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[[日露戦争]]時は玄洋社が編成した満洲義軍に参加する。
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[[満洲事変]]解決のために[[犬養毅]]の命を受け、[[介石]]との停戦和平交渉に出向くが[[松井石根]]陸軍中将(当時)、外務官僚[[重光葵]]、書記官長[[森恪]]の妨害により、失敗した。1946年9月18日、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に勅選された<ref>『官報』第5908号、昭和21年9月21日。</ref>。
[[満洲事変]]解決のために[[犬養毅]]の命を受け、[[介石]]との停戦和平交渉に出向くが[[松井石根]]陸軍中将(当時)、外務官僚[[重光葵]]、書記官長[[森恪]]の妨害により、失敗した。1946年9月18日、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に勅選された<ref>『官報』第5908号、昭和21年9月21日。</ref>。


==脚注==
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2020年9月15日 (火) 14:18時点における版

萱野長知

萱野 長知(かやの ながとも、1873年10月12日 - 1947年4月14日)は、日本の政治運動家・民間外交家で大陸浪人アジア主義者の代表的人物のひとり。高知県出身。玄洋社社員[1]

経歴

自由民権運動に傾倒するが、後に大阪時事通信社の社員となる。

後に中国に渡って中国語を学び、広東・香港で新聞通信員となり、辛亥革命中の孫文と知り合う。1906年(明治39年)、宮崎滔天平山周和田三郎(高知共立学校時代の同級生)らと革命評論社を設立。『革命評論』を創刊して、孫文らの辛亥革命アジア主義者の立場から支援する。

日露戦争時は玄洋社が編成した満洲義軍に参加する。

満洲事変解決のために犬養毅の命を受け、蔣介石との停戦和平交渉に出向くが松井石根陸軍中将(当時)、外務官僚重光葵、書記官長森恪の妨害により、失敗した。1946年9月18日、貴族院議員に勅選された[2]

脚注

  1. ^ 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、玄洋社社員名簿31頁。
  2. ^ 『官報』第5908号、昭和21年9月21日。

参考文献

関連項目