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[[1929年]](民国18年)冬、[[香港]]に赴任し、南華通訊社を創設した。翌年2月には、『南華日報』を創刊している。[[1932年]](民国21年)、[[上海市|上海]]で『中華日報』を創刊した。同年4月、[[国民政府]]僑務委員会常務委員となり、翌年には[[中華民国立法院|立法院]]立法委員となった。[[1937年]](民国26年)、[[中国国民党]]中央宣伝部特派員を兼任し、翌年2月には香港で国際問題研究所を設立している。 |
2020年9月15日 (火) 14:09時点における版
林柏生 | |
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『写真週報』1940年4月3日号 | |
プロフィール | |
出生: | 1902年(清光緒27年) |
死去: |
1946年(民国35年)10月8日 中華民国南京市 |
出身地: | 清広東省高州府信宜県 |
職業: | 政治家・ジャーナリスト |
各種表記 | |
繁体字: | 林柏生 |
簡体字: | 林柏生 |
拼音: | Lín Bóshēng |
ラテン字: | Lin Po-sheng |
和名表記: | りん はくせい |
発音転記: | リン ボーション |
林 柏生(りん はくせい、1902年 - 1946年10月8日)は中華民国の政治家・ジャーナリスト。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人で、汪兆銘(汪精衛)本人にとっても側近的存在である。号は石泉。
事跡
1920年(民国9年)、広州の私立嶺南大学で学ぶが、1923年(民国12年)、ストライキに参加したため、退学処分を受けた。1925年(民国14年)7月、汪兆銘の秘書となる。10月、ソ連に留学し、モスクワ中山大学で学んだ。翌年9月に帰国し、黄埔軍官学校政治教官に任命されている。1927年(民国16年)12月、蔣介石と対立して下野した汪に随従してフランスに向かった。
1929年(民国18年)冬、香港に赴任し、南華通訊社を創設した。翌年2月には、『南華日報』を創刊している。1932年(民国21年)、上海で『中華日報』を創刊した。同年4月、国民政府僑務委員会常務委員となり、翌年には立法院立法委員となった。1937年(民国26年)、中国国民党中央宣伝部特派員を兼任し、翌年2月には香港で国際問題研究所を設立している。
1938年(民国27年)12月より、林柏生は、汪兆銘に随従して親日政権の樹立事務に携わる。翌年8月、汪の指導下で国民党中央常務委員兼中央宣伝部副部長となり、さらに中華通訊社社長に就任した。翌年2月、中央宣伝部部長に昇格し、3月、南京国民政府の成立とともに、中央政治会議委員兼行政院宣伝部長に任じられた。1941年(民国30年)、清郷委員会委員となり、さらに新国民運動促進委員会常務委員兼秘書長にもなっている。1943年(民国32年)1月、最高国防会議委員となり、翌年12月には、安徽省省長などに就任した。
日本敗北後、林柏生は陳公博に随従して日本へ亡命したが、10月3日[1]、陳らとともに中国へ送還された。1946年(民国35年)5月31日、首都高級法院で死刑判決を受ける。
同年10月8日、南京老虎橋監獄内で処刑された。享年45。
注
- ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、10月13日、としているが、劉傑『漢奸裁判』、168頁に従い、10月3日に修正する。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 劉傑『漢奸裁判 対日協力者を襲った運命』中央公論新社、2000年。ISBN 4-12-101544-4。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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