コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「佐藤をとみ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
5行目: 5行目:
[[1893年]]、[[宮城県]][[黒川郡]][[大衡村]]に生まれた。[[1916年]]、[[東京]]の京橋病院で[[看護婦]]として働いていた時、[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]](現、[[岡山大学]])の学生だった郭が友人の見舞いに来て知り合い、[[1917年]]に結婚した。
[[1893年]]、[[宮城県]][[黒川郡]][[大衡村]]に生まれた。[[1916年]]、[[東京]]の京橋病院で[[看護婦]]として働いていた時、[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]](現、[[岡山大学]])の学生だった郭が友人の見舞いに来て知り合い、[[1917年]]に結婚した。


[[1923年]]には夫婦で[[上海市|上海]]へ移ったが、[[1928年]]には[[介石]]との対立により、中国を追われて日本の[[千葉県]][[市川市]]に移った。市川での郭沫若は、主として中国古代史、[[甲骨文字]]の研究に専念し、このときに挙げた業績は現代でも高く評価されている<ref name="ryuketsu54">[[#劉傑1999|劉傑(1999)pp.54-56]]</ref>。
[[1923年]]には夫婦で[[上海市|上海]]へ移ったが、[[1928年]]には[[介石]]との対立により、中国を追われて日本の[[千葉県]][[市川市]]に移った。市川での郭沫若は、主として中国古代史、[[甲骨文字]]の研究に専念し、このときに挙げた業績は現代でも高く評価されている<ref name="ryuketsu54">[[#劉傑1999|劉傑(1999)pp.54-56]]</ref>。


[[日中戦争]]の勃発した[[1937年]]、郭沫若だけが日本を離れた。[[第二次世界大戦]]後、をとみは郭沫若に会いため中国へ渡ったが、郭沫若は既に再婚していた。しかし、をとみは子供たちを中国人として中国に送り出した後、自身も中国へ移住し、[[1994年]]、上海で亡くなった。101歳。
[[日中戦争]]の勃発した[[1937年]]、郭沫若だけが日本を離れた。[[第二次世界大戦]]後、をとみは郭沫若に会いため中国へ渡ったが、郭沫若は既に再婚していた。しかし、をとみは子供たちを中国人として中国に送り出した後、自身も中国へ移住し、[[1994年]]、上海で亡くなった。101歳。

2020年9月15日 (火) 14:51時点における版

郭沫若・をとみ夫妻と子供たち

佐藤 をとみ(さとう をとみ)または、郭 をとみ(かく をとみ、1893年-1994年)は、中国の歴史家・文学者として有名な郭沫若の2番目の妻。単にとみと表記、称されることもある。中国ではしばしば佐藤 富子(さとう とみこ)と表記される。中国語名は郭安娜(クオ・アンナ)[1]

略歴

1893年宮城県黒川郡大衡村に生まれた。1916年東京の京橋病院で看護婦として働いていた時、第六高等学校(現、岡山大学)の学生だった郭が友人の見舞いに来て知り合い、1917年に結婚した。

1923年には夫婦で上海へ移ったが、1928年には蔣介石との対立により、中国を追われて日本の千葉県市川市に移った。市川での郭沫若は、主として中国古代史、甲骨文字の研究に専念し、このときに挙げた業績は現代でも高く評価されている[2]

日中戦争の勃発した1937年、郭沫若だけが日本を離れた。第二次世界大戦後、をとみは郭沫若に会いため中国へ渡ったが、郭沫若は既に再婚していた。しかし、をとみは子供たちを中国人として中国に送り出した後、自身も中国へ移住し、1994年、上海で亡くなった。101歳。

なお、郭沫若は戦後、中日友好協会名誉会長を務めた[2]

家族

2人の間には息子が4人(郭和夫、郭博、郭福生、郭志宏)と娘1人(郭淑禹)があった。5人の子はいずれも戦後中国で要職についた。郭淑禹の娘(林叢)は、日本に留学して二松学舎大学大学院で国文学を学び、郭沫若研究家となった国士舘大学教授、藤田梨那である(現在は日本に帰化)。

旧宅

市川に居を定めたのは、上海当時の知人、作家村松梢風の紹介であった[3][注釈 1]。当初は村松の知人である横田家の近傍に住んでいたが、警視庁に3日間拘留されて厳しい尋問を受けたこともあり、他に迷惑がかかるのを避けて、須和田六所神社の側道を入ったところにある家へ転居した。これが現在の「旧宅」で、1928年に建築された住居である[3]。戦後、をとみの一家はそこに暮らしていたが1956年の自身の渡中によって現所有者に売却された[3]。以後、同住宅は民間人に賃貸されていたが、1979年より「旧宅保存」を目的として市川市が借り受けることになった。その間、郭沫若の四男で音楽家郭志鴻が仮寓したこともあったが、老朽化が進んだことなどから、1999年3月をもって借り受けを解約した。2004年、市川市は市内真間5丁目公園に旧宅を移築・復元して「郭沫若記念館」を開設した。

著作

をとみは1938年、『我的丈夫郭沫若』という本を出している。

脚注

注釈

  1. ^ 村松梢風は『魔都』など、上海を舞台とした作品をいくつか発表している。

出典

参考文献

  • 劉傑『中国人の歴史観』文藝春秋文春新書〉、1999年12月。ISBN 4-16-660077-X 

外部リンク