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'''オーウェン・ラティモア'''(Owen Lattimore、[[1900年]][[7月29日]] - [[1989年]][[5月31日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[中国学|中国学者]]。第二次世界大戦前には[[太平洋問題調査会]](IPR)の中心的スタッフを長くつとめ、また戦時期には[[中華民国]]の[[ |
'''オーウェン・ラティモア'''(Owen Lattimore、[[1900年]][[7月29日]] - [[1989年]][[5月31日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[中国学|中国学者]]。第二次世界大戦前には[[太平洋問題調査会]](IPR)の中心的スタッフを長くつとめ、また戦時期には[[中華民国]]の[[蔣介石]]の私的顧問となるなど[[米中関係|合衆国の対中政策]]の形成に関与していたため、戦後は[[マッカーシズム]]([[赤狩り]])の標的の一人となり迫害を受けた。 |
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[[1942年]]、[[中央アジア]]の探険、研究に対して、[[イギリス]]の[[王立地理学会]]から[[金メダル (王立地理学会)|金メダル(パトロンズ・メダル)]]を贈られた<ref>{{Cite web|url=http://www.rgs.org/NR/rdonlyres/C5962519-882A-4C67-803D-0037308C756D/0/GoldMedallists18322011.pdf|format=PDF|title=Medals and Awards, Gold Medal Recipients|publisher=Royal Geographical Society|accessdate=2014年6月6日}}</ref>。 |
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* 1934年 - 1941年 IPR機関誌『パシフィック・アフェアーズ』の責任編集を務める。 |
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* 1938年 アメリカの[[ジョンズ・ホプキンス大学]]でペイジ国際関係大学院長を務める。 |
* 1938年 アメリカの[[ジョンズ・ホプキンス大学]]でペイジ国際関係大学院長を務める。 |
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* 1941年 - 1942年 [[蔣介石]]の私的顧問を務めるために中国の[[重慶市|重慶]]へ行く。 |
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* 1942年 - 1945年 OWIサンフランシスコ局長を務める。 |
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* 1950年 - [[赤狩り]]の中で[[ジョセフ・マッカーシー]]から告発されるが、逆にマッカーシー側のほうが批判される事になり、告発は却下される。しかしジョンズ・ホプキンス大学での講義を許されなくなるなど立場を失い、後にイギリスに去る原因となる<ref>黒川修司『赤狩り時代の米国大学』中央公論社、1994、166-172p</ref>。 |
* 1950年 - [[赤狩り]]の中で[[ジョセフ・マッカーシー]]から告発されるが、逆にマッカーシー側のほうが批判される事になり、告発は却下される。しかしジョンズ・ホプキンス大学での講義を許されなくなるなど立場を失い、後にイギリスに去る原因となる<ref>黒川修司『赤狩り時代の米国大学』中央公論社、1994、166-172p</ref>。 |
2020年9月15日 (火) 14:20時点における版
オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore、1900年7月29日 - 1989年5月31日)は、アメリカ合衆国の中国学者。第二次世界大戦前には太平洋問題調査会(IPR)の中心的スタッフを長くつとめ、また戦時期には中華民国の蔣介石の私的顧問となるなど合衆国の対中政策の形成に関与していたため、戦後はマッカーシズム(赤狩り)の標的の一人となり迫害を受けた。
1942年、中央アジアの探険、研究に対して、イギリスの王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[1]。
来歴
- 1900年7月29日にワシントンD.C.で生まれ、少年時代を中国の天津で過ごした。
- 1913年 - 1914年 スイスのローザンヌにあるコレージュ・クラシック・カントナルで学ぶ。
- 1915年 - 1919年 イギリスのセント・ビーズにあるセント・ビーズ・スクールで学ぶ。
- 1919年 中華民国に行き、新聞社の『ペキン・アンド・テンシン・タイムズ』(京津泰晤士报、Peking and Tientsin Times)に勤務する。
- 1922年 - 1926年 貿易商杜アーノルド&Co.テンシン・アンド・ペキンに勤務する。
- 1928年 - 1929年 アメリカのハーバード大学人類学部大学院で研究する。
- 1933年 - 太平洋問題調査会(IPR)のメンバーになる。
- 1934年 - 1941年 IPR機関誌『パシフィック・アフェアーズ』の責任編集を務める。
- 1938年 アメリカのジョンズ・ホプキンス大学でペイジ国際関係大学院長を務める。
- 1941年 - 1942年 蔣介石の私的顧問を務めるために中国の重慶へ行く。
- 1942年 - 1945年 OWIサンフランシスコ局長を務める。
- 1950年 - 赤狩りの中でジョセフ・マッカーシーから告発されるが、逆にマッカーシー側のほうが批判される事になり、告発は却下される。しかしジョンズ・ホプキンス大学での講義を許されなくなるなど立場を失い、後にイギリスに去る原因となる[2]。
- 1963年 - 1970年 イギリスのリーズ大学で中国学部学部長を務める[3]。
- 1976年 - パリで暮らす[4]
- 1989年5月31日にロードアイランド州プロビデンスで世を去った。
著書
- The Desert Road to Turkestan 1928年
- High Tartary 1930年
- Manchuria: Cradle of Conflict 1932年
- The Mongols of Manchuria 1934年
- Inner Asian Frontiers of China 1940年
- Mongol Journeys 1941年
- America and Asia 1943年
- Solution in Asia 1945年
- The Situation in Asia 1949年
- Pivot of Asia 1950年
- Ordeal by Slander 1950年
- The New Political Geography of Inner Asia 1953年
- Nationalism and revolution in Mongolia 1955年
- Nomads and Commissars 1962年
- Studies in Frontier History 1962年
- From China Looking Outward: an inaugural lecture 1964年
- History and Revolution in China 1970年
日本語翻訳版
- 翻訳: 後藤富男 『滿洲に於ける蒙古民族』 善隣協會 1936年
- 翻訳: 後藤富男 『農業支那と遊牧民族』 生活社 1940年
- 翻訳: 小川修 『アジアの情勢』 日本評論社 1950年
- 翻訳: 中国研究所 『アジアの焦点』 弘文堂 1951年
- オーウェン・ラティモアとエリノア・ラティモア共著[5] 監修: 平野義太郎、翻訳: 小川修 『中国 - 民族と土地と歴史』 岩波新書 1951年(改訂版1965年)
- 翻訳: 陸井三郎 『アメリカの審判』 みすず書房 1951年
- 翻訳: 磯野富士子 『モンゴル - 遊牧民と人民委員』 岩波書店 1966年
- 翻訳: 春木猛 『アジアの解決』 青山学院大学法学会 1970年
- 編集・翻訳: 青木繁、江頭数馬 『中国の世界』 毎日新聞社 1973年
- 翻訳: 磯野富士子 『中国と私』 みすず書房 1992年
- 翻訳: 谷口陸男 『西域への砂漠の道』 白水社 1981年(2004年、白水社の『西域探検紀行選集』より)
関連図書
脚注
- ^ “Medals and Awards, Gold Medal Recipients” (PDF). Royal Geographical Society. 2014年6月6日閲覧。
- ^ 黒川修司『赤狩り時代の米国大学』中央公論社、1994、166-172p
- ^ 黒川
- ^ 『アメラシア』事件関係 FBI ファイル極東書店ご
- ^ エリノア・ラティモア(Eleanor Holgate Lattimore、1895年 - 1970年)。