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[[1936年]](民国25年)4月、[[中華民国交通部|交通部]]常務次長となり、[[1937年]](民国26年)8月には同部政務次長に転じた。[[1938年]](民国27年)6月、国民参政会副秘書長に任ぜられる。汪兆銘の[[重慶市|重慶]]脱出後、[[甘乃光]]同様に[[蔣介石]]により逮捕されたとの噂も流れたとされるが、実際にはそのようなことはなく、蔣の政権作りに協力していた<ref name=a/>。ただし[[1939年]](民国28年)2月に彭学沛は参政会副秘書長から罷免され、以後しばらく要職に置かれず不遇にあったと見られる。[[1945年]](民国34年)1月に、戦時生産局副局長兼優先処処長に起用された。同年5月、党第6期中央執行委員に再選されている。 |
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戦後の[[1946年]](民国35年)3月に彭学沛は中央政治委員に任ぜられ、同年5月、国民党中央党部宣伝部部長に起用された。11月には制憲[[国民大会]]代表に選出され、翌年4月には行政院政務委員に任ぜられている。 |
戦後の[[1946年]](民国35年)3月に彭学沛は中央政治委員に任ぜられ、同年5月、国民党中央党部宣伝部部長に起用された。11月には制憲[[国民大会]]代表に選出され、翌年4月には行政院政務委員に任ぜられている。 |
2020年9月15日 (火) 14:29時点における版
彭学沛 | |
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Who's Who in China 5th ed. (1936) | |
プロフィール | |
出生: | 1896年(清光緒22年) |
死去: |
1948年(民国37年) 中華民国 |
出身地: | 清江西省吉安府安福県 |
職業: | 政治家・政治学者・ジャーナリスト |
各種表記 | |
繁体字: | 彭學沛 |
簡体字: | 彭学沛 |
拼音: | Péng Xuépèi |
ラテン字: |
P'eng Hsüe-pei Peng Sho-pei |
和名表記: | ほう がくはい |
発音転記: | ポン シュエペイ |
英語名: | H. Y. Moh |
彭 学沛(ほう がくはい)は中華民国の政治家・政治学者・ジャーナリスト。字は浩徐。
事績
日本に留学し、東京帝国大学[1]で学ぶ。卒業後はさらにベルギーにも留学した。帰国後は北京大学政治学教授のほか、南開大学、南京中央大学、中央政治学校、中山大学などで教職を歴任し、さらに上海『中央日報』主筆も務めた。
1932年(民国21年)1月、国民政府内政部政務次長として政界入りし、同年3月には部長馮玉祥の代理も務めた。7月、行政院政務処処長に転じる。中国国民党では汪兆銘(汪精衛)・陳公博らの改組派と目された[2]。1933年(民国22年)12月、全国経済委員会委員となり、1935年(民国24年)9月には同委員会合作事業委員会委員となる。同年11月、中国国民党第5期中央執行委員に選出された。
1936年(民国25年)4月、交通部常務次長となり、1937年(民国26年)8月には同部政務次長に転じた。1938年(民国27年)6月、国民参政会副秘書長に任ぜられる。汪兆銘の重慶脱出後、甘乃光同様に蔣介石により逮捕されたとの噂も流れたとされるが、実際にはそのようなことはなく、蔣の政権作りに協力していた[2]。ただし1939年(民国28年)2月に彭学沛は参政会副秘書長から罷免され、以後しばらく要職に置かれず不遇にあったと見られる。1945年(民国34年)1月に、戦時生産局副局長兼優先処処長に起用された。同年5月、党第6期中央執行委員に再選されている。
戦後の1946年(民国35年)3月に彭学沛は中央政治委員に任ぜられ、同年5月、国民党中央党部宣伝部部長に起用された。11月には制憲国民大会代表に選出され、翌年4月には行政院政務委員に任ぜられている。
しかし1948年(民国37年)、広東へ向かう途中、乗っていた飛行機が墜落して死亡した。享年53。著書に『欧米・日本の政党』、『中外貨幣政策』がある。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。