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== 第二次大戦とビルマ公路 ==
== 第二次大戦とビルマ公路 ==
昆明からビルマ国境までの区間は20万人の中国人労働者によって、[[1937年]]の[[日中戦争]]時に[[国民政府]][[中華民国交通部|交通部]]の[[趙祖康]]の主導で建設され、[[1938年]]に完成した。この公路は[[第二次世界大戦]]において、[[イギリス帝国|イギリス]]が[[大日本帝国|日本]]との開戦以前に、中国へ軍事物資を輸送するための役割を持っていた。補給物資は[[ヤンゴン|ラングーン]](現ヤンゴン)で陸揚げされ、鉄道によってビルマ側の始発点であるラシオへ輸送された。[[1942年]]に日本軍によりビルマを占領された後、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[介石]]と[[国民革命軍|国民政府軍]]への補給に空路による輸送を余儀なくされた。補給物資は[[イギリス領インド帝国|インド]]・[[アッサム州]]の飛行場から、[[ヒマラヤ山脈]]の東端を越えて空輸された([[ハンプ越え]]:[[:en:The Hump]])。アメリカ合衆国の主張とイギリスの戦時指導者・[[ウィンストン・チャーチル]]の非常な無念から、イギリス軍は対日戦の主要な目標として、ビルマの奪還と中国との陸路打通という任務を与えられた。イギリス指揮の下(後半は[[ジョセフ・スティルウェル]]が指揮)、インド、イギリス、中国、アメリカ軍はアッサムへの進攻を企てる日本軍を打ち破り、北部ビルマを奪還した。連合軍はこの地域で、アッサム州レドからミートキーナを経由し、旧ビルマ公路へ接続して中国雲南省・[[畹町鎮]]へ向かう新ルート・[[レド公路]]を建設した。この道路を通った最初のトラックが中国国境に到着したのは[[1945年]]1月28日であった<ref>Winston Churchill, The Second World War, v. VI, chap. 11.</ref>。
昆明からビルマ国境までの区間は20万人の中国人労働者によって、[[1937年]]の[[日中戦争]]時に[[国民政府]][[中華民国交通部|交通部]]の[[趙祖康]]の主導で建設され、[[1938年]]に完成した。この公路は[[第二次世界大戦]]において、[[イギリス帝国|イギリス]]が[[大日本帝国|日本]]との開戦以前に、中国へ軍事物資を輸送するための役割を持っていた。補給物資は[[ヤンゴン|ラングーン]](現ヤンゴン)で陸揚げされ、鉄道によってビルマ側の始発点であるラシオへ輸送された。[[1942年]]に日本軍によりビルマを占領された後、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[介石]]と[[国民革命軍|国民政府軍]]への補給に空路による輸送を余儀なくされた。補給物資は[[イギリス領インド帝国|インド]]・[[アッサム州]]の飛行場から、[[ヒマラヤ山脈]]の東端を越えて空輸された([[ハンプ越え]]:[[:en:The Hump]])。アメリカ合衆国の主張とイギリスの戦時指導者・[[ウィンストン・チャーチル]]の非常な無念から、イギリス軍は対日戦の主要な目標として、ビルマの奪還と中国との陸路打通という任務を与えられた。イギリス指揮の下(後半は[[ジョセフ・スティルウェル]]が指揮)、インド、イギリス、中国、アメリカ軍はアッサムへの進攻を企てる日本軍を打ち破り、北部ビルマを奪還した。連合軍はこの地域で、アッサム州レドからミートキーナを経由し、旧ビルマ公路へ接続して中国雲南省・[[畹町鎮]]へ向かう新ルート・[[レド公路]]を建設した。この道路を通った最初のトラックが中国国境に到着したのは[[1945年]]1月28日であった<ref>Winston Churchill, The Second World War, v. VI, chap. 11.</ref>。
[[File:Workers with hand tools building Burma Road2.jpg|thumb|300px|女子供が手持ちの工具でビルマ公路建設を行っている。]]
[[File:Workers with hand tools building Burma Road2.jpg|thumb|300px|女子供が手持ちの工具でビルマ公路建設を行っている。]]
[[Image:Ledo Burma Roads Assam-Burma-China.gif|thumb|200px|ビルマ公路とレド公路]]
[[Image:Ledo Burma Roads Assam-Burma-China.gif|thumb|200px|ビルマ公路とレド公路]]

2020年9月15日 (火) 14:21時点における版

1944年のビルマ公路とレド公路
東南アジアにおける連合国の連絡線(1942-43年)。ビルマ公路は右端に示されている。

ビルマ公路(ビルマこうろ、英語:Burma Road、中国語:滇緬公路)は、ビルマ(現ミャンマー)と中華民国とを繋ぐ幹線道路のことである。

概要

その終着点(始発点)は雲南省昆明と、ビルマのラシオ(ラーショー、en:Lashio)である。ビルマのイギリス植民地(Crown Colony)時代に建設された。

道路は総延長717マイル (1,154 km) で、険しい山岳地帯を貫いて延びている[1]

第二次大戦とビルマ公路

昆明からビルマ国境までの区間は20万人の中国人労働者によって、1937年日中戦争時に国民政府交通部趙祖康の主導で建設され、1938年に完成した。この公路は第二次世界大戦において、イギリス日本との開戦以前に、中国へ軍事物資を輸送するための役割を持っていた。補給物資はラングーン(現ヤンゴン)で陸揚げされ、鉄道によってビルマ側の始発点であるラシオへ輸送された。1942年に日本軍によりビルマを占領された後、連合国蔣介石国民政府軍への補給に空路による輸送を余儀なくされた。補給物資はインドアッサム州の飛行場から、ヒマラヤ山脈の東端を越えて空輸された(ハンプ越えen:The Hump)。アメリカ合衆国の主張とイギリスの戦時指導者・ウィンストン・チャーチルの非常な無念から、イギリス軍は対日戦の主要な目標として、ビルマの奪還と中国との陸路打通という任務を与えられた。イギリス指揮の下(後半はジョセフ・スティルウェルが指揮)、インド、イギリス、中国、アメリカ軍はアッサムへの進攻を企てる日本軍を打ち破り、北部ビルマを奪還した。連合軍はこの地域で、アッサム州レドからミートキーナを経由し、旧ビルマ公路へ接続して中国雲南省・畹町鎮へ向かう新ルート・レド公路を建設した。この道路を通った最初のトラックが中国国境に到着したのは1945年1月28日であった[2]

女子供が手持ちの工具でビルマ公路建設を行っている。
ビルマ公路とレド公路

脚注

  1. ^ Burma Road - Britannica Online Encyclopedia
  2. ^ Winston Churchill, The Second World War, v. VI, chap. 11.

推薦文献

関連項目

外部リンク