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[[1942年]](民国31年)8月、水利委員会委員長となり、その翌年1月、建設部部長に異動した。9月、実業部部長兼全国経済委員会常務委員となる。10月、合作事業委員会委員長となる。[[1944年]](民国33年)3月、短期間ながら糧食部部長も兼ねた(糧食部は同年4月に実業部に併合される)。7月、郷村建設実施委員会秘書長となる。
[[1942年]](民国31年)8月、水利委員会委員長となり、その翌年1月、建設部部長に異動した。9月、実業部部長兼全国経済委員会常務委員となる。10月、合作事業委員会委員長となる。[[1944年]](民国33年)3月、短期間ながら糧食部部長も兼ねた(糧食部は同年4月に実業部に併合される)。7月、郷村建設実施委員会秘書長となる。


日本敗北後、陳君慧は[[陳公博]]に随従して日本へ亡命したが、10月、帰国する。陳君慧は、[[介石]]の[[国民政府]]により逮捕され、老虎橋監獄に収監された。
日本敗北後、陳君慧は[[陳公博]]に随従して日本へ亡命したが、10月、帰国する。陳君慧は、[[介石]]の[[国民政府]]により逮捕され、老虎橋監獄に収監された。


その後の陳君慧の行方は、不詳である。
その後の陳君慧の行方は、不詳である。

2020年9月15日 (火) 14:10時点における版

陳君慧
プロフィール
出生: 1903年光緒29年)
死去: 不詳
出身地: 清の旗 広東省広州府新寧県
職業: 政治家・経済学者
各種表記
繁体字 陳君慧
簡体字 陈君慧
拼音 Chén Jūnhuì
ラテン字 Ch'en Chün-hui
和名表記: ちん くんけい
発音転記: チェン ジュンフイ
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陳 君慧(ちん くんけい、1903 - 没年不明)は、中華民国の政治家・経済学者。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。

事跡

私立嶺南大学を卒業後にアメリカへ留学する。ニューヨーク大学で修士号を取得した。帰国後の1933年民国22年)、社会調査研究所主任となる。翌年、中央研究院社会研究所専任研究員となった。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に加入し、中央政治委員会委員(以後、4期務める)、経済専門委員会主任委員となった。翌月、行政院参事庁庁長、中央銀行籌備委員会委員も兼ねている。12月、中央儲備銀行常務理事、全国経済委員会秘書長となった。翌年3月、文物委員会委員を、8月、行政院政務委員、物資統制委員会委員、糧食管理委員会委員も兼任している。12月、僑務委員会委員長に任ぜられた。

1942年(民国31年)8月、水利委員会委員長となり、その翌年1月、建設部部長に異動した。9月、実業部部長兼全国経済委員会常務委員となる。10月、合作事業委員会委員長となる。1944年(民国33年)3月、短期間ながら糧食部部長も兼ねた(糧食部は同年4月に実業部に併合される)。7月、郷村建設実施委員会秘書長となる。

日本敗北後、陳君慧は陳公博に随従して日本へ亡命したが、10月、帰国する。陳君慧は、蔣介石国民政府により逮捕され、老虎橋監獄に収監された。

その後の陳君慧の行方は、不詳である。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉傑『漢奸裁判 対日協力者を襲った運命』中央公論新社中公新書)、2000年。ISBN 978-4121015440 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
建設部長
1943年1月 - 9月
次代
陳春圃
先代
梅思平
実業部長
1943年9月 - 1945年8月
次代
(廃止)
先代
顧宝衛
糧食部長
1944年3月 - 4月
次代
(実業部に併合)
先代
陳春圃
建設部長
1944年4月 - 9月
次代
傅式説