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[[辛亥革命]]が勃発すると、白逾桓は[[武漢市|武漢]]に赴いて戦時総司令部の一員となり、湖北都督府参議も務めた。南北停戦の後に北京に戻り、再び『国風日報』を運営している。また同盟会の北京・[[天津市|天津]]・[[保定市|保定]]支部で参謀長となり、更に北方革命評議会評議、天津軍都督となるなど北方革命派の重鎮となった。[[中華民国]]成立後は衆議院議員に当選している。[[第二革命]](二次革命)では反[[袁世凱]]のため蜂起し、田桐と共に呉淞砲台を守備したが、敗北して日本に亡命した。[[護国戦争]]が勃発すると、白は帰国して[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]で反袁独立の活動を展開している<ref name=Xu/><ref name=Liu/>。
[[辛亥革命]]が勃発すると、白逾桓は[[武漢市|武漢]]に赴いて戦時総司令部の一員となり、湖北都督府参議も務めた。南北停戦の後に北京に戻り、再び『国風日報』を運営している。また同盟会の北京・[[天津市|天津]]・[[保定市|保定]]支部で参謀長となり、更に北方革命評議会評議、天津軍都督となるなど北方革命派の重鎮となった。[[中華民国]]成立後は衆議院議員に当選している。[[第二革命]](二次革命)では反[[袁世凱]]のため蜂起し、田桐と共に呉淞砲台を守備したが、敗北して日本に亡命した。[[護国戦争]]が勃発すると、白は帰国して[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]で反袁独立の活動を展開している<ref name=Xu/><ref name=Liu/>。


[[1917年]]([[民国紀元|民国]]6年)、[[護法運動]]が開始されると、白逾桓は[[広東省 (中華民国)|広東省]]に赴いて非常国会に出席した。しかし[[1924年]](民国13年)に[[中国国民党]]が改組され[[国共合作]]が開始されると白はこれに反対している。後に[[介石]]が[[南京市|南京]]で[[国民政府]]を樹立した際にも、がすでに反共路線をとっていたにもかかわらず、白はこれに反対している。後に天津で『振報』を刊行して社長となり、反共・反・親日の論調を展開、反の[[中華共和国|福建人民政府]]を支持する論評なども発表している。しかし[[1935年]](民国24年)5月3日、日本[[租界]]の自宅において何者かに銃撃され死亡した。享年61<ref name=Xu/><ref name=Liu/>。
[[1917年]]([[民国紀元|民国]]6年)、[[護法運動]]が開始されると、白逾桓は[[広東省 (中華民国)|広東省]]に赴いて非常国会に出席した。しかし[[1924年]](民国13年)に[[中国国民党]]が改組され[[国共合作]]が開始されると白はこれに反対している。後に[[介石]]が[[南京市|南京]]で[[国民政府]]を樹立した際にも、がすでに反共路線をとっていたにもかかわらず、白はこれに反対している。後に天津で『振報』を刊行して社長となり、反共・反・親日の論調を展開、反の[[中華共和国|福建人民政府]]を支持する論評なども発表している。しかし[[1935年]](民国24年)5月3日、日本[[租界]]の自宅において何者かに銃撃され死亡した。享年61<ref name=Xu/><ref name=Liu/>。


その前日には、『振報』と同様に親日の論調で知られた『国権報』の社長[[胡恩溥]]が、やはり日本租界で何者かに暗殺されていた。日本側はこれら暗殺事件を中国側の仕業と見なすことで、[[梅津・何応欽協定]]締結への足がかりとしていくことになる<ref>内田(2004)、22-24頁。</ref>。
その前日には、『振報』と同様に親日の論調で知られた『国権報』の社長[[胡恩溥]]が、やはり日本租界で何者かに暗殺されていた。日本側はこれら暗殺事件を中国側の仕業と見なすことで、[[梅津・何応欽協定]]締結への足がかりとしていくことになる<ref>内田(2004)、22-24頁。</ref>。

2020年9月15日 (火) 14:38時点における版

白逾桓
山縣初男『中国』所収
プロフィール
出生: 1875年光緒元年)
死去: 1935年民国24年)5月3日
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 湖北省安陸府天門県
職業: ジャーナリスト・革命家・政治家
各種表記
繁体字 白逾桓
簡体字 白逾桓
拼音 Bái Yúhuán
ラテン字 Pai Yü-huan
和名表記: はく ゆかん
発音転記: バイ ユーフアン
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白 逾桓(はく ゆかん、中国語: 白逾桓; 拼音: Bái Yúhuán; ウェード式: Pai Yü-huan)は、末・中華民国のジャーナリスト・革命家。中国同盟会以来の革命派人士で、護法運動でも孫文(孫中山)を支えた。しかし中国国民党国民政府には反対の姿勢を取っている。楚香

事績

1904年光緒30年)、日本に留学し明治大学で学んだ。この時に宋教仁と共同で雑誌『二十世紀之支那』を刊行している。翌1905年中国同盟会に加入した。同盟会では居正田桐呉敬恒(呉稚暉)と共に四傑と称されている。1907年(光緒33年)に宋と共に帰国し、東三省で同盟会遼東支部を設立した。更に蜂起も図ったものの計画が清朝に漏れてしまい、白は逮捕、護送中に辛うじて脱出している。その後は偽名を用い、1911年宣統3年)4月に『国風日報』を北京で設立し、革命派の媒体として活動した[1][2]

辛亥革命が勃発すると、白逾桓は武漢に赴いて戦時総司令部の一員となり、湖北都督府参議も務めた。南北停戦の後に北京に戻り、再び『国風日報』を運営している。また同盟会の北京・天津保定支部で参謀長となり、更に北方革命評議会評議、天津軍都督となるなど北方革命派の重鎮となった。中華民国成立後は衆議院議員に当選している。第二革命(二次革命)では反袁世凱のため蜂起し、田桐と共に呉淞砲台を守備したが、敗北して日本に亡命した。護国戦争が勃発すると、白は帰国して湖北省で反袁独立の活動を展開している[1][2]

1917年民国6年)、護法運動が開始されると、白逾桓は広東省に赴いて非常国会に出席した。しかし1924年(民国13年)に中国国民党が改組され国共合作が開始されると白はこれに反対している。後に蔣介石南京国民政府を樹立した際にも、蔣がすでに反共路線をとっていたにもかかわらず、白はこれに反対している。後に天津で『振報』を刊行して社長となり、反共・反蔣・親日の論調を展開、反蔣の福建人民政府を支持する論評なども発表している。しかし1935年(民国24年)5月3日、日本租界の自宅において何者かに銃撃され死亡した。享年61[1][2]

その前日には、『振報』と同様に親日の論調で知られた『国権報』の社長胡恩溥が、やはり日本租界で何者かに暗殺されていた。日本側はこれら暗殺事件を中国側の仕業と見なすことで、梅津・何応欽協定締結への足がかりとしていくことになる[3]。  

  1. ^ a b c 徐主編(2007)、293頁。
  2. ^ a b c 劉主編(2005)、407頁。
  3. ^ 内田(2004)、22-24頁。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 内田尚孝「『梅津何応欽協定』再考 日中関係史の視点から」『アジア研究』Vol.50, No.3、2004年7月。