から選ばれた者はわずか6名であり、蔣介石政権が台湾の人民を代表しているのだろうか、と疑問を呈した。1978年、後に民主進歩党主席を務める施明徳は、許一文のペンネームで党外運動雑誌『這一代』に寄せた原稿の中で、「万年国会」という言葉を用いた。これを契機に、長年にわたって改選されていない国会を批判する言葉として、「万年国会」という言葉が党外運動活動家たちの間で使われるようになった。後に民進党所属で立法委員となった朱高正は、『論語』(憲問第十四)にある「幼にして孫弟ならず、長じて述ぶることなく、老いて死せざる、是れを賊となす」を引き合いに出し、万年国会の議員らを「老賊中国語版」と非難した。

この間、民意の代表者である国民大会代表と立法委員については、台湾の人口増加と欠員に伴い、議席の追加が行われた。1966年3月22日に公布された改正後の動員戡乱時期臨時条款では、これらの増員に係る選挙の定めが追加され、1969年に国民大会代表と立法委員の増員分の選挙が行われた。さらに1972年3月23日に公布された改正後の動員戡乱時期臨時条款では、増員された議員らにのみ任期を定め、第1期の議員との明確な違いを設けたため、第1期の議員らは相変わらず改選されなかった。

万年国会の解消

1989年1月26日、第1期の立法委員と国民大会代表らに引退を促す「第一期資深中央民意代表依願退職条例(繁体字中国語: 第⼀屆資深中央⺠意代表⾃願退職條例)」が立法院で可決された。しかし、中国国民党外省人ベテラン議員らは、引き続き立法院をコントロールしたいと考え、本省人国民党議員や民主進歩党議員らと対立した。この時期、一部の民進党立法委員と外省人国民党立法委員との乱闘がしばしば発生した。

1990年3月、多くの大学生が中正紀念堂前に集まり抗議活動を行った(三月学運)。学生たちは、万年国会の議員である国民大会代表による投票で総統が選ばれることにも抗議した。この選挙で総統となった李登輝は、三月学運の代表者たちの意見を受け入れ、中華民国憲法の修正を進めた。司法院大法官会議も同年6月21日に新たな解釈を行い、第1期の議員らの職権行使を1991年12月31日までに終わらせるとともに、次期議員の選挙を行うよう政府に求め、1959年の解釈を修正した[3]。1991年5月1日に公布された中華民国憲法増修条文によって、また同日に動員戡乱時期臨時条款が廃止されたことによって、新たな議員が選ばれ、同年12月31日をもって40年以上にわたり国民大会代表を務めていた565人が退任し、その代わりとして十二分な「退職金」を受け取った。

1992年5月28日に公布された中華民国憲法増修条文に基づき、監察委員の選出は、選挙による方式から、総統が指名し国民大会の同意により任命する方式に改められた[4]。さらに同年12月には立法委員選挙が行われ、立法委員全員が改選された。これによって「万年国会」は名実ともに過去のものとなった。

脚注

  1. ^ a b c 萬年國會” (中国語). 中華民国文化部. 2020年5月16日閲覧。
  2. ^ 釋字第31號解釋” (中国語). 司法院大法官. 2020年5月16日閲覧。
  3. ^ 釋字第261號解釋” (中国語). 司法院大法官. 2020年5月16日閲覧。
  4. ^ その後、2000年4月25日に公布された中華民国憲法増修条文により、「総統が指名し立法院が同意する」に改められている。

関連項目