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== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[新潟市]]刈部家(刈部喜兵衛)の子として生まれる。貿易関係の仕事をしていて、かなりの名家だったらしいが、早死にの家系だったらしい。生後7日目に北魚沼郡小千谷町(現在の[[小千谷市]])の中山泰治・ハツリ夫妻の養子となる。町立小千谷尋常小学校卒業。旧制県立小千谷中学校卒業。[[國學院大學|國學院高等師範学校]]を卒業。[[茨城県立水戸工業高等学校|水戸工業学校]]教員(国語漢文)。1938年・歩兵弟58[[連隊]][[少尉]]。[[支那事変]]に従軍。新潟県立糸魚川中学校教員(国語漢文)。昭和1945年7月出征。広島からフィリピンに向かう途中で輸送船が魚雷により沈没。生き残った兵士たちは[[台湾]]に漂着。台湾で[[終戦]]を迎え、[[介石]]軍の捕虜となる。1946年復員し、糸魚川中学(旧制)に復職。1947年、[[新潟県立長岡高等学校|長岡高校]](新制)に異動。1968年[[長岡工業高等専門学校]]に異動。1970年同校[[教授]]に就任。1977年定年退職。1988年3月27日76歳の生涯を閉じる。
[[新潟市]]刈部家(刈部喜兵衛)の子として生まれる。貿易関係の仕事をしていて、かなりの名家だったらしいが、早死にの家系だったらしい。生後7日目に北魚沼郡小千谷町(現在の[[小千谷市]])の中山泰治・ハツリ夫妻の養子となる。町立小千谷尋常小学校卒業。旧制県立小千谷中学校卒業。[[國學院大學|國學院高等師範学校]]を卒業。[[茨城県立水戸工業高等学校|水戸工業学校]]教員(国語漢文)。1938年・歩兵弟58[[連隊]][[少尉]]。[[支那事変]]に従軍。新潟県立糸魚川中学校教員(国語漢文)。昭和1945年7月出征。広島からフィリピンに向かう途中で輸送船が魚雷により沈没。生き残った兵士たちは[[台湾]]に漂着。台湾で[[終戦]]を迎え、[[介石]]軍の捕虜となる。1946年復員し、糸魚川中学(旧制)に復職。1947年、[[新潟県立長岡高等学校|長岡高校]](新制)に異動。1968年[[長岡工業高等専門学校]]に異動。1970年同校[[教授]]に就任。1977年定年退職。1988年3月27日76歳の生涯を閉じる。


== 著書 ==
== 著書 ==

2020年9月15日 (火) 14:49時点における版

中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月11日- 1988年(平成10年)3月27日)は、新潟県歌人長岡工業高等専門学校名誉教授。コスモス短歌会新潟県支部長。

略歴

新潟市刈部家(刈部喜兵衛)の子として生まれる。貿易関係の仕事をしていて、かなりの名家だったらしいが、早死にの家系だったらしい。生後7日目に北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)の中山泰治・ハツリ夫妻の養子となる。町立小千谷尋常小学校卒業。旧制県立小千谷中学校卒業。國學院高等師範学校を卒業。水戸工業学校教員(国語漢文)。1938年・歩兵弟58連隊少尉支那事変に従軍。新潟県立糸魚川中学校教員(国語漢文)。昭和1945年7月出征。広島からフィリピンに向かう途中で輸送船が魚雷により沈没。生き残った兵士たちは台湾に漂着。台湾で終戦を迎え、蔣介石軍の捕虜となる。1946年復員し、糸魚川中学(旧制)に復職。1947年、長岡高校(新制)に異動。1968年長岡工業高等専門学校に異動。1970年同校教授に就任。1977年定年退職。1988年3月27日76歳の生涯を閉じる。

著書

歌集

  • 『古典秀歌鑑賞 抒情の源流をたずねて Ⅰ』雪華社、 1967年  
  • 『風霜の丘 歌集』伊麻書房<コスモス叢書、第14篇>、1977年
  • 『黄蜀葵 歌集』伊麻書房<コスモス叢書、第140篇>、1978年
  • 『夏草の白い花 中山礼治歌集』伊麻書房<コスモス叢書、第195篇>、 1982年
  • 『山西省の世界 歌集』柊書房、1998年

その他

  • 『万葉大和の旅』( 宮柊二と共著)保育社<カラーブックス>、1974年
  • 『戦場の鶏 「山西省」作品鑑賞』短歌新聞社、1976年
  • 『教科書にでてくる短歌の解釈』(監修:宮柊二)東京美術、1985年

脚注