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北京陸軍大学を卒業し、[[奉天派]]に属する。[[1926年]]([[民国紀元|民国]]15年)、鮑文樾は安国軍第3・4方面軍軍団参謀長に就任した。翌年6月、陸軍中将銜を授けられた。[[1928年]](民国17年)、東北保安司令部参議、東北陸軍講武堂教育長、東省特別区警務処処長をつとめる。 |
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[[張学良]]の[[易幟]]後、鮑文樾は参謀本部参謀次長、軍事委員会第2庁副庁長、軍事委員会北平分会委員、軍事委員会弁公庁副主任、陸海空軍総司令部駐京弁事処処長を歴任した。なお[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]に際しては、張の代理人として[[南京市|南京]]に赴き、[[蔣介石]]との間で連絡役をつとめた。 |
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[[1939年]](民国28年)、鮑文樾は、[[汪兆銘]](汪精衛)の下で[[中国国民党]]中央委員となる。翌年3月、[[汪兆銘政権]](南京国民政府)が成立すると、軍政部政務次長に任命され、代理軍政部部長となった。このほか、中央政治委員会委員、軍事委員会常務委員にも就任している。同年12月、軍事委員会主任委員に任命された。 |
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[[1941年]](民国30年)3月、鮑文樾は軍政部長に正式に昇格し、清郷委員会委員も兼ねた。5月、[[広東省 (汪兆銘政権)|広東省]]政府委員に任じられる。9月、中央陸軍軍官学校校務委員会委員となる。翌年8月、軍政部の改組に伴い陸軍部部長となった。[[1943年]](民国32年)1月には最高国防会議委員となる。同年4月、参謀総長に任じられた。[[1945年]](民国34年)4月、[[河南省 (汪兆銘政権)|河南省]]省長となっている。 |
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日本敗北後、鮑文樾は蔣介石の国民政府により[[漢奸]]として逮捕される。[[1947年]](民国36年)3月7日、死刑判決を言い渡されたが、同年5月20日に無期懲役に減刑された。[[1949年]](民国38年)、[[台湾]]に連行されて引き続き収監される。[[1975年]](民国64年)、釈放された。 |
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[[1980年]](民国69年)4月、[[台北市]]にて病没。享年89。 |
2020年9月15日 (火) 14:09時点における版
鮑文樾 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1892年(清光緒18年) |
死去: |
1980年(民国69年)4月 中華民国台北市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府鳳凰城 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 鮑文樾 |
簡体字: | 鲍文樾 |
拼音: | Bào Wényuè |
ラテン字: | Pao Wen-yüe |
和名表記: | ほう ぶんえつ |
発音転記: | バオ ウェンユエ |
鮑 文樾(ほう ぶんえつ)は中華民国の軍人。満州族。北京政府、奉天派の軍人。南京国民政府(汪兆銘政権)において軍事面の要人となった。号は志一。
事跡
北京陸軍大学を卒業し、奉天派に属する。1926年(民国15年)、鮑文樾は安国軍第3・4方面軍軍団参謀長に就任した。翌年6月、陸軍中将銜を授けられた。1928年(民国17年)、東北保安司令部参議、東北陸軍講武堂教育長、東省特別区警務処処長をつとめる。
張学良の易幟後、鮑文樾は参謀本部参謀次長、軍事委員会第2庁副庁長、軍事委員会北平分会委員、軍事委員会弁公庁副主任、陸海空軍総司令部駐京弁事処処長を歴任した。なお1930年(民国19年)の中原大戦に際しては、張の代理人として南京に赴き、蔣介石との間で連絡役をつとめた。
1939年(民国28年)、鮑文樾は、汪兆銘(汪精衛)の下で中国国民党中央委員となる。翌年3月、汪兆銘政権(南京国民政府)が成立すると、軍政部政務次長に任命され、代理軍政部部長となった。このほか、中央政治委員会委員、軍事委員会常務委員にも就任している。同年12月、軍事委員会主任委員に任命された。
1941年(民国30年)3月、鮑文樾は軍政部長に正式に昇格し、清郷委員会委員も兼ねた。5月、広東省政府委員に任じられる。9月、中央陸軍軍官学校校務委員会委員となる。翌年8月、軍政部の改組に伴い陸軍部部長となった。1943年(民国32年)1月には最高国防会議委員となる。同年4月、参謀総長に任じられた。1945年(民国34年)4月、河南省省長となっている。
日本敗北後、鮑文樾は蔣介石の国民政府により漢奸として逮捕される。1947年(民国36年)3月7日、死刑判決を言い渡されたが、同年5月20日に無期懲役に減刑された。1949年(民国38年)、台湾に連行されて引き続き収監される。1975年(民国64年)、釈放された。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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