コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「葉挺」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
29行目: 29行目:
[[1927年]](民国16年)に武漢[[国民政府]]が成立してからは、第4軍第24師師長、第11軍副軍長、武漢衛戍司令などを歴任した。しかし同年8月1日、[[南昌起義]]を主導して、共産党として蜂起し、国民革命軍から離脱した。12月、共産党の[[広州起義]]にも参加したが、失敗に終わり、欧州へ逃れた。これにより、葉挺と共産党との関係は、しばらく途切れてしまう。
[[1927年]](民国16年)に武漢[[国民政府]]が成立してからは、第4軍第24師師長、第11軍副軍長、武漢衛戍司令などを歴任した。しかし同年8月1日、[[南昌起義]]を主導して、共産党として蜂起し、国民革命軍から離脱した。12月、共産党の[[広州起義]]にも参加したが、失敗に終わり、欧州へ逃れた。これにより、葉挺と共産党との関係は、しばらく途切れてしまう。


[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]]が全面勃発すると、葉挺は帰国し、抗戦に参加した。同年10月、葉挺は新編第4軍(いわゆる[[新四軍]])軍長に任命され、華中で転戦する。しかし、新四軍は紅軍主体の軍勢であったため、[[介石]]から猜疑を受けるようになってしまう。そして[[1941年]](民国29年)1月14日、[[安徽省]]南部で、新四軍は国民党の大軍に包囲攻撃されてほぼ殲滅される。葉挺は捕虜となり、副軍長[[項英]]は戦死した([[皖南事変]])。
[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]]が全面勃発すると、葉挺は帰国し、抗戦に参加した。同年10月、葉挺は新編第4軍(いわゆる[[新四軍]])軍長に任命され、華中で転戦する。しかし、新四軍は紅軍主体の軍勢であったため、[[介石]]から猜疑を受けるようになってしまう。そして[[1941年]](民国29年)1月14日、[[安徽省]]南部で、新四軍は国民党の大軍に包囲攻撃されてほぼ殲滅される。葉挺は捕虜となり、副軍長[[項英]]は戦死した([[皖南事変]])。


以後、葉挺は各地で拘禁され続け、[[1946年]](民国35年)3月4日に、[[重慶市|重慶]]でようやく釈放された。その3日後に葉挺は共産党に再入党している。しかし同年4月8日、葉挺は、[[王若飛]]、[[博古]]、[[トウ発|鄧発]]らとともに空路で[[延安市|延安]]に戻る途中、乗っていた飛行機が[[山西省 (中華民国)|山西省]][[興県]]黒茶山附近で墜落して死亡した。享年51(満49歳)。
以後、葉挺は各地で拘禁され続け、[[1946年]](民国35年)3月4日に、[[重慶市|重慶]]でようやく釈放された。その3日後に葉挺は共産党に再入党している。しかし同年4月8日、葉挺は、[[王若飛]]、[[博古]]、[[トウ発|鄧発]]らとともに空路で[[延安市|延安]]に戻る途中、乗っていた飛行機が[[山西省 (中華民国)|山西省]][[興県]]黒茶山附近で墜落して死亡した。享年51(満49歳)。

2020年9月15日 (火) 13:59時点における版

葉挺
新四軍軍長時代の葉挺
プロフィール
出生: 1896年9月10日
光緒22年8月初4日)
死去: 1946年民国35年)4月8日
中華民国の旗 中華民国山西省興県黒茶山附近
出身地: 清の旗 広東省恵州府帰善県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 葉挺
簡体字 叶挺
拼音 Yè Tǐng
ラテン字 Yeh T'ing
和名表記: よう てい
発音転記: イェー・ティン
テンプレートを表示

葉 挺(よう てい、イェー・ティン、1896年9月10日 - 1946年4月8日)は、中華民国の軍人。南方政府、国民政府国民革命軍)の軍人で、粤軍(広東軍)出身。はじめは中国国民党、後に中国共産党に属した。南昌起義の主導者、新四軍軍長として著名である。原名は希夷

事跡

初めは恵陽県中等蚕業学校(養蚕業の専門学校)で学んでいた。しかし、転じて広州陸軍小学に入学した。

1914年民国3年)12月、湖北陸軍第二予備学校に入学する。1916年(民国5年)より保定陸軍軍官学校工兵科で学んだ。民国7年(1918年)、南方へ向かって粤軍(広東軍)に加入する。1919年(民国8年)、中国国民党に入党した。以後、順調に昇進し、1923年(民国12年)3月、憲兵司令部参謀長兼第1営営長に就任した。

1924年(民国13年)秋にソ連を訪れる。東方大学に入学し、あわせて中国共産党に入党した。1925年(民国14年)秋に帰国し、国民革命軍第4軍参謀処長に就任した。その後、第4軍第12師第34団団長に就任する。さらに同団は独立団に改組され、引き続き団長を務めた。1926年(民国15年)5月、葉挺の独立団は北伐先遣隊の任務を受け、同年8月の湖北省での呉佩孚軍との戦いで軍功をあげた。これにより、第4軍が「鉄軍」と呼ばれる栄誉を受ける上で貢献した。

1927年(民国16年)に武漢国民政府が成立してからは、第4軍第24師師長、第11軍副軍長、武漢衛戍司令などを歴任した。しかし同年8月1日、南昌起義を主導して、共産党として蜂起し、国民革命軍から離脱した。12月、共産党の広州起義にも参加したが、失敗に終わり、欧州へ逃れた。これにより、葉挺と共産党との関係は、しばらく途切れてしまう。

1937年(民国26年)、日中戦争が全面勃発すると、葉挺は帰国し、抗戦に参加した。同年10月、葉挺は新編第4軍(いわゆる新四軍)軍長に任命され、華中で転戦する。しかし、新四軍は紅軍主体の軍勢であったため、蔣介石から猜疑を受けるようになってしまう。そして1941年(民国29年)1月14日、安徽省南部で、新四軍は国民党の大軍に包囲攻撃されてほぼ殲滅される。葉挺は捕虜となり、副軍長項英は戦死した(皖南事変)。

以後、葉挺は各地で拘禁され続け、1946年(民国35年)3月4日に、重慶でようやく釈放された。その3日後に葉挺は共産党に再入党している。しかし同年4月8日、葉挺は、王若飛博古鄧発らとともに空路で延安に戻る途中、乗っていた飛行機が山西省興県黒茶山附近で墜落して死亡した。享年51(満49歳)。

顕彰

中国人民解放軍陸軍第379連隊は、葉挺が指揮した独立団をルーツとし、栄誉称号「葉挺独立団」を有する。同連隊の所属する第127師団は、「鉄軍」の称号を継承している。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1