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===察哈爾民衆抗日同盟軍===
===察哈爾民衆抗日同盟軍===
北伐終了後、軍縮に伴い、方振武は第45師師長に任じられる。[[1929年]](民国18年)3月に国民党中央執行委員に選出された。4月には、討逆軍第6路総指揮等に任じられ、5月には[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席も務めた。ところが、反介石派に対する方針をめぐって[[介石]]と次第に対立するようになる。同年9月に方は逮捕され、[[1930年]](民国19年)10月には、党籍剥奪1年の処罰を受けた。
北伐終了後、軍縮に伴い、方振武は第45師師長に任じられる。[[1929年]](民国18年)3月に国民党中央執行委員に選出された。4月には、討逆軍第6路総指揮等に任じられ、5月には[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席も務めた。ところが、反介石派に対する方針をめぐって[[介石]]と次第に対立するようになる。同年9月に方は逮捕され、[[1930年]](民国19年)10月には、党籍剥奪1年の処罰を受けた。


[[1931年]](民国20年)10月、処分が解除され、党中央執行委員として復帰したが、方振武は再び馮玉祥との連携を強めるようになる。[[1933年]](民国22年)1月、[[吉鴻昌]]らと[[察哈爾民衆抗日同盟軍]]に参加し、総司令兼北路前敵総指揮をつとめた。しかし、介石の圧力などもあって抗日同盟軍は解散に追い込まれ、方は[[香港]]へ逃れた。香港では、[[中華民族解放行動委員会]]に加わり、[[1938年]](民国27年)3月に中央委員に選出された。
[[1931年]](民国20年)10月、処分が解除され、党中央執行委員として復帰したが、方振武は再び馮玉祥との連携を強めるようになる。[[1933年]](民国22年)1月、[[吉鴻昌]]らと[[察哈爾民衆抗日同盟軍]]に参加し、総司令兼北路前敵総指揮をつとめた。しかし、介石の圧力などもあって抗日同盟軍は解散に追い込まれ、方は[[香港]]へ逃れた。香港では、[[中華民族解放行動委員会]]に加わり、[[1938年]](民国27年)3月に中央委員に選出された。


[[1941年]](民国30年)12月、日本軍による香港占領に伴い逃走したが、その途中の[[広東省 (中華民国)|広東省]][[中山県]]で何者かにより暗殺された。享年60。暗殺を実行したのは特務組織「{{仮リンク|忠義救国軍|zh|忠義救國軍}}」とされる<ref name=shouxian/>。
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2020年9月15日 (火) 14:05時点における版

方振武
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1882年光緒7年)
死去: 1941年民国30年)12月
中華民国の旗 中華民国広東省中山県
出身地: 清の旗 安徽省鳳陽府寿州
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 方振武
簡体字 方振武
拼音 Fāng Zhènwǔ
ラテン字 Fang Chen-wu
和名表記: ほう じんぶ
発音転記: ファン ジェンウー
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方 振武(ほう しんぶ)は、中華民国の軍人。孫文(孫中山)配下の革命派人士。後に国民軍国民革命軍国民政府)に属して北伐などに参加した。また、察哈爾民衆抗日同盟軍の幹部としても知られる。叔平

事跡

国民軍への参加

安徽武備練軍学堂を卒業し、安徽新軍に入隊する。徐錫麟の安慶起義に参加するも失敗され投獄される。同盟会支援者が獄卒を買収したためほどなくして出獄出来た[1]1911年宣統3年)の辛亥革命では、上海光復軍に参加した。

1912年民国元年)、南京臨時政府第1軍北伐前哨司令に任じられている。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)で輜重兵営長を務めるが[1]、敗北して日本に亡命し、東京府荏原郡入新井町の浩然廬(浩然学社)に入学した。1914年(民国3年)、中華革命党に加入する。帰国後、護法軍政府海軍陸戦隊大隊長。民国7年(1918年)より、孫文が発動した護法戦争に参加。1921年(民国10年)5月に北伐軍大隊長となるが[1]、陳炯明の反乱で北伐が挫折するといったん引退して上海に引きこもる。

1924年(民国13年)9月に北京政府奉天派側の盧永祥に投じ、浙江督軍署別働隊司令に任ぜられたが敗北して上海、天津を経て山東省に逃れ[1]、11月、張宗昌率いる直魯聯軍先遣第2梯隊司令官[2]。翌1925年(民国14年)秋、第24師に改編され師長兼兖州鎮守使に昇進する[2]。しかし、1926年(民国15年)1月、部隊を連れて直魯聯軍からの離脱を宣言し、馮玉祥率いる国民軍に転じ、第5軍軍長に任じられている[2]。同年9月の五原誓師とともに国民聯軍第2軍軍長等に任じられ、さらに中国国民党国民聯軍最高特別党部執行委員も兼任した。

1927年(民国16年)6月、国民革命軍第2集団軍第3方面軍総指揮兼河南省政府委員に任じられ、武漢国民政府に属して第9方面軍総指揮となる。以後、国民革命軍第11路総指揮、第1集団軍第4軍団総指揮、済南衛戍司令、左路軍総指揮などを歴任して、北伐に従軍した。

察哈爾民衆抗日同盟軍

北伐終了後、軍縮に伴い、方振武は第45師師長に任じられる。1929年(民国18年)3月に国民党中央執行委員に選出された。4月には、討逆軍第6路総指揮等に任じられ、5月には安徽省政府主席も務めた。ところが、反蔣介石派に対する方針をめぐって蔣介石と次第に対立するようになる。同年9月に方は逮捕され、1930年(民国19年)10月には、党籍剥奪1年の処罰を受けた。

1931年(民国20年)10月、処分が解除され、党中央執行委員として復帰したが、方振武は再び馮玉祥との連携を強めるようになる。1933年(民国22年)1月、吉鴻昌らと察哈爾民衆抗日同盟軍に参加し、総司令兼北路前敵総指揮をつとめた。しかし、蔣介石の圧力などもあって抗日同盟軍は解散に追い込まれ、方は香港へ逃れた。香港では、中華民族解放行動委員会に加わり、1938年(民国27年)3月に中央委員に選出された。

1941年(民国30年)12月、日本軍による香港占領に伴い逃走したが、その途中の広東省中山県で何者かにより暗殺された。享年60。暗殺を実行したのは特務組織「忠義救国軍中国語版」とされる[1]

  1. ^ a b c d e 时洪平 (2019年5月22日). “方振武抗日御侮” (中国語). 寿县新闻网. http://www.shouxianinfo.com/content/detail/5ce4a6d668b7507d323a4543.html 2020年6月13日閲覧。 
  2. ^ a b c 杨 2001, p. 462.

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 王新生ほか主編『中国軍閥史詞典』国防大学出版社、1992年。ISBN 7-5626-0244-1 
  • 杨保森『西北军人物志』中国文史出版社、2001年。ISBN 9787503453564https://books.google.co.jp/books?id=Kb-pDwAAQBAJ&pg=PT487 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
陳調元
安徽省政府主席
1929年5月 - 10月
呉醒亜が5月に一時代理)
次代
石友三