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[[1923年]]([[民国紀元|民国]]12年)、江蘇省立第一師範学校卒業。[[1928年]](民国17年)、淞滬警備司令部少校参謀に任命され、[[1932年]](民国21年)、[[上海市|上海]]で『社会新聞』の編集者となった。このとき、[[李士群]]、[[丁黙邨]]と同僚になっている。
[[1923年]]([[民国紀元|民国]]12年)、江蘇省立第一師範学校卒業。[[1928年]](民国17年)、淞滬警備司令部少校参謀に任命され、[[1932年]](民国21年)、[[上海市|上海]]で『社会新聞』の編集者となった。このとき、[[李士群]]、[[丁黙邨]]と同僚になっている。


[[1938年]](民国27年)、上海に潜入し、[[汪兆銘]](汪精衛)の配下となる。以後、[[ジェスフィールド76号|特工総部]]副主任、特工総部[[南京市|南京]]区区長を歴任した。しかし、後に[[介石]]派の[[中国国民党]]中央執行委員会調査統計局(中統)の特務と連絡を取り合っていたことが発覚したため、上海の新亜酒店に軟禁された。その後の消息は不明である。
[[1938年]](民国27年)、上海に潜入し、[[汪兆銘]](汪精衛)の配下となる。以後、[[ジェスフィールド76号|特工総部]]副主任、特工総部[[南京市|南京]]区区長を歴任した。しかし、後に[[介石]]派の[[中国国民党]]中央執行委員会調査統計局(中統)の特務と連絡を取り合っていたことが発覚したため、上海の新亜酒店に軟禁された。その後の消息は不明である。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年9月15日 (火) 14:09時点における最新版

唐恵民
プロフィール
出生: 不詳
死去: 不詳
出身地: 清の旗 江蘇省常州府無錫県
職業: 特務・軍人
各種表記
繁体字 唐惠民
簡体字 唐惠民
拼音 Táng Huìmín
ラテン字 T'ang Hui-min
和名表記: とう けいみん
発音転記: タン フイミン
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唐 恵民(とう けいみん)は中華民国の特務・軍人。旧名は瑞麟

事跡

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1923年民国12年)、江蘇省立第一師範学校卒業。1928年(民国17年)、淞滬警備司令部少校参謀に任命され、1932年(民国21年)、上海で『社会新聞』の編集者となった。このとき、李士群丁黙邨と同僚になっている。

1938年(民国27年)、上海に潜入し、汪兆銘(汪精衛)の配下となる。以後、特工総部副主任、特工総部南京区区長を歴任した。しかし、後に蔣介石派の中国国民党中央執行委員会調査統計局(中統)の特務と連絡を取り合っていたことが発覚したため、上海の新亜酒店に軟禁された。その後の消息は不明である。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1