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日本敗北後の9月26日、凌霄は[[蔣介石]]の国民政府により南京で逮捕された<ref>余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1613頁。</ref>。凌は軍事法廷で[[漢奸]]の罪を問われて死刑判決を言い渡され、時期は不明だが、南京で銃殺刑に処された<ref>余ほか1422-1423頁、1435頁。</ref>。 |
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2020年9月15日 (火) 14:12時点における版
凌霄 | |
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プロフィール | |
出生: | 1889年(清光緒15年) |
死去: |
不詳 中華民国南京市 |
出身地: | 清浙江省嘉興府石門県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 凌霄 |
簡体字: | 凌霄 |
拼音: | Líng Xiāo |
ラテン字: | Ling Hsiao |
和名表記: | りょう しよう |
発音転記: | リン シャオ |
凌 霄(りょう しょう)は中華民国の海軍軍人。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。別号は壮華。
事跡
日本に留学し、東京商船学校、海軍大学校を卒業した。帰国後は、北京政府参謀本部科長、奉天省航警学校校長、東北第2艦隊司令、渤海艦隊副司令を歴任する。1929年(民国18年)、沈鴻烈配下の東北第1艦隊司令として青島に入った。しかし沈と対立して、東北海軍駐青弁公処処長に転じている。
1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、凌霄は軍事委員会委員兼海軍部政務次長となった。同年5月、政務次長を離れ、委員専任となる。1944年(民国33年)11月、海軍部長任援道に代理して部長となり、翌1945年(民国34年)1月、正式に海軍部長に昇進した。
日本敗北後の9月26日、凌霄は蔣介石の国民政府により南京で逮捕された[1]。凌は軍事法廷で漢奸の罪を問われて死刑判決を言い渡され、時期は不明だが、南京で銃殺刑に処された[2]。
注
参考文献
- 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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