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[[1914年]]([[民国紀元|民国]]3年)、傅筱庵は[[盛宣懐]]により招商局経理各地桟租に任命された。さらに中国通商銀行[[役員 (会社)#董事|董事]](理事)と上海総商会第1期議董もつとめている。[[1916年]](民国5年)4月、盛が病没すると、傅は招商局董事・同局積余産業経理・内河輪船公司経理兼主船課長となった。以後、上海総商会、[[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]、漢冶萍公司など様々な業種の国内有力企業で要職を歴任する。[[1926年]](民国15年)、上海総商会会長となった。しかし、[[中国国民党]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍が上海に入城すると、傅は[[北京政府]]の[[孫伝芳]]を支援した罪により指名手配されてしまい、[[大連市|大連]]へ逃亡した。 |
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[[1931年]](民国20年)に傅筱庵はようやく指名手配を解除され、上海へ戻って中国通商銀行総経理・[[役員 (会社)#董事長|董事長]]などをつとめた。[[1938年]](民国27年)10月、[[中華民国維新政府]]の下で上海特別市市長に任命されている([[汪兆銘政権|南京国民政府]]成立後も留任)。同年、[[蔣介石]]の重慶国民政府が[[軍統局|軍統]]の特務を派遣し、上海逗留中の[[汪兆銘]](汪精衛)暗殺を図った。傅は、当初は軍統に協力していたが、実行直前にこれを汪に告げ、特務の暗殺部隊を取り押さえている。これに怒った蔣は、軍統の指導者である[[戴笠]]に傅暗殺を厳命した。 |
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[[1940年]](民国29年)10月10日、傅筱庵は就寝中のところを、軍統に買収された使用人に殺害された。享年69(満67歳)。 |
2020年9月15日 (火) 14:12時点における版
傅筱庵 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1872年12月30日 (清同治11年11月初1日) |
死去: |
1940年(民国29年)10月10日 中華民国上海市 |
出身地: | 清浙江省寧波府鎮海県 |
職業: | 政治家・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 傅筱庵 |
簡体字: | 傅筱庵 |
拼音: | Fù Xiǎoān |
ラテン字: | Fu Hsiao-an |
和名表記: | ふ しょうあん |
発音転記: | フー シャオアン |
傅 筱庵 (ふ しょうあん)は、中華民国の政治家・実業家・銀行家。中華民国維新政府、汪兆銘政権で上海市長をつとめた。日本では一般に名の宗耀で知られるが、中国では一般に字の筱庵で知られる。
事跡
1892年(光緒18年)、上海浦東の船工場で働きながら、夜間学校で英語を学んだ。1909年(宣統元年)、招商局所属華興保険公司に勤め、副経理・総経理を歴任している。1911年(宣統3年)10月、辛亥革命が勃発すると、滬軍都督府財政部総参議・滬関清理処処長となる。あわせて、招商局、漢冶萍公司、中国通商銀行の股権代表(株主代表)となった。
1914年(民国3年)、傅筱庵は盛宣懐により招商局経理各地桟租に任命された。さらに中国通商銀行董事(理事)と上海総商会第1期議董もつとめている。1916年(民国5年)4月、盛が病没すると、傅は招商局董事・同局積余産業経理・内河輪船公司経理兼主船課長となった。以後、上海総商会、中国銀行、漢冶萍公司など様々な業種の国内有力企業で要職を歴任する。1926年(民国15年)、上海総商会会長となった。しかし、中国国民党の北伐軍が上海に入城すると、傅は北京政府の孫伝芳を支援した罪により指名手配されてしまい、大連へ逃亡した。
1931年(民国20年)に傅筱庵はようやく指名手配を解除され、上海へ戻って中国通商銀行総経理・董事長などをつとめた。1938年(民国27年)10月、中華民国維新政府の下で上海特別市市長に任命されている(南京国民政府成立後も留任)。同年、蔣介石の重慶国民政府が軍統の特務を派遣し、上海逗留中の汪兆銘(汪精衛)暗殺を図った。傅は、当初は軍統に協力していたが、実行直前にこれを汪に告げ、特務の暗殺部隊を取り押さえている。これに怒った蔣は、軍統の指導者である戴笠に傅暗殺を厳命した。
1940年(民国29年)10月10日、傅筱庵は就寝中のところを、軍統に買収された使用人に殺害された。享年69(満67歳)。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
ファイル:CJZ1.png 中華民国維新政府
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南京国民政府(汪兆銘政権)
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