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孫文死後は、[[西山会議派]]に加入し、その中央執行委員に選出されている。[[1926年]](民国15年)5月、国民党中央青年部部長となった。翌年5月、浙江省省務委員会委員兼杭州市長に任じられた。[[1928年]](民国17年)4月、上海で『建国』雑誌を創刊し、11月、[[中華民国立法院]]立法委員に選出された。その後も各職を歴任し、[[1931年]](民国20年)3月、立法院副院長(一時、代理院長)となった。12月、副院長を辞任し、その後も国民党中央委員などを歴任している。 |
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== 参考文献 == |
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2020年9月15日 (火) 14:04時点における版
邵元沖 | |
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プロフィール | |
出生: | 1890年(清光緒16年) |
死去: |
1936年(民国25年)12月14日 中華民国陝西省西安市 |
出身地: | 清浙江省紹興府山陰県 |
各種表記 | |
繁体字: | 邵元沖 |
簡体字: | 邵元冲 |
拼音: | Shào Yuánchōng |
ラテン字: | Shao Yüan-ch'ung |
和名表記: | しょう げんちゅう |
発音転記: | シャオ ユエンチョン |
邵 元沖(しょう げんちゅう)は清末民初の政治家。初名は驥。字は翼如。中国同盟会以来の革命派の人士で、後に中国国民党の要人となる。
事跡
13歳で秀才となり、1906年(光緒32年)に杭州浙江高等学堂に入学、抜貢となった。翌年には法官(裁判官)として採用されて江蘇省鎮江地方審判庁庭長に就任した。この時期に中国同盟会に加入している。1911年(宣統3年)に訪日し孫文と対面している。
中華民国成立後に帰国し、上海で『民国新聞』の総編輯となった。1913年(民国2年)、第二革命が勃発し、邵元沖も参加したが、失敗に終わり日本へ亡命した。1914年(民国3年)、中華革命党に加入し、雑誌『民国』の編集に従事した。
1917年(民国6年)9月、広州大元帥府機要秘書となり、秘書長代行の職務を務めた。1919年(民国8年)冬、アメリカに留学し、ウィスコンシン大学、コロンビア大学で学んだ。1924年(民国13年)1月、中国国民党第1期候補中央委員に選ばれ、まもなく中央委員に選ばれた。その後、中央常務委員会委員、政治委員会委員、粤軍総司令秘書長、黄埔軍官学校政治教官(代理政治部主任)、法制委員会委員などを務めた。同年冬、孫文に随従して北京に向かい、行営機要主任秘書兼北京『民国日報』社社長となった。
孫文死後は、西山会議派に加入し、その中央執行委員に選出されている。1926年(民国15年)5月、国民党中央青年部部長となった。翌年5月、浙江省省務委員会委員兼杭州市長に任じられた。1928年(民国17年)4月、上海で『建国』雑誌を創刊し、11月、中華民国立法院立法委員に選出された。その後も各職を歴任し、1931年(民国20年)3月、立法院副院長(一時、代理院長)となった。12月、副院長を辞任し、その後も国民党中央委員などを歴任している。
1936年(民国25年)12月、西安を訪問していた蔣介石の電文に応じて、邵元沖も西安に赴いた。しかし同月12日、西安事変に巻き込まれて邵は張学良・楊虎城の部下の発砲を受け負傷、14日に死亡した。享年47。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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