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孫文死後、楊虎は[[蔣介石]]への接近を図り、[[1926年]](民国15年)に[[江西省 (中華民国)|江西]]で[[国民革命軍]]特務処処長に任ぜられる。楊は清党([[中国共産党]]粛清)工作を一手に引き受け、「人を殺すこと麻の如く、人の恐るること虎の如し」と評されたという<ref name=a>『最新支那要人伝』199頁。</ref>。後に[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府委員も務めた。[[1927年]](民国16年)に蔣が[[上海クーデター]](四・一二政変)を起こすと、楊はこれに参与し、上海警備司令に任ぜられている。このときの楊の清党工作は、[[陳群 (民国)|陳群]]と共にその殺戮ぶりで恐れられ、またこの時の功績で、蔣と義兄弟の盟を交わしたとされる。 |
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[[1928年]](民国17年)10月、楊虎は[[国民政府]]参軍処参軍に任ぜられる。しかしこの頃から、楊は過去の自己の功績を大いに吹聴したため、蔣介石から疎んじられることになった<ref name=b>華生米「殺人狂楊虎:先叛蔣介石後叛毛沢東」。</ref>。[[1931年]](民国20年)11月、楊は[[中国国民党]]第4期中央監察委員にしか任ぜられ、翌月、党部中央組織委員となる。しかし、執行委員どころか執行委員候補にすらなれなかったのであり、それまでの楊の経歴から考えれば冷遇とすら言える地位であった。結局、後の第5期、第6期でも、楊は中央監察委員に留まっており、楊は蔣に不満を抱いたとされる<ref name=b/>。 |
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翌[[1932年]](民国21年)に[[第1次上海事変]]が勃発すると、楊は上海保安処処長に任ぜられた。[[1936年]](民国25年)1月、陸軍少将銜を授与され、同年4月には[[呉鉄城]]の後任として淞滬警備司令となる。[[第二次上海事変]]に際しては[[竜華区 (上海市)|竜華]]を守備し、味方の戦線崩壊後もなお善く抵抗したとされた<ref name=a/>。戦後の[[1946年]](民国35年)7月に陸軍中将に任ぜられ、11月には制憲[[国民大会]]代表に選出されている。[[1948年]](民国37年)2月には、[[監察院]]監察委員に任ぜられた<ref>劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』951頁は、同年に[[北京市|北平]]で死去した、と記述しているが、これは明らかに誤りである。</ref>。 |
翌[[1932年]](民国21年)に[[第1次上海事変]]が勃発すると、楊は上海保安処処長に任ぜられた。[[1936年]](民国25年)1月、陸軍少将銜を授与され、同年4月には[[呉鉄城]]の後任として淞滬警備司令となる。[[第二次上海事変]]に際しては[[竜華区 (上海市)|竜華]]を守備し、味方の戦線崩壊後もなお善く抵抗したとされた<ref name=a/>。戦後の[[1946年]](民国35年)7月に陸軍中将に任ぜられ、11月には制憲[[国民大会]]代表に選出されている。[[1948年]](民国37年)2月には、[[監察院]]監察委員に任ぜられた<ref>劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』951頁は、同年に[[北京市|北平]]で死去した、と記述しているが、これは明らかに誤りである。</ref>。 |
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[[1949年]]に入ると、楊虎は完全に共産党への協力姿勢を示すようになった。同年4月には、南京を守備していた旧部下と連絡を取り、[[中国民主同盟]](民盟)主席の[[張瀾]]と副主席の[[羅隆基]]を救出している。10月1日の[[中華人民共和国]]建国式典にも楊は出席し、中央人民政府政務院(後の[[中華人民共和国国務院|国務院]])顧問に任ぜられた。 |
[[1949年]]に入ると、楊虎は完全に共産党への協力姿勢を示すようになった。同年4月には、南京を守備していた旧部下と連絡を取り、[[中国民主同盟]](民盟)主席の[[張瀾]]と副主席の[[羅隆基]]を救出している。10月1日の[[中華人民共和国]]建国式典にも楊は出席し、中央人民政府政務院(後の[[中華人民共和国国務院|国務院]])顧問に任ぜられた。 |
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ところが楊虎はこの地位に満足できず、[[中国人民政治協商会議]]全国委員会委員になりたがったとされる。そして不満を抱いた末に、 |
ところが楊虎はこの地位に満足できず、[[中国人民政治協商会議]]全国委員会委員になりたがったとされる。そして不満を抱いた末に、蔣介石や[[重光葵]]宛に密書を送って大陸反攻を唆そうとした。密書は発送前に当局に発見され、楊は逮捕される。[[1958年]]から裁判にかけられ、最終的に執行猶予2年ながらも死刑判決を受けてしまった<ref name=b/>。 |
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その後、楊虎は病が重篤であったために医療を付されたが、[[1966年]]3月、[[北京市]]の復興医院にて病没した。享年78。 |
その後、楊虎は病が重篤であったために医療を付されたが、[[1966年]]3月、[[北京市]]の復興医院にて病没した。享年78。 |
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* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 徐友春主編|title = 民国人物大辞典 増訂版|year = 2007|publisher = 河北人民出版社|isbn = 978-7-202-03014-1}}</span> |
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2020年9月15日 (火) 14:30時点における版
楊 虎 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1889年(清光緒15年) |
死去: |
1966年3月 中国北京市 |
出身地: | 清安徽省寧国府寧国県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 楊虎 |
簡体字: | 杨虎 |
拼音: | Yáng Hŭ |
ラテン字: | Yang Hu |
和名表記: | よう こ |
発音転記: | ヤン フー |
楊 虎(よう こ、1889年 - 1966年3月)は、中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。字は嘯天。
事跡
孫文側近の軍人
南京将弁学堂を卒業し、中国同盟会に加入した。辛亥革命の際には、南京攻略戦に参加している。1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)に際しては黄興の参謀を務めたが、敗北して日本に亡命している。このとき、孫文(孫中山)の秘書を務めた。
1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝を自称すると、楊虎は急遽帰国してこれに与し、江蘇軍総司令、海軍陸戦隊司令兼海軍総司令代理として抜擢された。しかし12月4日に、楊は軍艦「肇和」を率いて反袁蜂起を決行した。そのため、当初の袁への服属は偽装であったと見られる。同月末に護国戦争が本格的に勃発した後、翌1916年(民国5年)には護国軍の長江下遊司令に任ぜられ、陳其美とともに江陰砲台などを攻撃したが、これは失敗に終わった。
1917年(民国6年)、孫文が護法運動を開始したため、楊虎も広州でこれに加わり、護法軍政府軍事委員に任ぜられた。翌年3月、護法軍政府参軍処参軍に任ぜられ、後に鄂軍総司令に転じた。1922年(民国11年)、広州非常大総統府参軍となり、同年に陳炯明が孫への兵変を起こした際には、楊が孫を警護している。翌1923年(民国12年)4月以降、大本営海軍特派員、大本営参事、大本営海軍処処長を歴任し、海軍の事務を処理した。1924年(民国13年)には北伐討賊軍第2軍第1師師長に任ぜられている。
清党工作と上海防衛
孫文死後、楊虎は蔣介石への接近を図り、1926年(民国15年)に江西で国民革命軍特務処処長に任ぜられる。楊は清党(中国共産党粛清)工作を一手に引き受け、「人を殺すこと麻の如く、人の恐るること虎の如し」と評されたという[1]。後に安徽省政府委員も務めた。1927年(民国16年)に蔣が上海クーデター(四・一二政変)を起こすと、楊はこれに参与し、上海警備司令に任ぜられている。このときの楊の清党工作は、陳群と共にその殺戮ぶりで恐れられ、またこの時の功績で、蔣と義兄弟の盟を交わしたとされる。
1928年(民国17年)10月、楊虎は国民政府参軍処参軍に任ぜられる。しかしこの頃から、楊は過去の自己の功績を大いに吹聴したため、蔣介石から疎んじられることになった[2]。1931年(民国20年)11月、楊は中国国民党第4期中央監察委員にしか任ぜられ、翌月、党部中央組織委員となる。しかし、執行委員どころか執行委員候補にすらなれなかったのであり、それまでの楊の経歴から考えれば冷遇とすら言える地位であった。結局、後の第5期、第6期でも、楊は中央監察委員に留まっており、楊は蔣に不満を抱いたとされる[2]。
翌1932年(民国21年)に第1次上海事変が勃発すると、楊は上海保安処処長に任ぜられた。1936年(民国25年)1月、陸軍少将銜を授与され、同年4月には呉鉄城の後任として淞滬警備司令となる。第二次上海事変に際しては竜華を守備し、味方の戦線崩壊後もなお善く抵抗したとされた[1]。戦後の1946年(民国35年)7月に陸軍中将に任ぜられ、11月には制憲国民大会代表に選出されている。1948年(民国37年)2月には、監察院監察委員に任ぜられた[3]。
中華人民共和国での失脚
1949年に入ると、楊虎は完全に共産党への協力姿勢を示すようになった。同年4月には、南京を守備していた旧部下と連絡を取り、中国民主同盟(民盟)主席の張瀾と副主席の羅隆基を救出している。10月1日の中華人民共和国建国式典にも楊は出席し、中央人民政府政務院(後の国務院)顧問に任ぜられた。
ところが楊虎はこの地位に満足できず、中国人民政治協商会議全国委員会委員になりたがったとされる。そして不満を抱いた末に、蔣介石や重光葵宛に密書を送って大陸反攻を唆そうとした。密書は発送前に当局に発見され、楊は逮捕される。1958年から裁判にかけられ、最終的に執行猶予2年ながらも死刑判決を受けてしまった[2]。
その後、楊虎は病が重篤であったために医療を付されたが、1966年3月、北京市の復興医院にて病没した。享年78。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 華生米「殺人狂楊虎:先叛蔣介石後叛毛沢東」経典網(出典は『浙江日報』)
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。