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[[1926年]](民国15年)3月、第14師第27旅少将旅長となる。翌年、河南保衛軍第1師師長となったが、同年4月に[[奉天派]]との戦いに敗れ、捕虜とされる。その後釈放され、[[張宗昌]]率いる直魯聯軍第15師師長、中将参議などを歴任した。[[1928年]](民国17年)、[[国防大学 (中華民国)|陸軍大学]]特別班第1期に送られ、学習している。
[[1926年]](民国15年)3月、第14師第27旅少将旅長となる。翌年、河南保衛軍第1師師長となったが、同年4月に[[奉天派]]との戦いに敗れ、捕虜とされる。その後釈放され、[[張宗昌]]率いる直魯聯軍第15師師長、中将参議などを歴任した。[[1928年]](民国17年)、[[国防大学 (中華民国)|陸軍大学]]特別班第1期に送られ、学習している。


[[中国国民党]]([[国民政府]])の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]が完了すると、劉培緒は[[国民政府]]に転じ、[[唐生智]]配下となる。[[1929年]](民国18年)春、唐の下で第5路総指揮部前方参謀処処長として[[介石]]と戦ったが敗北する。12月、やはり唐が率いる護党救国軍の第4路第26師師長となったが、ここでも唐は敗北、下野した。
[[中国国民党]]([[国民政府]])の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]が完了すると、劉培緒は[[国民政府]]に転じ、[[唐生智]]配下となる。[[1929年]](民国18年)春、唐の下で第5路総指揮部前方参謀処処長として[[介石]]と戦ったが敗北する。12月、やはり唐が率いる護党救国軍の第4路第26師師長となったが、ここでも唐は敗北、下野した。


その後、劉は配下に転じ、[[1930年]](民国19年)1月、[[国民革命軍]]新編第2旅旅長となった。[[1932年]](民国21年)、改編に伴い独立第37旅旅長となる。同年夏、豫鄂皖剿匪総司令部左路軍第4縦隊総司令に転じた。[[1935年]](民国24年)、陸軍少将位を授与される。同年秋、第4師師長に昇進した。
その後、劉は配下に転じ、[[1930年]](民国19年)1月、[[国民革命軍]]新編第2旅旅長となった。[[1932年]](民国21年)、改編に伴い独立第37旅旅長となる。同年夏、豫鄂皖剿匪総司令部左路軍第4縦隊総司令に転じた。[[1935年]](民国24年)、陸軍少将位を授与される。同年秋、第4師師長に昇進した。


[[1937年]](民国26年)8月、[[第二次上海事変]]が勃発すると、劉培緒もこれに参戦し、[[蘇州市|蘇州]]に駐留した。しかし劉は日本軍にあっけなく敗北、失陥してしまう。これにより介石の懲戒を受け、翌年4月、軍事委員会中将高参の閑職に左遷されてしまう。その後、劉は母の看病を理由に[[香港]]へ逃れた。そこで劉は、[[葉蓬]]の紹介により、[[汪兆銘]](汪精衛)の和平運動に参加することになる。また、汪の指示により、華北で軍組織のための活動を開始した。
[[1937年]](民国26年)8月、[[第二次上海事変]]が勃発すると、劉培緒もこれに参戦し、[[蘇州市|蘇州]]に駐留した。しかし劉は日本軍にあっけなく敗北、失陥してしまう。これにより介石の懲戒を受け、翌年4月、軍事委員会中将高参の閑職に左遷されてしまう。その後、劉は母の看病を理由に[[香港]]へ逃れた。そこで劉は、[[葉蓬]]の紹介により、[[汪兆銘]](汪精衛)の和平運動に参加することになる。また、汪の指示により、華北で軍組織のための活動を開始した。


[[1939年]](民国28年)12月、[[上海市|上海]]で中央陸軍軍官訓練団が発足すると、劉培緒は副教育長に任命された。また、汪兆銘指揮下の国民党候補中央監察委員にもなっている。翌年3月、正式に[[汪兆銘政権|汪兆銘政権(南京国民政府)]]が成立すると、劉は軍事委員会参謀本部常務次長に任ぜられ、[[1941年]](民国30年)9月、中央陸軍軍官学校副教育長となった。ところが、後に汪兆銘暗殺計画を謀ったとの嫌疑により、各職を罷免されてしまう。[[1943年]](民国32年)、引退して[[北京市|北平]]で手工業を営む生活に入った。
[[1939年]](民国28年)12月、[[上海市|上海]]で中央陸軍軍官訓練団が発足すると、劉培緒は副教育長に任命された。また、汪兆銘指揮下の国民党候補中央監察委員にもなっている。翌年3月、正式に[[汪兆銘政権|汪兆銘政権(南京国民政府)]]が成立すると、劉は軍事委員会参謀本部常務次長に任ぜられ、[[1941年]](民国30年)9月、中央陸軍軍官学校副教育長となった。ところが、後に汪兆銘暗殺計画を謀ったとの嫌疑により、各職を罷免されてしまう。[[1943年]](民国32年)、引退して[[北京市|北平]]で手工業を営む生活に入った。

2020年9月15日 (火) 14:11時点における版

劉培緒
プロフィール
出生: 1894年光緒20年)
死去: 1954年
中華人民共和国北京市
出身地: 清の旗 直隷省沙河県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 劉培緒
簡体字 刘培绪
拼音 Liú Péixù
ラテン字 Liu P'ei-hsü
和名表記: りゅう ばいしょ
発音転記: リウ ペイシュー
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劉 培緒(りゅう ばいしょ)は中華民国の軍人。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。冀述

事跡

初めは学問を志し、順徳中学で学んでいたが、家庭の窮状により、21歳で軍人に転じた。北京模範団第2期に選抜され、1917年民国6年)、保定陸軍軍官学校第6期歩兵科に入学した。1919年(民国8年)春に卒業し、後に靳雲鶚率いる第14師に配属、昇進していく。

1926年(民国15年)3月、第14師第27旅少将旅長となる。翌年、河南保衛軍第1師師長となったが、同年4月に奉天派との戦いに敗れ、捕虜とされる。その後釈放され、張宗昌率いる直魯聯軍第15師師長、中将参議などを歴任した。1928年(民国17年)、陸軍大学特別班第1期に送られ、学習している。

中国国民党国民政府)の北伐が完了すると、劉培緒は国民政府に転じ、唐生智配下となる。1929年(民国18年)春、唐の下で第5路総指揮部前方参謀処処長として蔣介石と戦ったが敗北する。12月、やはり唐が率いる護党救国軍の第4路第26師師長となったが、ここでも唐は敗北、下野した。

その後、劉は蔣配下に転じ、1930年(民国19年)1月、国民革命軍新編第2旅旅長となった。1932年(民国21年)、改編に伴い独立第37旅旅長となる。同年夏、豫鄂皖剿匪総司令部左路軍第4縦隊総司令に転じた。1935年(民国24年)、陸軍少将位を授与される。同年秋、第4師師長に昇進した。

1937年(民国26年)8月、第二次上海事変が勃発すると、劉培緒もこれに参戦し、蘇州に駐留した。しかし劉は日本軍にあっけなく敗北、失陥してしまう。これにより蔣介石の懲戒を受け、翌年4月、軍事委員会中将高参の閑職に左遷されてしまう。その後、劉は母の看病を理由に香港へ逃れた。そこで劉は、葉蓬の紹介により、汪兆銘(汪精衛)の和平運動に参加することになる。また、汪の指示により、華北で軍組織のための活動を開始した。

1939年(民国28年)12月、上海で中央陸軍軍官訓練団が発足すると、劉培緒は副教育長に任命された。また、汪兆銘指揮下の国民党候補中央監察委員にもなっている。翌年3月、正式に汪兆銘政権(南京国民政府)が成立すると、劉は軍事委員会参謀本部常務次長に任ぜられ、1941年(民国30年)9月、中央陸軍軍官学校副教育長となった。ところが、後に汪兆銘暗殺計画を謀ったとの嫌疑により、各職を罷免されてしまう。1943年(民国32年)、引退して北平で手工業を営む生活に入った。

中華人民共和国成立後の1951年、劉培緒は当局に逮捕され、1954年、北京で処刑された。享年61。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 胡幼植・傅大興「汪偽政権“建軍”拾零」『文史資料選輯 第99輯』中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会編、中国文史出版社、1984年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1