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清末に日本に留学し、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]中国学生隊第8期歩兵科を卒業した。帰国後の[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、[[北京政府]]参謀本部第2局科員となる。[[1917年]](民国6年)、再び日本に留学して[[陸軍大学校]]で学ぶ。[[1919年]](民国8年)に帰国し、翌年3月、参謀部第4局科長となった。[[1921年]](民国10年)5月、[[黒竜江省 (中華民国)|黒竜江省]]督軍公署参謀長(署理)に任ぜられ、以後、[[奉天派]]に属することになる。[[1925年]](民国14年)3月、東北陸軍第18師歩兵第22旅旅長に任ぜられた。[[1927年]](民国16年)1月、鎮威軍第10軍軍長に任ぜられ、[[国民政府]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍を迎撃したが、劣勢となり東北方面へ退却した。同年10月、一等大綬嘉禾章を授与されている。<ref name=Xu>徐主編(2007)、177頁。</ref><ref name=Liu>劉国銘主編(2005)、202頁。</ref><ref>東亜問題調査会編(1941)、14頁。</ref> |
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=== 満州事変以降 === |
=== 満州事変以降 === |
2020年9月15日 (火) 14:24時点における最新版
王樹常 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: |
1886年10月3日 (清光緒12年9月初6日) |
死去: |
1960年4月8日 中国 |
出身地: | 清盛京将軍管轄奉天府(現在の瀋陽市遼中区) |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王樹常 |
簡体字: | 王树常 |
拼音: | Wáng Shùcháng |
ラテン字: | Wang Shu-ch'ang |
和名表記: | おう じゅじょう |
発音転記: | ワン シューチャン |
王 樹常(おう じゅじょう)は中華民国の軍人、中華人民共和国の政治家。当初は奉天派の軍人で、張学良の易幟に従い国民革命軍に加入した。字は庭五。号は霆午。
事績
[編集]張父子の下での活動
[編集]清末に日本に留学し、陸軍士官学校中国学生隊第8期歩兵科を卒業した。帰国後の1912年(民国元年)、北京政府参謀本部第2局科員となる。1917年(民国6年)、再び日本に留学して陸軍大学校で学ぶ。1919年(民国8年)に帰国し、翌年3月、参謀部第4局科長となった。1921年(民国10年)5月、黒竜江省督軍公署参謀長(署理)に任ぜられ、以後、奉天派に属することになる。1925年(民国14年)3月、東北陸軍第18師歩兵第22旅旅長に任ぜられた。1927年(民国16年)1月、鎮威軍第10軍軍長に任ぜられ、国民政府の北伐軍を迎撃したが、劣勢となり東北方面へ退却した。同年10月、一等大綬嘉禾章を授与されている。[1][2][3]
1928年(民国17年)12月、張学良が易幟すると、王樹常は奉天省(翌年、遼寧省)政府委員に任ぜられた。翌年、東北辺防司令長官公署が成立すると、公署軍令庁庁長に任命される。8月、東省鉄路総指揮兼防俄軍第1軍軍長となった。また、遼寧省党部指導委員も兼ねている。1930年(民国19年)9月、河北省政府主席兼東北第2軍軍長に任ぜられる。翌年7月、剿赤軍北路集団軍第2軍団総指揮に任ぜられ、同時期に石友三が反蔣介石クーデターを起こすと、平津衛戍司令の于学忠と協力してこれを撃破した。[1][2][4]
満州事変以降
[編集]満州事変(九・一八事変)後の1932年(民国21年)8月、北平政務委員会委員に任ぜられ、さらに平津衛戍司令に異動した。前任の于学忠は河北省政府主席となっているため、入れ替わりの形となる。また王樹常は、軍事委員会北平分会委員も兼ね、翌年3月には北平戒厳司令に移った。1935年(民国24年)4月、陸軍中将の位を授与されている。同年8月、軍事参議院副院長に転じた。1937年(民国26年)1月、西安事変に参加した于の後任として、王は甘粛綏靖主任に任ぜられる。4月、豫皖綏靖副主任兼豫皖蘇軍事整理委員会委員となり、6月、陸軍上将銜を授与された。[1][2][5]
1944年(民国33年)3月、軍事参議院副院長を離任し、同院参議となる。1946年(民国35年)7月、陸軍上将に任ぜられたが、そのまま予備役に退いた。中華人民共和国成立後も大陸に留まり、第2期・第3期中国人民政治協商会議全国委員会委員、水電部参事室参事、中国国民党革命委員会(民革)第3期団結委員会委員などを歴任した。1960年4月8日、死去。享年75。[1][2]
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
中華民国(国民政府)
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