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その後、許崇智は日本へ亡命する。[[1914年]](民国3年)7月、東京で孫文が[[中華革命党]]を組織すると、許はこれに参加して軍務部長となった。それからしばらくは、孫文の命により、南洋で「革命公債」を発行するなどして中華革命党の資金獲得に奔走した。 |
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[[1915年]](民国4年)12月に帰国して、福建で護国戦争([[第三革命]])に呼応する反袁世凱の蜂起を行う。さらに[[山東省 (中華民国)|山東省]]へ移って、中華革命軍東北軍参謀長兼前敵総指揮となり、[[青島市|青島]]に総司令部を設置した。翌民国5年([[1916年]])5月、東北軍総司令代理となっている。同年6月に袁が死去すると、許は上海に戻り、引き続き中華革命党軍務部長として孫文を補佐した。なおこの頃に、[[ |
[[1915年]](民国4年)12月に帰国して、福建で護国戦争([[第三革命]])に呼応する反袁世凱の蜂起を行う。さらに[[山東省 (中華民国)|山東省]]へ移って、中華革命軍東北軍参謀長兼前敵総指揮となり、[[青島市|青島]]に総司令部を設置した。翌民国5年([[1916年]])5月、東北軍総司令代理となっている。同年6月に袁が死去すると、許は上海に戻り、引き続き中華革命党軍務部長として孫文を補佐した。なおこの頃に、[[蔣介石]]と義兄弟の契りを結んだとされる。 |
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[[1917年]](民国6年)9月に、[[護法戦争]]を発動した孫文が[[広州市|広州]]で護法軍政府を樹立すると、許崇智は大元帥府参軍長兼署陸軍総長に任命された。同年12月、援閩粤軍(総司令:[[陳炯明]])が組織されると、許崇智は第2支隊司令に任命された。翌年5月、北京政府支配下の福建省に向けて援閩粤軍は進軍し、許は第2軍軍長に昇進して汀州に駐屯した。[[1920年]](民国9年)8月、陳・許の軍は、孫文と対立する[[陸栄廷]]らの駐粤桂軍([[広西省|広西]]軍)を駆逐し、桂軍の後ろ盾を得ていた軍政府主席総裁[[岑春煊]]を失脚させた。さらに[[1921年]](民国10年)には広西省へ退却した陸を追撃し、これも撃破した。 |
[[1917年]](民国6年)9月に、[[護法戦争]]を発動した孫文が[[広州市|広州]]で護法軍政府を樹立すると、許崇智は大元帥府参軍長兼署陸軍総長に任命された。同年12月、援閩粤軍(総司令:[[陳炯明]])が組織されると、許崇智は第2支隊司令に任命された。翌年5月、北京政府支配下の福建省に向けて援閩粤軍は進軍し、許は第2軍軍長に昇進して汀州に駐屯した。[[1920年]](民国9年)8月、陳・許の軍は、孫文と対立する[[陸栄廷]]らの駐粤桂軍([[広西省|広西]]軍)を駆逐し、桂軍の後ろ盾を得ていた軍政府主席総裁[[岑春煊]]を失脚させた。さらに[[1921年]](民国10年)には広西省へ退却した陸を追撃し、これも撃破した。 |
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=== 中国国民党での台頭と失脚 === |
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[[1924年]](民国13年)1月、許崇智は国民党の第1回全国代表大会に出席し、中央監察委員・中央執行委員会軍事部長に選出された。その後、許の軍は建国粤軍に再編され、許は同軍総司令兼第2軍軍長に、 |
[[1924年]](民国13年)1月、許崇智は国民党の第1回全国代表大会に出席し、中央監察委員・中央執行委員会軍事部長に選出された。その後、許の軍は建国粤軍に再編され、許は同軍総司令兼第2軍軍長に、蔣介石は第2軍参謀長にそれぞれ任命された。[[1925年]](民国14年)1月、許率いる粤軍と蔣率いる[[黄埔軍官学校]]学生軍は、東江の陳炯明を攻撃し、3月までに陳の勢力を完全に掃討した。孫文死後の6月、広西軍の[[劉震寰]]・雲南軍の[[楊希閔]]が反乱すると、許と蔣はこれをも殲滅している。 |
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同年7月1日、広州で[[国民政府]]が成立すると、許崇智は国民政府常務委員兼軍事部長に就任し、さらに広東省政府主席、同軍事庁長までも兼ねた。8月20日に[[廖仲愷]]が暗殺されると、[[汪兆銘]](汪精衛)・許崇智・ |
同年7月1日、広州で[[国民政府]]が成立すると、許崇智は国民政府常務委員兼軍事部長に就任し、さらに広東省政府主席、同軍事庁長までも兼ねた。8月20日に[[廖仲愷]]が暗殺されると、[[汪兆銘]](汪精衛)・許崇智・蔣介石の3人で構成される特別委員会が組織され、これが政治・軍事の全権を握った。しかし9月になると、蔣は汪の支持を取り付けた上で、電撃的に許の側近を逮捕し、その配下の軍を武装解除してしまう。こうして、許は国民党内での指導的地位を喪失したのである。 |
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これ以後の許崇智は、国民党長老としての声望や地位は有したものの、もはや国内の政治・軍事に重大な影響を与える存在ではなかった。[[国共内戦]]の後に[[香港]]へ移り、「第三路線」を標榜する活動を続けた。 |
これ以後の許崇智は、国民党長老としての声望や地位は有したものの、もはや国内の政治・軍事に重大な影響を与える存在ではなかった。[[国共内戦]]の後に[[香港]]へ移り、「第三路線」を標榜する活動を続けた。 |
2020年9月15日 (火) 13:55時点における版
許崇智 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1887年10月26日 (清光緒13年9月初10日) |
死去: |
1965年1月25日 イギリス領香港 |
出身地: | 清広東省広州府番禺県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 許崇智 |
簡体字: | 许崇智 |
拼音: | Xǔ Chóngzhì |
ラテン字: | Hsü Ch'ung-chih |
和名表記: | きょ すうち |
発音転記: | シュー チョンジー |
許 崇智(きょ すうち)は清末民初の軍人・政治家。主に初期の中国国民党における有力な軍指揮官であった。字は汝為。祖父と父は福建省で通判をつとめ、一族の許応騤は、清末の閩浙総督である。親族には、堂兄(父方の従兄)で軍人・政治家の許崇灝、堂弟(父方の従弟)で国立中山大学校長などをつとめた教育者の許崇清などがいる。
事跡
清末から二次革命までの事跡
1899年(光緒25年)、許崇智は許応騤の紹介により、福建馬尾船政学堂に入学した。その後、許応騤の援助により日本に留学し、成城学校陸軍科で学ぶ。1902年(光緒28年)に陸軍士官学校の第3期歩兵科に入学した。卒業、帰国した頃に許応騤は死去したが、許崇智は福建武備学堂総弁の孫道仁に目をかけられ、同学堂の教習に任命される。まもなく総教習に昇進した。さらに、許崇智は第10鎮第40標統帯に任命され、まもなく同鎮第20協統領に昇進した。
1911年(宣統3年)、福建の中国同盟会支部に許崇智は加入した。同年10月に武昌起義が発生すると、福州でも革命派が11月8日に決起した。この時、許は蜂起軍の前敵総司令となり、2日の戦闘の末に福州を掌握した。福建軍政府が11月11日に成立すると、孫道仁が都督となり、許は福建海陸軍総司令に任命された。その後まもなく、許は福建第1師師長となっている。
1912年(民国元年)1月に中華民国臨時政府が成立すると、福建第1師は民国陸軍第14師に改編され、許崇智がそのまま師長をつとめた。しかし、袁世凱が臨時大総統となると、許を篭絡しようと北京へ召還している。その後、許は日本を一時訪問し、帰国後に上海で孫文と対面する。その際に宋教仁が暗殺されたと知ると、許は怒って袁打倒を目論み福州へ戻った。
1913年(民国2年)7月、二次革命(第二革命)が勃発すると、袁世凱は許崇智に革命派を攻撃させようとしたが、許はこれを拒む。そして許は革命派に呼応し、都督の孫道仁に福建独立を宣言させた。しかし革命派は敗北し、許もまた8月に上海へ逃走して、率いていた陸軍第14師は袁により解散させられてしまった。
護法戦争での活動
その後、許崇智は日本へ亡命する。1914年(民国3年)7月、東京で孫文が中華革命党を組織すると、許はこれに参加して軍務部長となった。それからしばらくは、孫文の命により、南洋で「革命公債」を発行するなどして中華革命党の資金獲得に奔走した。
1915年(民国4年)12月に帰国して、福建で護国戦争(第三革命)に呼応する反袁世凱の蜂起を行う。さらに山東省へ移って、中華革命軍東北軍参謀長兼前敵総指揮となり、青島に総司令部を設置した。翌民国5年(1916年)5月、東北軍総司令代理となっている。同年6月に袁が死去すると、許は上海に戻り、引き続き中華革命党軍務部長として孫文を補佐した。なおこの頃に、蔣介石と義兄弟の契りを結んだとされる。
1917年(民国6年)9月に、護法戦争を発動した孫文が広州で護法軍政府を樹立すると、許崇智は大元帥府参軍長兼署陸軍総長に任命された。同年12月、援閩粤軍(総司令:陳炯明)が組織されると、許崇智は第2支隊司令に任命された。翌年5月、北京政府支配下の福建省に向けて援閩粤軍は進軍し、許は第2軍軍長に昇進して汀州に駐屯した。1920年(民国9年)8月、陳・許の軍は、孫文と対立する陸栄廷らの駐粤桂軍(広西軍)を駆逐し、桂軍の後ろ盾を得ていた軍政府主席総裁岑春煊を失脚させた。さらに1921年(民国10年)には広西省へ退却した陸を追撃し、これも撃破した。
1922年(民国11年)6月、陳炯明が孫文と決裂してこれを攻撃すると、許崇智は陳に反撃した。しかし、一部配下の軍が離反したため、敗北して江西省に逃走した。9月初めには態勢を立て直し、許は福建省へ進攻して北京政府側の督軍李厚基を撃破し、省を手中にした。これにより、孫文から東路軍総司令に任命されている。1923年(民国12年)春、許は広東省の陳を攻撃したが、逆撃に遭い、大敗した。
中国国民党での台頭と失脚
1924年(民国13年)1月、許崇智は国民党の第1回全国代表大会に出席し、中央監察委員・中央執行委員会軍事部長に選出された。その後、許の軍は建国粤軍に再編され、許は同軍総司令兼第2軍軍長に、蔣介石は第2軍参謀長にそれぞれ任命された。1925年(民国14年)1月、許率いる粤軍と蔣率いる黄埔軍官学校学生軍は、東江の陳炯明を攻撃し、3月までに陳の勢力を完全に掃討した。孫文死後の6月、広西軍の劉震寰・雲南軍の楊希閔が反乱すると、許と蔣はこれをも殲滅している。
同年7月1日、広州で国民政府が成立すると、許崇智は国民政府常務委員兼軍事部長に就任し、さらに広東省政府主席、同軍事庁長までも兼ねた。8月20日に廖仲愷が暗殺されると、汪兆銘(汪精衛)・許崇智・蔣介石の3人で構成される特別委員会が組織され、これが政治・軍事の全権を握った。しかし9月になると、蔣は汪の支持を取り付けた上で、電撃的に許の側近を逮捕し、その配下の軍を武装解除してしまう。こうして、許は国民党内での指導的地位を喪失したのである。
これ以後の許崇智は、国民党長老としての声望や地位は有したものの、もはや国内の政治・軍事に重大な影響を与える存在ではなかった。国共内戦の後に香港へ移り、「第三路線」を標榜する活動を続けた。
1965年1月25日、心臓病により死去。享年79(満77歳)。
参考文献
- 厳如平「許崇智」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01328-7。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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