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戦後に張蔭梧は平漢鉄路北段護路司令に任ぜられたが、まもなく辞任し、四存中学校長に復帰した。その後も制憲・行憲の[[国民大会]]で代表に当選している。[[中国人民解放軍]]へ北平が開城された後の[[1949年]](民国38年)2月、張は河北民衆自救会を組織して国民党側への北平奪還を図ったが、失敗に終わり捕虜とされた。 |
2020年9月15日 (火) 14:28時点における最新版
張蔭梧 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1891年(清光緒17年) |
死去: |
1949年(民国38年)5月27日 中華民国北平市 |
出身地: | 清直隷省保定府博野県 |
職業: | 軍人・政治家・教育者 |
各種表記 | |
繁体字: | 張蔭梧 |
簡体字: | 张荫梧 |
拼音: | Zhāng Yìnwú |
ラテン字: | Chang Yin-wu |
和名表記: | ちょう いんご |
発音転記: | ジャン インウー |
張 蔭梧(ちょう いんご)は中華民国の軍人・政治家・教育者。山西派の軍人で、後に国民革命軍に加わる。日中戦争では河北省方面で転戦した。字は桐軒。
事跡
[編集]山西派での昇進
[編集]黒竜江省陸軍小学、陸軍第一予備学校を卒業後、1916年(民国5年)8月に保定陸軍軍官学校第5期生として入学した。1918年(民国7年)9月に卒業し、山西省で学兵団連長として任に就く。以後、山西督軍公署参謀、太原国民師範学校軍訓副主任、山西陸軍第10団団長などを歴任した。1926年(民国15年)夏、国民軍との戦いで負傷し、一時辞職して郷里に戻っている。
その後、傷の癒えた張蔭梧は教導団主軍官として復帰した。山西都督閻錫山が国民革命軍に易幟した後の1927年(民国16年)9月、張は国民革命軍北方軍第7軍副軍長兼左路軍前敵総指揮に抜擢され、北伐に参加している。翌年3月、国民政府軍事委員会委員も兼任し、6月には北平警備司令となった。10月、第42師師長となり、1929年(民国18年)6月には北平特別市市長に起用された(1931年2月まで在任)。
1930年(民国19年)の中原大戦に際しては、反蔣介石側についた閻錫山配下として張蔭梧は第4路総指揮を務めたが、反蔣軍敗北とともに閻に従い張も下野した。その後、張は帰郷し、北平で四存中学を創設し自ら校長となっている。1932年(民国21年)2月、山西省政府に復帰し、晋綏軍事整理委員会常務委員兼軍官教導団団長に任命された。1934年(民国23年)11月、河北省政府委員に任ぜられ、県政建設研究院院長も兼任した(1935年12月まで在任)。1936年(民国25年)1月、陸軍中将の位を授与されている。
日中戦争での活動
[編集]1937年(民国26年)に日中戦争が勃発すると、張蔭梧は軍事委員会委員長保定行営民訓処処長に任ぜられ、同年11月、河北民団総指揮としてゲリラ戦を担当した。翌年6月、河北省政府委員に復帰し、9月に同省政府民政庁庁長を兼任している(1939年2月に正式に民政庁長に就任)。その後も軍事委員会中将高参、中国国民党中央訓練団党政訓練班指導員、冀察戦区総参議兼戦区党政委員会副主任委員、甘粛省立徽県師範学校校長を歴任した。1943年(民国32年)2月、三民主義青年団第1期中央監察会監察に選出された。なお戦時中には、いわゆる「曲線救国」(一時的に日本側に降伏しつつ、実際には蔣介石らへの通謀・協力を行うこと)の容認を主張したとされる。
戦後に張蔭梧は平漢鉄路北段護路司令に任ぜられたが、まもなく辞任し、四存中学校長に復帰した。その後も制憲・行憲の国民大会で代表に当選している。中国人民解放軍へ北平が開城された後の1949年(民国38年)2月、張は河北民衆自救会を組織して国民党側への北平奪還を図ったが、失敗に終わり捕虜とされた。
同年5月27日、北平でそのまま獄死した。享年59。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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