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=== 国民政府での活動 ===
=== 国民政府での活動 ===
[[File:Chen Diaoyuan.jpg|thumb|left|陳調元別影(『最新支那要人伝』1941年)|180px]]
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国民党が優位な政治状況であると判断した陳調元は、[[1927年]](民国16年)3月5日、国民党側への帰服を宣言した。そして、[[国民革命軍]]第37軍軍長兼北路総指揮に任命されている。同年4月12日の[[上海クーデター]]でも、[[介石]]に協力して、安慶の共産党員を粛清している。11月、陳は[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席に任命された。さらに[[1928年]](民国17年)4月には、第1集団軍第2軍団総指揮として、北伐の最終段階に参戦して軍功をあげている。その後、国民革命軍全体の軍縮に伴い、陳は第46師師長に異動した。
国民党が優位な政治状況であると判断した陳調元は、[[1927年]](民国16年)3月5日、国民党側への帰服を宣言した。そして、[[国民革命軍]]第37軍軍長兼北路総指揮に任命されている。同年4月12日の[[上海クーデター]]でも、[[介石]]に協力して、安慶の共産党員を粛清している。11月、陳は[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席に任命された。さらに[[1928年]](民国17年)4月には、第1集団軍第2軍団総指揮として、北伐の最終段階に参戦して軍功をあげている。その後、国民革命軍全体の軍縮に伴い、陳は第46師師長に異動した。


[[1929年]](民国18年)5月、[[山東省 (中華民国)|山東省]]政府主席に任命される。反介石派との戦いでは、総予備隊軍団総指揮、右翼軍総指揮などとして勇戦し、の勝利に貢献した。その後も安徽省で共産党掃討作戦に従事したが、軍費調達のために苛酷な統治を行ったため、省内各界人士が[[南京市|南京]]に直接訴願に赴くという事態を招いてしまった。この結果、[[1932年]](民国21年)4月に<ref>侯鴻緒「陳調元」は、民国20年(1931年)5月に陳調元が更迭され、[[劉鎮華]]が後任になった、としている。しかし『民国職官年表』は、[[呉忠信]]が1932年4月に陳の後任となり、呉の後任として劉が1933年5月に就任した、としている。少なくとも、陳の後任は呉である方が正しいため、ここでは『民国職官年表』に従う。</ref>、陳は事実上更迭され、国民政府委員に左遷されている。[[1934年]](民国23年)1月、&#x8D1B;粤&#x95A9;湘鄂剿匪予備軍総司令に任命された。同年12月、軍事参議院院長に異動している。
[[1929年]](民国18年)5月、[[山東省 (中華民国)|山東省]]政府主席に任命される。反介石派との戦いでは、総予備隊軍団総指揮、右翼軍総指揮などとして勇戦し、の勝利に貢献した。その後も安徽省で共産党掃討作戦に従事したが、軍費調達のために苛酷な統治を行ったため、省内各界人士が[[南京市|南京]]に直接訴願に赴くという事態を招いてしまった。この結果、[[1932年]](民国21年)4月に<ref>侯鴻緒「陳調元」は、民国20年(1931年)5月に陳調元が更迭され、[[劉鎮華]]が後任になった、としている。しかし『民国職官年表』は、[[呉忠信]]が1932年4月に陳の後任となり、呉の後任として劉が1933年5月に就任した、としている。少なくとも、陳の後任は呉である方が正しいため、ここでは『民国職官年表』に従う。</ref>、陳は事実上更迭され、国民政府委員に左遷されている。[[1934年]](民国23年)1月、&#x8D1B;粤&#x95A9;湘鄂剿匪予備軍総司令に任命された。同年12月、軍事参議院院長に異動している。


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[[1936年]](民国25年)、陳調元は、介石に随従して[[西安市|西安]]を訪問した。しかし、その際に[[西安事変]]が発生し、[[張学良]]によりや他の随員たちと共に一時拘禁されてしまった。事件後、陳は病に罹患し、軍事参議院院長の地位にこそ留まったものの職務にはとりかかれず、政界・軍界から事実上引退した。


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[[1943年]](民国32年)12月18日、[[重慶市|重慶]]市[[北碚区|北碚]]で病没。享年58(満57歳)。
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2020年9月15日 (火) 13:59時点における版

陳調元
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1886年11月12日
光緒12年10月17日)
死去: 1943年民国32年)12月18日
中華民国の旗 中華民国重慶市
出身地: 清の旗 直隷省保定府安新県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 陳調元
簡体字 陈调元
拼音 Chén Diàoyuán
ラテン字 Ch'en Tiao-yüan
和名表記: ちん ちょうげん
発音転記: チェン ディアオユエン
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陳 調元(ちん ちょうげん)は中華民国の軍人・政治家。北京政府直隷派に属し、後に国民政府国民革命軍)に転じた。雪暄雪軒

事跡

直隷派での活動

1904年(光緒30年)、北洋速成武備学堂に入学する。卒業後に武昌で陸軍第三中学堂教習に任命された。1909年宣統元年)、保定陸軍通国速成学堂において地理教官をつとめた。

中華民国成立後の1913年民国2年)、陳調元は馮国璋の下で軍官として任命された。後に、張宗昌を登用するよう馮に進言し、張とは無二の親友となっている。1916年(民国5年)、第74混成旅旅長に任命され、徐州に駐屯した。

1920年(民国9年)9月、直隷派の江蘇督軍李純から徐海鎮守使に任命され、安徽派の軍と戦った。翌10月に李純が自殺し、斉燮元がこれを後継する。斉と北洋武備学堂時代の同学だった陳はこれを頼り、蘇魯豫皖四省剿匪総司令に任命された。

1925年(民国14年)、奉天派に転じていた張宗昌が徐州に進軍してくると、陳調元は5月に張に降伏し、第6師師長に任命された。しかし、江蘇督軍として南下してきた奉天派の楊宇霆から冷遇されてしまう。これを怨みに思った陳は、同年9月、直隷派の孫伝芳に寝返り、奉天派の臧式毅を捕虜にしている。陳は、孫から第8軍軍長・皖軍総司令に任命され、旧安徽派の軍を吸収した。

1926年(民国15年)4月、中国国民党北伐軍が江西省方面へ進軍してくると、孫伝芳は陳調元を第5方面軍総指揮に任命し、これを迎撃させた。しかし、孫らの軍は江西で大敗したため、陳は張宗昌を頼り安慶に駐屯した。

国民政府での活動

陳調元別影(『最新支那要人伝』1941年)

国民党が優位な政治状況であると判断した陳調元は、1927年(民国16年)3月5日、国民党側への帰服を宣言した。そして、国民革命軍第37軍軍長兼北路総指揮に任命されている。同年4月12日の上海クーデターでも、蔣介石に協力して、安慶の共産党員を粛清している。11月、陳は安徽省政府主席に任命された。さらに1928年(民国17年)4月には、第1集団軍第2軍団総指揮として、北伐の最終段階に参戦して軍功をあげている。その後、国民革命軍全体の軍縮に伴い、陳は第46師師長に異動した。

1929年(民国18年)5月、山東省政府主席に任命される。反蔣介石派との戦いでは、総予備隊軍団総指揮、右翼軍総指揮などとして勇戦し、蔣の勝利に貢献した。その後も安徽省で共産党掃討作戦に従事したが、軍費調達のために苛酷な統治を行ったため、省内各界人士が南京に直接訴願に赴くという事態を招いてしまった。この結果、1932年(民国21年)4月に[1]、陳は事実上更迭され、国民政府委員に左遷されている。1934年(民国23年)1月、贛粤閩湘鄂剿匪予備軍総司令に任命された。同年12月、軍事参議院院長に異動している。

1936年(民国25年)、陳調元は、蔣介石に随従して西安を訪問した。しかし、その際に西安事変が発生し、張学良により蔣や他の随員たちと共に一時拘禁されてしまった。事件後、陳は病に罹患し、軍事参議院院長の地位にこそ留まったものの職務にはとりかかれず、政界・軍界から事実上引退した。

1943年(民国32年)12月18日、重慶北碚で病没。享年58(満57歳)。

脚注

  1. ^ 侯鴻緒「陳調元」は、民国20年(1931年)5月に陳調元が更迭され、劉鎮華が後任になった、としている。しかし『民国職官年表』は、呉忠信が1932年4月に陳の後任となり、呉の後任として劉が1933年5月に就任した、としている。少なくとも、陳の後任は呉である方が正しいため、ここでは『民国職官年表』に従う。

参考文献

  • 侯鴻緒「陳調元」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第10巻』中華書局、2000年。ISBN 7-101-02114-X 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
鄧如琢(安徽督弁)
皖軍総司令
1926年3月 - 1927年3月
(総司令就任は1925年12月)
次代
(廃止)
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
安徽省政務委員会主席
1927年3月 - 7月
蔣作賓代理)
次代
(安徽省政府に改組)
先代
(創設)
安徽省政府主席
1927年10月 - 1929年5月
(1927年7月から10月まで
集団指導制)
次代
方振武
先代
孫良誠
山東省政府主席
1929年5月 - 1930年9月
次代
韓復榘
先代
馬福祥
安徽省政府主席
1930年9月 - 1932年4月
次代
呉忠信
先代
張翼鵬
軍事参議院院長
1934年12月 - 1943年12月
次代
李済深