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'''白 雲梯'''(はく うんてい)は[[中華民国]]の政治家。[[モンゴル族]]。モンゴル名は'''セレンドンロブ'''(Serengdongrub)。[[中国国民党]]に属し、[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]での党組織に従事した。また、反[[介石]]運動にも加わっている。[[字]]は'''巨川'''。
'''白 雲梯'''(はく うんてい)は[[中華民国]]の政治家。[[モンゴル族]]。モンゴル名は'''セレンドンロブ'''(Serengdongrub)。[[中国国民党]]に属し、[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]での党組織に従事した。また、反[[介石]]運動にも加わっている。[[字]]は'''巨川'''。


== 事跡 ==
== 事跡 ==
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[[1924年]](民国13年)1月、国民党第1回全国代表大会に出席し、第1期候補中央執行委員に選出されている(第2期、第4期も同様)。3月、国民党内蒙臨時執行委員会籌備員に任ぜられ、内モンゴルでの党組織建設に従事した。翌年3月、内蒙古国民党全蒙代表大会が実施され、白雲梯が党執行委員会委員長に選出されている。[[1926年]](民国15年)1月、蒙古宣慰使に任ぜられる。[[1928年]](民国17年)2月、2期4中全会で中央執行委員に補充選出された。6月、[[蒙蔵委員会]]常務委員に任ぜられる。11月、[[寧夏省]]政府委員となった。
[[1924年]](民国13年)1月、国民党第1回全国代表大会に出席し、第1期候補中央執行委員に選出されている(第2期、第4期も同様)。3月、国民党内蒙臨時執行委員会籌備員に任ぜられ、内モンゴルでの党組織建設に従事した。翌年3月、内蒙古国民党全蒙代表大会が実施され、白雲梯が党執行委員会委員長に選出されている。[[1926年]](民国15年)1月、蒙古宣慰使に任ぜられる。[[1928年]](民国17年)2月、2期4中全会で中央執行委員に補充選出された。6月、[[蒙蔵委員会]]常務委員に任ぜられる。11月、[[寧夏省]]政府委員となった。


その後白雲梯は、[[汪兆銘]](汪精衛)ら[[改組派]]の一員として反[[介石]]運動に参加した。そのため、[[1929年]](民国18年)11月に党籍を剥奪される。翌年、[[馮玉祥]]と[[閻錫山]]らが[[北京市|北平]]で開催した拡大会議に参加し、反の国民政府民族部主任委員となった。しかし、反軍が敗北したため、白は[[広東省 (中華民国)|広東省]]に逃れた。
その後白雲梯は、[[汪兆銘]](汪精衛)ら[[改組派]]の一員として反[[介石]]運動に参加した。そのため、[[1929年]](民国18年)11月に党籍を剥奪される。翌年、[[馮玉祥]]と[[閻錫山]]らが[[北京市|北平]]で開催した拡大会議に参加し、反の国民政府民族部主任委員となった。しかし、反軍が敗北したため、白は[[広東省 (中華民国)|広東省]]に逃れた。


[[1931年]](民国20年)10月、各派大同団結により白も党籍を回復している。12月、党中央組織委員会委員に任ぜられた。[[1934年]](民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員も兼ねている。しかし、後に[[重慶市|重慶]]に移り、汪兆銘らの親日政府樹立活動には追随しなかった。
[[1931年]](民国20年)10月、各派大同団結により白も党籍を回復している。12月、党中央組織委員会委員に任ぜられた。[[1934年]](民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員も兼ねている。しかし、後に[[重慶市|重慶]]に移り、汪兆銘らの親日政府樹立活動には追随しなかった。

2020年9月15日 (火) 14:19時点における版

白雲梯 (セレンドンロブ)
プロフィール
出生: 1894年2月17日
光緒20年正月12日)
死去: 1980年民国69年)8月2日
中華民国の旗 中華民国台北市
出身地: 清の旗 内モンゴルジョソト盟(卓索図盟)カラチン中旗(喀喇沁中旗)
職業: 政治家
各種表記
繁体字 白雲梯 (色楞棟魯布)
簡体字 白云梯 (色楞栋鲁布)
拼音 Bái Yúntī
ラテン字 Pai Yün-t'i (Selengdonglubu)
和名表記: はく うんてい (セレンドンロブ)
発音転記: バイ ユンティー
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白 雲梯(はく うんてい)は中華民国の政治家。モンゴル族。モンゴル名はセレンドンロブ(Serengdongrub)。中国国民党に属し、内モンゴルでの党組織に従事した。また、反蔣介石運動にも加わっている。巨川

事跡

1911年宣統3年)、北京国文専修館で漢文を学ぶ。翌1912年民国元年)、公立蒙蔵学校法制経済科に入学した。1919年(民国8年)、中国国民党に加入する。翌年、内蒙古党務特派員に任ぜられた。

1924年(民国13年)1月、国民党第1回全国代表大会に出席し、第1期候補中央執行委員に選出されている(第2期、第4期も同様)。3月、国民党内蒙臨時執行委員会籌備員に任ぜられ、内モンゴルでの党組織建設に従事した。翌年3月、内蒙古国民党全蒙代表大会が実施され、白雲梯が党執行委員会委員長に選出されている。1926年(民国15年)1月、蒙古宣慰使に任ぜられる。1928年(民国17年)2月、2期4中全会で中央執行委員に補充選出された。6月、蒙蔵委員会常務委員に任ぜられる。11月、寧夏省政府委員となった。

その後白雲梯は、汪兆銘(汪精衛)ら改組派の一員として反蔣介石運動に参加した。そのため、1929年(民国18年)11月に党籍を剥奪される。翌年、馮玉祥閻錫山らが北平で開催した拡大会議に参加し、反蔣の国民政府民族部主任委員となった。しかし、反蔣軍が敗北したため、白は広東省に逃れた。

1931年(民国20年)10月、各派大同団結により白も党籍を回復している。12月、党中央組織委員会委員に任ぜられた。1934年(民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員も兼ねている。しかし、後に重慶に移り、汪兆銘らの親日政府樹立活動には追随しなかった。

1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央執行委員に選出される。翌年11月、制憲国民大会代表に当選した。1947年(民国36年)7月、蒙蔵委員会副委員長に任ぜられる。冬には行憲国民大会代表に当選した。1948年(民国37年)12月、蒙蔵委員会委員長に選出された。翌年6月までその地位にあった。

国共内戦での国民党敗北とともに、白雲梯も台湾へ逃亡した。そこで中華民国総統府国策顧問に任ぜられている。1957年(民国46年)10月以降、第8期から第11期まで連続して党中央評議委員に選出された。

1980年(民国69年)8月2日、台北にて病没。享年87(満86歳)。

関連項目

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
許世英
蒙蔵委員会委員長
1948年12月 - 1949年6月
次代
関吉玉