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== 著書 ==
== 著書 ==
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* 帝都東京を中国革命で歩く 白水社 2016 
* 帝都東京を中国革命で歩く 白水社 2016 
* 近代中国への旅 [[白水社]] 2017
* 近代中国への旅 [[白水社]] 2017
* 『戦争前夜 <small>魯迅、介石の愛した日本</small>』新潮社、2019年3月15日
* 『戦争前夜 <small>魯迅、介石の愛した日本</small>』新潮社、2019年3月15日


=== 共編著 ===
=== 共編著 ===

2020年9月15日 (火) 14:34時点における版

譚 璐美(たん ろみ、タン・ロミ、タン・ルゥメイ[1]1950年[2]5月17日[3]- )は、ニューヨーク在住のノンフィクション作家[4]。元慶應義塾大学訪問教授[4][5]

経歴

東京都生まれ[5]横浜育ち[6]で、横浜中華街と縁が深い人物であるという[7]。本籍は中華人民共和国広東省[5]高明県[8]。慶應義塾大学文学部卒業[5]。1973年から慶應義塾大学講師、海外技術者研修協会講師[3]、広東省中山大学講師などを経て文筆家。専攻分野は、中国近代史と日・米・中国際関係[9]、国際政治、経済、文化など幅広く執筆している。

汪精衛政権外交専門委員・駐日大使館情報部長・芸文社主幹の譚覚真[10][7]を父に、陸軍中将河田槌太郎[注釈 1]の娘[10]淑子[11]を母に聖路加病院[12]で誕生した。譚平山譚植棠中国語版は大叔父にあたる[13]。幼い頃から父に連れられ中国香港を行き来していた[14]

1957年から小学一年から五年まで東京の四谷にある台湾系中国人学校[15]である東京中華学校[16][注釈 2]で学び、1962年に小学六年で大陸系中国人学校[17]である横浜山手中華学校[注釈 3]へ転校した[16]。同校ではバスケットボールチームに所属していたが、各種学校の扱いであったから市や県の大会に正式参加することはできなかったという[18]。17歳のころ、日本の県立高校[19]である神奈川県立横浜平沼高等学校に進学し、1969年に卒業 (第66期)[20]、高校三年生までバスケットボール一色だったという[21]。同年4月、慶應義塾大学文学部へ入学した[22]。海外技術者研修協会の日本語非常勤講師、慶應義塾外国語学校の中国語講師、慶應義塾大学経済学部講師を務めた[21]

著書

単著

  • 遥かなる広州 日中近代史のはざまにて 六興出版 1985.8
  • 柴玲の見た夢 天安門の炎は消えず 講談社 1992.9
  • 素顔の中国人 PHP研究所 1993.11
  • チャイニーズ・パズル 知られざる中国事情 新潮社 1994.11
  • それでも地球は回る 中国と日本とアメリカ 文藝春秋 1997.5
  • 父の国から来た密使 新潮社 1997.7
  • チャイニーズ・トライアングル 日本放送出版協会 1998.2
  • 「天安門」十年の夢 新潮社 1999.11
  • ザッツ・ア・グッド・クエッション! 日米中、笑う経済最前線 ビジネスエッセイ 日本経済新聞社 2001.2
  • 中国共産党葬られた歴史 文春新書 2001.10
    • 潘承瑤(譯).《被埋葬的中國共產黨史: 國民黨不提起的那些事, 如何改變了中(華民)國的命運?》. 大是文化有限公司. 2013-08-01
  • 私はあなたを忘れない 愛と哀しみのニューヨーク 新潮社 2002.2
  • 中華料理四千年 文春新書 2004.8
  • 阿片の中国史 新潮新書 2005.9
  • 江青に妬まれた女 ファーストレディ王光美の人生 日本放送出版協会 2006.5
  • 中国共産党を作った13人 新潮新書 2010.4
  • 日中百年の群像 革命いまだ成らず 新潮社(上下) 2012
  • 帝都東京を中国革命で歩く 白水社 2016 
  • 近代中国への旅 白水社 2017
  • 『戦争前夜 魯迅、蔣介石の愛した日本』新潮社、2019年3月15日

共編著

  • NY崩壊 2001-09-11 世界が変わった日 写真家Jがたどる直後7時間の記録 上重泰秀写真・文 文監修 佐久間裕美子訳 エクスナレッジ 2001.12
  • 譚夫人の欲深的香港の旅 コンプリート・ガイドブック 編著 新潮社 2002.5
  • 新華僑老華僑 変容する日本の中国人社会 劉傑共著 2008.4 文春新書
  • 複眼中国 現代中国の襞を読み解く 時事ニュースJanet 矢吹晋共著 時事ニュースJanet編集部編 時事通信社 2010.2

翻訳

  • バンブー・ネットワーク 21世紀アジアの命運を握る華人ビジネスマンとどうつき合うか マリー・ワイデンバウム,サミュエル・ヒューズ 深田祐介監訳 小学館 1997.6

脚注

注釈

  1. ^ 譚によると「日中戦争当時、北支派遣軍の軍司令官寺内寿一の高級副官として中国に駐屯し、1945年にはビルマ派遣軍烈師団長として、インパール作戦敗退後のイラワジ川撤退作戦を指揮し、その功績により、天皇陛下から「感状授与」され、後に勲一等を授与された。」という[10]
  2. ^ 校舎に掲げられた英雄の肖像画は孫文蔣介石であった[16]
  3. ^ 校舎に掲げられた英雄の肖像画は毛沢東劉少奇であった[16]

出典

  1. ^ 譚 (1989)、表紙・裏表紙。
  2. ^ 譚璐美/林康弘/伊藤泉美/藤田昌司/松信裕「座談会 中華料理と横浜中華街 (3/3)」『有鄰』第448号、2005年3月10日、2019年9月18日閲覧 
  3. ^ a b 譚 (1985)、奥付。
  4. ^ a b 日本文藝家協会 (2019)、便覧〈文化各界人〉、85頁。
  5. ^ a b c d タン・ロミ | 著者プロフィール”. 新潮社. 2019年9月18日閲覧。
  6. ^ 譚璐美/林康弘/伊藤泉美/藤田昌司/松信裕「座談会 中華料理と横浜中華街 (1/3)」『有鄰』第448号、2005年3月10日、2019年9月18日閲覧 
  7. ^ a b 田中 (2009)、130~131頁。
  8. ^ 譚 (2017)、奥付。
  9. ^ 日外アソシエーツ (2012)、1414頁。
  10. ^ a b c 譚 (1985)、43頁。
  11. ^ 譚 (1997)、74頁。
  12. ^ 譚 (1997)、73頁。
  13. ^ 譚 (1985)、46頁。
  14. ^ 譚 (2002)、5頁。
  15. ^ 譚 (1985)、32頁。
  16. ^ a b c d 譚 (2008)、143頁。
  17. ^ 譚 (1985)、70頁。
  18. ^ 譚 (2002)、149頁。
  19. ^ 譚 (1985)、78頁。
  20. ^ 神奈川県立横浜平沼高等学校同窓会真澄会編『真澄会名簿』真澄会、昭和56年10月17日 発行、329頁。
  21. ^ a b 譚 (1985)、147頁。
  22. ^ 譚 (1985)、145頁。

参考文献

  • 譚璐美『遙かなる広州-日中近代史のはざまにて』六興出版社、1985年8月20日。 
  • 譚璐美『中国人の苦悩』新芸術社、1989年11月15日。ISBN 4-88293-013-7 
  • 譚璐美『父の国から来た密使』新潮社、1997年7月20日。ISBN 4-10-529702-3 
  • 譚璐美編著『譚夫人 (マダム・タン) の欲深的香港の旅 コンプリート・ガイドブック』新潮社、2002年5月25日。ISBN 4-10-529705-8 
  • 田中健之『横浜中華街 世界最強のチャイナタウン〈中公新書クラレ 323〉』中央公論新社、2009年7月10日。ISBN 978-4-12-150323-7 
  • 譚璐美・劉傑『新華僑老華僑―変容する日本の中国人社会〈文春新書 631〉』文藝春秋、2008年4月20日。ISBN 978-4-16-660631-3 
  • 日外アソシエーツ株式会社 編『日本著者名・人名典拠録 新訂増補第3版―75万人収録 2 け~な』2012年5月25日。ISBN 978-4-8169-2358-6 
  • 譚璐美『近代中国への旅』白水社、2017年12月10日。ISBN 978-4-560-09578-2 
  • 日本文藝家協会 編『文藝年鑑 2019』新潮社、2019年6月30日。ISBN 978-4-10-750045-8 

外部リンク