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'''蕭 吉珊'''(しょう きちさん)は、[[中華民国]]([[台湾]])の政治家。[[介石]]の秘書で、[[中国国民党]]・[[国民政府]]において[[華僑]]関連政策を担当した人物である。
'''蕭 吉珊'''(しょう きちさん)は、[[中華民国]]([[台湾]])の政治家。[[介石]]の秘書で、[[中国国民党]]・[[国民政府]]において[[華僑]]関連政策を担当した人物である。


== 事跡 ==
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公立広東高等師範学校を卒業した後、[[汕頭市|汕頭]]に赴き、道尹公署科長となる。その後、故郷に戻り、県勧学所所長となった。[[1924年]]([[民国紀元|民国]]13年)夏、[[黄埔軍官学校]]創設の時に、[[介石]]の秘書に任命された。[[1926年]](民国15年)の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に際しても、[[国民革命軍]]総司令部機要室秘書に任ぜられている。
公立広東高等師範学校を卒業した後、[[汕頭市|汕頭]]に赴き、道尹公署科長となる。その後、故郷に戻り、県勧学所所長となった。[[1924年]]([[民国紀元|民国]]13年)夏、[[黄埔軍官学校]]創設の時に、[[介石]]の秘書に任命された。[[1926年]](民国15年)の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に際しても、[[国民革命軍]]総司令部機要室秘書に任ぜられている。


[[1927年]](民国16年)、蕭吉珊は[[中国国民党]]中央特派員として[[東南アジア|南洋]]へ僑務([[華僑]]関連事務)の視察に赴いた。帰国後の[[1929年]](民国18年)1月に、[[国民政府]]僑務委員会委員に任ぜられ、9月、外洋籌募公債委員会委員に転じた。同年、国民党中央監察委員会秘書長となり、さらに[[南京市|南京特別市]]党部執行委員兼常務委員となった。[[1931年]](民国20年)9月、僑務委員会常務委員となり、12月に党第4期中央執行委員候補に選出され、中央海外党務委員会委員も兼ねた。[[1932年]](民国21年)10月、国民政府宣慰華僑専員に任ぜられている。
[[1927年]](民国16年)、蕭吉珊は[[中国国民党]]中央特派員として[[東南アジア|南洋]]へ僑務([[華僑]]関連事務)の視察に赴いた。帰国後の[[1929年]](民国18年)1月に、[[国民政府]]僑務委員会委員に任ぜられ、9月、外洋籌募公債委員会委員に転じた。同年、国民党中央監察委員会秘書長となり、さらに[[南京市|南京特別市]]党部執行委員兼常務委員となった。[[1931年]](民国20年)9月、僑務委員会常務委員となり、12月に党第4期中央執行委員候補に選出され、中央海外党務委員会委員も兼ねた。[[1932年]](民国21年)10月、国民政府宣慰華僑専員に任ぜられている。

2020年9月15日 (火) 14:27時点における最新版

蕭吉珊
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1893年12月22日
光緒19年11月15日)
死去: 1956年8月26日
カンボジア王国プノンペン
出身地: 清の旗 広東省潮州府潮陽県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 蕭吉珊
簡体字 肖吉珊
拼音 Xiāo Jíshān
ラテン字 Hsiao Chi-shan
和名表記: しょう きちさん
発音転記: シャオ ジーサン
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蕭 吉珊(しょう きちさん)は、中華民国台湾)の政治家。蔣介石の秘書で、中国国民党国民政府において華僑関連政策を担当した人物である。

事跡

[編集]

公立広東高等師範学校を卒業した後、汕頭に赴き、道尹公署科長となる。その後、故郷に戻り、県勧学所所長となった。1924年民国13年)夏、黄埔軍官学校創設の時に、蔣介石の秘書に任命された。1926年(民国15年)の北伐に際しても、国民革命軍総司令部機要室秘書に任ぜられている。

1927年(民国16年)、蕭吉珊は中国国民党中央特派員として南洋へ僑務(華僑関連事務)の視察に赴いた。帰国後の1929年(民国18年)1月に、国民政府僑務委員会委員に任ぜられ、9月、外洋籌募公債委員会委員に転じた。同年、国民党中央監察委員会秘書長となり、さらに南京特別市党部執行委員兼常務委員となった。1931年(民国20年)9月、僑務委員会常務委員となり、12月に党第4期中央執行委員候補に選出され、中央海外党務委員会委員も兼ねた。1932年(民国21年)10月、国民政府宣慰華僑専員に任ぜられている。

1935年(民国24年)11月、蕭吉珊は第5期中央執行委員に昇格・選出され(後の第6期も同様)、中央海外党務委員会主任委員代理にも就任した。1936年(民国25年)7月、広東省政府委員に任命されている。1938年(民国27年)4月、党中央海外部副部長に昇進し、南洋研究所所長も兼任した。日中戦争(抗日戦争)に際しては米州各地を訪問し、華僑からの戦費募集・調達の任にあたっている。また、広東省では田糧処処長にも任ぜられた。

戦後の1946年(民国35年)11月に制憲国民大会代表、1948年(民国37年)に行憲国民大会代表にそれぞれ選出されている。1949年(民国38年)、国共内戦での国民党敗北と共に台湾に逃れ、1952年(民国41年)、党中央評議委員に任ぜられた。

1956年8月13日、訪問先のプノンペンで自動車事故に遭い、26日、この際の怪我が原因で死去した。享年64(満62歳)。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。