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[[1905年]](光緒31年)冬、日本へ留学し、[[弘文学院]]に入学した。この時に、[[孫文]](孫中山)の[[三民主義]]思想に傾倒し、趙戴文も[[中国同盟会]]に加入している。また、この時に閻錫山と知り合い、閻の一時帰郷に同行して帰国した。その後、閻が革命派による蜂起を企図すると、趙はこれに参画している。
[[1905年]](光緒31年)冬、日本へ留学し、[[弘文学院]]に入学した。この時に、[[孫文]](孫中山)の[[三民主義]]思想に傾倒し、趙戴文も[[中国同盟会]]に加入している。また、この時に閻錫山と知り合い、閻の一時帰郷に同行して帰国した。その後、閻が革命派による蜂起を企図すると、趙はこれに参画している。


[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)3月、閻錫山が[[袁世凱]]から[[山西省 (中華民国)|山西]]都督に任命されると、趙戴文は山西都督府秘書長に任命された。趙は、閻による山西統治に内政面で貢献した。特に地方組織や教育に取組み、閻の新政推進を支えた。[[1926年]](民国15年)、閻の指示を受けて趙は[[江西省]]に向かい、[[介石]]との交渉役を務めている。[[1928年]](民国17年)2月、閻が[[国民革命軍]]第3集団軍総司令に就任すると、趙は同軍の総参議兼政治訓練部主任に就任した。同年6月、閻の軍が[[北京市|北京]]・[[天津市|天津]]方面へ進軍すると、趙は[[察哈爾省|察哈爾]]都統に任命されている。
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)3月、閻錫山が[[袁世凱]]から[[山西省 (中華民国)|山西]]都督に任命されると、趙戴文は山西都督府秘書長に任命された。趙は、閻による山西統治に内政面で貢献した。特に地方組織や教育に取組み、閻の新政推進を支えた。[[1926年]](民国15年)、閻の指示を受けて趙は[[江西省]]に向かい、[[介石]]との交渉役を務めている。[[1928年]](民国17年)2月、閻が[[国民革命軍]]第3集団軍総司令に就任すると、趙は同軍の総参議兼政治訓練部主任に就任した。同年6月、閻の軍が[[北京市|北京]]・[[天津市|天津]]方面へ進軍すると、趙は[[察哈爾省|察哈爾]]都統に任命されている。


=== 国民政府時代の活躍 ===
=== 国民政府時代の活躍 ===
[[File:Zhao Daiwen.jpg|thumb|left|趙戴文別影(『最新支那要人伝』1941年)|180px]]
[[File:Zhao Daiwen.jpg|thumb|left|趙戴文別影(『最新支那要人伝』1941年)|180px]]
その後、趙戴文は閻錫山の推薦により[[南京市|南京]]へ派遣された。[[国民政府]]中央で蒙蔵委員会副委員長、内政部次長(部長代理)、[[監察院|監察院長]]を歴任している。介石と閻が対立した際には、趙がその調停役を務め、衝突を回避しようと図った。しかし、最終的に[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]に至り、閻は敗北した。
その後、趙戴文は閻錫山の推薦により[[南京市|南京]]へ派遣された。[[国民政府]]中央で蒙蔵委員会副委員長、内政部次長(部長代理)、[[監察院|監察院長]]を歴任している。介石と閻が対立した際には、趙がその調停役を務め、衝突を回避しようと図った。しかし、最終的に[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]に至り、閻は敗北した。


閻錫山が[[1932年]](民国21年)2月に太原綏靖公署主任として復帰すると、趙戴文も山西に戻り、公署総参議に任命された。そして、閻のために山西省政10年計画を立案し、地方建設を推進している。[[1935年]](民国24年)に閻が反共組織である「主張公道団」を結成し、その総団長となると、趙が副総団長をつとめた。[[1936年]](民国25年)5月、趙は山西省政府主席に任命されている(ただし、省政の事実上のトップは依然として閻であった)。さらに閻が組織した「山西自強救国同志会」で副会長をつとめた。
閻錫山が[[1932年]](民国21年)2月に太原綏靖公署主任として復帰すると、趙戴文も山西に戻り、公署総参議に任命された。そして、閻のために山西省政10年計画を立案し、地方建設を推進している。[[1935年]](民国24年)に閻が反共組織である「主張公道団」を結成し、その総団長となると、趙が副総団長をつとめた。[[1936年]](民国25年)5月、趙は山西省政府主席に任命されている(ただし、省政の事実上のトップは依然として閻であった)。さらに閻が組織した「山西自強救国同志会」で副会長をつとめた。

2020年9月15日 (火) 14:01時点における版

趙戴文
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1867年11月28日
同治6年11月初3日)
死去: 1943年民国32年)12月17日
中華民国の旗 中華民国山西省吉県
出身地: 清の旗 山西省代州五台県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 趙戴文
簡体字 赵戴文
拼音 Zhào Dàiwén
ラテン字 Chao Tai-wen
注音二式 Jào Dàiwén
和名表記: ちょう たいぶん
発音転記: ジャオ ダイウェン
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趙 戴文(ちょう たいぶん)は、清末民初の政治家。民国期に山西省を統治した閻錫山の腹心である。次隴

事跡

閻錫山の腹心へ

貧しい家庭に生まれたが、学問において次第に名を成し、1893年光緒19年)には科試(郷試の予備試験)で列一等第一を得た。その後、山西大学堂などで教鞭をとる。

1905年(光緒31年)冬、日本へ留学し、弘文学院に入学した。この時に、孫文(孫中山)の三民主義思想に傾倒し、趙戴文も中国同盟会に加入している。また、この時に閻錫山と知り合い、閻の一時帰郷に同行して帰国した。その後、閻が革命派による蜂起を企図すると、趙はこれに参画している。

1912年民国元年)3月、閻錫山が袁世凱から山西都督に任命されると、趙戴文は山西都督府秘書長に任命された。趙は、閻による山西統治に内政面で貢献した。特に地方組織や教育に取組み、閻の新政推進を支えた。1926年(民国15年)、閻の指示を受けて趙は江西省に向かい、蔣介石との交渉役を務めている。1928年(民国17年)2月、閻が国民革命軍第3集団軍総司令に就任すると、趙は同軍の総参議兼政治訓練部主任に就任した。同年6月、閻の軍が北京天津方面へ進軍すると、趙は察哈爾都統に任命されている。

国民政府時代の活躍

趙戴文別影(『最新支那要人伝』1941年)

その後、趙戴文は閻錫山の推薦により南京へ派遣された。国民政府中央で蒙蔵委員会副委員長、内政部次長(部長代理)、監察院長を歴任している。蔣介石と閻が対立した際には、趙がその調停役を務め、衝突を回避しようと図った。しかし、最終的に1930年(民国19年)の中原大戦に至り、閻は敗北した。

閻錫山が1932年(民国21年)2月に太原綏靖公署主任として復帰すると、趙戴文も山西に戻り、公署総参議に任命された。そして、閻のために山西省政10年計画を立案し、地方建設を推進している。1935年(民国24年)に閻が反共組織である「主張公道団」を結成し、その総団長となると、趙が副総団長をつとめた。1936年(民国25年)5月、趙は山西省政府主席に任命されている(ただし、省政の事実上のトップは依然として閻であった)。さらに閻が組織した「山西自強救国同志会」で副会長をつとめた。

1937年(民国26年)、日中戦争が勃発し、閻錫山が第2戦区司令長官に任命されると、趙戴文は第2戦区長官部政治部主任となり、抗戦意識の昂揚につとめた。1939年(民国28年)には、中国国民党山西省党部主任委員となる。しかし、この頃にはすでに高齢と病のため、趙は政務、党務を他の者に委ねている。

1943年(民国32年)12月17日、趙戴文は、山西省吉県で病没した。享年77(満76歳)。

参考文献

  • 陳宝珠「趙戴文」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第11巻』中華書局、2002年。ISBN 7-101-02394-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
高維嶽
察哈爾都統
1928年6月 - 11月
次代
(廃止)
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
察哈爾省政府主席
1928年10月 - 11月
次代
楊愛源
先代
蔡元培
監察院長
1929年8月 - 1930年11月
次代
于右任
先代
徐永昌
山西省政府主席
1936年5月 - 1943年12月
1938年3月より閻錫山代理)
次代
閻錫山