「呉忠信」の版間の差分
m Bot作業依頼: 繡蔣を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (蔣介石) - log |
|||
32行目: | 32行目: | ||
[[1917年]](民国6年)、孫文が[[護法運動]]を開始すると、呉忠信もこれに参加し、粤軍上校参謀に任命された。以後、各地を転戦し、[[1921年]](民国10年)に桂林衛戍司令兼大本営憲兵司令に抜擢された。[[1922年]](民国11年)に孫文、[[張作霖]]、[[段祺瑞]]の三角同盟が結成されると、呉が孫文側の全権軍事代表に任じられる。しかし、まもなく呉は病に倒れ、3年間[[蘇州市|蘇州]]で療養に努めざるを得なかった。 |
[[1917年]](民国6年)、孫文が[[護法運動]]を開始すると、呉忠信もこれに参加し、粤軍上校参謀に任命された。以後、各地を転戦し、[[1921年]](民国10年)に桂林衛戍司令兼大本営憲兵司令に抜擢された。[[1922年]](民国11年)に孫文、[[張作霖]]、[[段祺瑞]]の三角同盟が結成されると、呉が孫文側の全権軍事代表に任じられる。しかし、まもなく呉は病に倒れ、3年間[[蘇州市|蘇州]]で療養に努めざるを得なかった。 |
||
[[1926年]](民国15年)夏、広州[[国民政府]]が北伐を開始する。呉忠信は[[南昌市|南昌]]の[[ |
[[1926年]](民国15年)夏、広州[[国民政府]]が北伐を開始する。呉忠信は[[南昌市|南昌]]の[[蔣介石]]の招聘に応じ、その幕僚となった。[[1929年]](民国18年)2月、呉は海外視察に赴いている。[[1932年]](民国21年)3月、[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席に任命され、地方制度整備や公道整備、歳出削減に尽力した。しかし、次第に省内の官吏と財政引締めをめぐって対立し、[[1933年]](民国22年)5月、辞任した。 |
||
[[1935年]](民国24年)4月、[[貴州省 (中華民国)|貴州省]]政府主席に就任した。そこでもやはり綱紀粛正、公道整備、地方経済振興に尽力した。その一方で、隣接する[[広西省]]の[[新広西派]]との関係調整にも心を配っている。 |
[[1935年]](民国24年)4月、[[貴州省 (中華民国)|貴州省]]政府主席に就任した。そこでもやはり綱紀粛正、公道整備、地方経済振興に尽力した。その一方で、隣接する[[広西省]]の[[新広西派]]との関係調整にも心を配っている。 |
||
44行目: | 44行目: | ||
[[1944年]](民国33年)8月、盛世才の後任として、呉忠信は新疆省政府主席兼保安総司令に任命された(保安総司令は、[[抗日戦争第8戦区|第8戦区]]司令長官[[朱紹良]]が代理)。呉は、盛に逮捕されていた[[ブルハン・シャヒディ]]など各民族、各界の人物を釈放し、宥和政策をとる。しかし、同年11月に三区革命により[[東トルキスタン共和国]]が建国されると、呉はその勢いを止めることができなかった。結局、[[ソビエト連邦|ソ連]]と国民政府の交渉により、東トルキスタン共和国への対処は一時解決したが、[[1946年]](民国35年)3月、呉は新疆省政府主席を辞任した。 |
[[1944年]](民国33年)8月、盛世才の後任として、呉忠信は新疆省政府主席兼保安総司令に任命された(保安総司令は、[[抗日戦争第8戦区|第8戦区]]司令長官[[朱紹良]]が代理)。呉は、盛に逮捕されていた[[ブルハン・シャヒディ]]など各民族、各界の人物を釈放し、宥和政策をとる。しかし、同年11月に三区革命により[[東トルキスタン共和国]]が建国されると、呉はその勢いを止めることができなかった。結局、[[ソビエト連邦|ソ連]]と国民政府の交渉により、東トルキスタン共和国への対処は一時解決したが、[[1946年]](民国35年)3月、呉は新疆省政府主席を辞任した。 |
||
その後も、呉忠信は[[中華民国総統府|総統府]]秘書長などをつとめる。 |
その後も、呉忠信は[[中華民国総統府|総統府]]秘書長などをつとめる。蔣介石に従って[[台湾]]に逃れてからは、総統府資政、国民党中央評議委員、中央紀律委員会主任委員などを歴任した。 |
||
[[1959年]](民国48年)12月16日、[[台北市|台北]]で病没。享年76(満75歳)。 |
[[1959年]](民国48年)12月16日、[[台北市|台北]]で病没。享年76(満75歳)。 |
2020年9月15日 (火) 14:05時点における版
呉忠信 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: |
1884年3月15日 (清光緒10年2月18日) |
死去: |
1959年(民国48年)12月16日 中華民国台北市 |
出身地: | 清安徽省廬州府合肥県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 吳忠信 |
簡体字: | 吴忠信 |
拼音: | Wú Zhōngxīn |
和名表記: | ご ちゅうしん |
発音転記: | ウー ヂョンシン |
呉 忠信(ご ちゅうしん)は、中華民国の軍人・政治家。中国同盟会以来の革命派人士。初期は軍人として活躍したが、国民政府成立後は各省政府主席を歴任している。字は礼卿、守堅。号は恕庵。
事跡
革命派としての活動
1900年(光緒26年)、南京の江南将弁学堂に入学する。1905年(光緒31年)に卒業後は、新軍第9鎮で任官した。その翌年に中国同盟会に秘密裏に加入している。1908年(光緒34年)、二等参謀官に昇進した。1911年(宣統3年)の辛亥革命においては、第9鎮統制徐紹楨に従って革命派として蜂起し、南京で張勲率いる清軍と交戦した。
翌1912年(民国元年)、南京に中華民国臨時政府が成立すると、呉忠信は警察総監に任命された。袁世凱が臨時大総統となると、寧鎮澄淞四路要塞司令に任命される。その一方で上海を拠点とする同盟会機関報『民立報』の経理兼社長代理となり、于右任の補佐を務めた。
1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)にも、呉忠信は革命派として参加したが、敗北して日本へ亡命した。翌1914年(民国3年)に孫文(孫中山)が中華革命党を創設すると、呉もこれに参加している。1915年(民国4年)、孫文の命により上海へ戻り、陳其美を補佐して反袁の蜂起を行った。
護法運動を経て政治家へ
1917年(民国6年)、孫文が護法運動を開始すると、呉忠信もこれに参加し、粤軍上校参謀に任命された。以後、各地を転戦し、1921年(民国10年)に桂林衛戍司令兼大本営憲兵司令に抜擢された。1922年(民国11年)に孫文、張作霖、段祺瑞の三角同盟が結成されると、呉が孫文側の全権軍事代表に任じられる。しかし、まもなく呉は病に倒れ、3年間蘇州で療養に努めざるを得なかった。
1926年(民国15年)夏、広州国民政府が北伐を開始する。呉忠信は南昌の蔣介石の招聘に応じ、その幕僚となった。1929年(民国18年)2月、呉は海外視察に赴いている。1932年(民国21年)3月、安徽省政府主席に任命され、地方制度整備や公道整備、歳出削減に尽力した。しかし、次第に省内の官吏と財政引締めをめぐって対立し、1933年(民国22年)5月、辞任した。
1935年(民国24年)4月、貴州省政府主席に就任した。そこでもやはり綱紀粛正、公道整備、地方経済振興に尽力した。その一方で、隣接する広西省の新広西派との関係調整にも心を配っている。
蒙蔵委員会委員長、新疆省政府主席
1936年(民国25年)8月、呉忠信は蒙蔵委員会委員長に就任し、内地に亡命してきていたパンチェン・ラマ9世をチベットに戻す事業に取り組んだ。翌1937年(民国26年)に9世は円寂したが、呉はその霊柩をチベットに帰還させている。また、考試院院長戴季陶に西康省へ祭祀のために赴くよう依頼した。
1940年(民国29年)2月、ダライ・ラマ14世の即位式がラサで挙行されると、呉は国民政府代表として即位式に参列した[1]。1941年(民国30年)9月、甘寧青区党政工作考察団団長に任命され、その翌年には新疆省の盛世才との交渉も行っている。同年12月には、中国辺政学会理事長となり、月刊雑誌『辺政公論』を創刊した。
1944年(民国33年)8月、盛世才の後任として、呉忠信は新疆省政府主席兼保安総司令に任命された(保安総司令は、第8戦区司令長官朱紹良が代理)。呉は、盛に逮捕されていたブルハン・シャヒディなど各民族、各界の人物を釈放し、宥和政策をとる。しかし、同年11月に三区革命により東トルキスタン共和国が建国されると、呉はその勢いを止めることができなかった。結局、ソ連と国民政府の交渉により、東トルキスタン共和国への対処は一時解決したが、1946年(民国35年)3月、呉は新疆省政府主席を辞任した。
その後も、呉忠信は総統府秘書長などをつとめる。蔣介石に従って台湾に逃れてからは、総統府資政、国民党中央評議委員、中央紀律委員会主任委員などを歴任した。
1959年(民国48年)12月16日、台北で病没。享年76(満75歳)。
注
- ^ なお中国側見解では、呉忠信はこの際に即位式を取り仕切ったとされるが(例として、沈荊唐「呉忠信」)、チベット側はこれを否定している(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所「ダライ・ラマ法王とチベット」 Archived 2013年7月6日, at the Wayback Machine.)。
参考文献
- 沈荊唐「呉忠信」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第10巻』中華書局、2000年。ISBN 7-101-02114-X。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- ダライ・ラマ法王日本代表部事務所「ダライ・ラマ法王とチベット」
中華民国(国民政府)
|
---|