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[[1937年]](民国26年)、劉多荃は第49軍軍長・陸軍中将に昇進した。[[日中戦争]](抗日戦争)勃発後、津浦路や上海方面で日本軍と交戦した。[[1941年]](民国29年)10月、第10集団軍副総司令に昇進し、[[抗日戦争第3戦区|第3戦区]]に属した。12月、[[熱河省]]政府主席を兼任している<ref>劉多荃の任命当初、熱河省政府の管轄区は[[満州国]]統治下にあったため、省政府は実態として存在していなかった。熱河省政府が正式に組織されたのは、[[日中戦争]](抗日戦争)後の[[1945年]](民国34年)10月のことである。</ref>。[[1943年]](民国32年)4月、第25集団軍副総司令となった。[[1945年]](民国34年)5月、[[中国国民党]]第6期中央候補執行委員に選出されている。 |
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[[国共内戦]]の最中では、劉多荃は[[1947年]](民国36年)冬に行憲[[国民大会]]代表に選出され、翌年1月に華北剿匪総司令部副総司令に任ぜられた。しかし翌月、熱河省政府主席を突然罷免されてしまう。その後、[[香港]]に移って反[[蔣介石]]派のグループに加わった。[[1949年]](民国38年)8月、[[黄紹竑]]らとともに[[中国共産党]]への起義を宣言している。 |
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[[中華人民共和国]]では、劉多荃は[[中国人民政治協商会議]]全国委員会委員を第2期から第5期までつとめている。[[1980年]]1月には、政治協商会議遼寧省委員会の第4期副主席に選出された。また[[中国国民党革命委員会]](民革)に所属し、中央委員会委員、遼寧省委員会主任委員を歴任している。 |
2020年9月15日 (火) 14:16時点における版
劉多荃 | |
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プロフィール | |
出生: | 1897年(清光緒13年) |
死去: |
1985年7月22日 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府鳳凰城 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 劉多荃 |
簡体字: | 刘多荃 |
拼音: | Liú Duōquán |
ラテン字: | Liu To-ch'üan |
和名表記: | りゅう たせん |
発音転記: | リュウ ドゥオチュエン |
劉 多荃(りゅう たせん)は中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。奉天派・国民革命軍(国民政府)に属した。字は芳波。
事跡
1921年(民国10年)秋、保定陸軍軍官学校第9期砲兵科に入学する。1923年(民国12年)に卒業すると、張作霖率いる東三省陸軍に加入し、以後順調に昇進した。
1933年(民国22年)3月、国民革命軍第105師師長となる。1935年(民国24年)4月、陸軍少将の位を授与された。翌年12月に張学良が西安事変を起こすと、劉多荃は臨潼で部隊を指揮している。
1937年(民国26年)、劉多荃は第49軍軍長・陸軍中将に昇進した。日中戦争(抗日戦争)勃発後、津浦路や上海方面で日本軍と交戦した。1941年(民国29年)10月、第10集団軍副総司令に昇進し、第3戦区に属した。12月、熱河省政府主席を兼任している[1]。1943年(民国32年)4月、第25集団軍副総司令となった。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央候補執行委員に選出されている。
国共内戦の最中では、劉多荃は1947年(民国36年)冬に行憲国民大会代表に選出され、翌年1月に華北剿匪総司令部副総司令に任ぜられた。しかし翌月、熱河省政府主席を突然罷免されてしまう。その後、香港に移って反蔣介石派のグループに加わった。1949年(民国38年)8月、黄紹竑らとともに中国共産党への起義を宣言している。
中華人民共和国では、劉多荃は中国人民政治協商会議全国委員会委員を第2期から第5期までつとめている。1980年1月には、政治協商会議遼寧省委員会の第4期副主席に選出された。また中国国民党革命委員会(民革)に所属し、中央委員会委員、遼寧省委員会主任委員を歴任している。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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