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国民党軍は焦土作戦のため長沙市の破壊を準備していた<ref name=d52 />。また事件の際には[[中国共産党]]の領袖・周恩来が[[葉剣英]]、[[郭沫若]]<ref name=GUO>郭沫若著、岡崎俊夫訳『抗日戦回想録』ISBN 4122038804</ref>らとともに長沙に滞在していた。 |
国民党軍は焦土作戦のため長沙市の破壊を準備していた<ref name=d52 />。また事件の際には[[中国共産党]]の領袖・周恩来が[[葉剣英]]、[[郭沫若]]<ref name=GUO>郭沫若著、岡崎俊夫訳『抗日戦回想録』ISBN 4122038804</ref>らとともに長沙に滞在していた。 |
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[[蔣介石]]は、日本軍が[[漢口]]・[[広東]]鉄道沿線の戦略的拠点である[[岳州]]を短期間で攻略したことから、慌てて焦土作戦を指示し、[[張治中]]が実行したと伝えられている<ref name=KCHJ>『近代中国百年史辞典』浙江人民出版社、1987年、147頁</ref>。また、張が功名心にかられて大火を起こしたとする見方もある<ref name=GUO />。 |
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岳州陥落の報により混乱状態に陥っていた<ref name=t1 >[[タイムズ|ロンドン・タイムズ紙]] 1938年11月14日、12頁</ref>長沙市では、日本軍が長沙に迫ったとの噂が流れており、地方軍警もこの噂に惑わされたことが事件の契機となった<ref name=KCKJ>『简明中国近现代史词典』中国青年出版社、1985年、587頁</ref><ref name=d51>同盟旬報 第二巻第三十二号十一月三十日発行(No.51) 昭和十三年十一月中旬号、17-18頁</ref>とも言われる。 |
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火災は3日3晩続き<ref name=KCHJ />、長い歴史を持つ都市だった長沙は廃墟と化し、文化遺産のほとんどを失った<ref name=KCHJ />。焼死者は2万人以上<ref name=KCHJ /><ref name=CKHJ>『中国近百年史辞典』湖北人民出版社、1985年、49頁</ref><ref name=CKJ>『中国革命辞典』档案出版社、[[1988年]]、301頁 ISBN 7-80019-054-4</ref>、あるいは3万人以上<ref name=KCKJ />と言われる。 |
火災は3日3晩続き<ref name=KCHJ />、長い歴史を持つ都市だった長沙は廃墟と化し、文化遺産のほとんどを失った<ref name=KCHJ />。焼死者は2万人以上<ref name=KCHJ /><ref name=CKHJ>『中国近百年史辞典』湖北人民出版社、1985年、49頁</ref><ref name=CKJ>『中国革命辞典』档案出版社、[[1988年]]、301頁 ISBN 7-80019-054-4</ref>、あるいは3万人以上<ref name=KCKJ />と言われる。 |
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周恩来は焼死したものと思われていたが、就寝中家が猛火に包まれたものの辛うじて逃れたことが11月20日に判明した。中華民国中央政府は救済費として100万元<ref>同盟旬報 第二巻第三十五号十二月三十日発行(No.54) 昭和十三年十二月中旬号、14頁</ref>を支出すると共に軍警を派遣して治安の維持を図り、一方軍事委員会政治部長[[陳誠]]は政治工作員70名を派遣し、善後処理に当った<ref name=d51 />。 |
周恩来は焼死したものと思われていたが、就寝中家が猛火に包まれたものの辛うじて逃れたことが11月20日に判明した。中華民国中央政府は救済費として100万元<ref>同盟旬報 第二巻第三十五号十二月三十日発行(No.54) 昭和十三年十二月中旬号、14頁</ref>を支出すると共に軍警を派遣して治安の維持を図り、一方軍事委員会政治部長[[陳誠]]は政治工作員70名を派遣し、善後処理に当った<ref name=d51 />。蔣介石主導により地方役人3名(長沙警備司令酆悌、警備二団団長徐昆、及び警察局長文重孚)が責任を問われ処刑されたが、張治中への処分は軽いものとなった(なお、張治中は[[ソ連]]の[[スパイ]]疑惑もあった)。 |
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当時の海外メディアは、国民党軍がそれまでの焦土作戦によっても日本軍による広東などの占領阻止に成功していなかったことから、焦土作戦では日本軍の進撃を阻止することができないことは明らかとし、焦土作戦を続行することの誤りを指摘した。 |
当時の海外メディアは、国民党軍がそれまでの焦土作戦によっても日本軍による広東などの占領阻止に成功していなかったことから、焦土作戦では日本軍の進撃を阻止することができないことは明らかとし、焦土作戦を続行することの誤りを指摘した。 |
2020年9月15日 (火) 13:53時点における版
長沙大火(ちょうさたいか)は日中戦争中の1938年11月13日午前2時、湖南省長沙において中国国民党軍によって起された放火事件である。中国語では文夕大火(ぶんせきたいか)とも呼ばれる。人口50万の都市であった長沙は、火災により市街地のほとんどを焼失した。
目的は日本軍に対して一物も与えないための焦土作戦(堅壁清野)とする見方が一般的だが、この時期に日本軍は長沙に進攻することはなかったため、一部には中国共産党幹部であった周恩来らの暗殺を目的としていたとする見方もある[1]。
背景
国民党軍は焦土作戦のため長沙市の破壊を準備していた[1]。また事件の際には中国共産党の領袖・周恩来が葉剣英、郭沫若[2]らとともに長沙に滞在していた。
蔣介石は、日本軍が漢口・広東鉄道沿線の戦略的拠点である岳州を短期間で攻略したことから、慌てて焦土作戦を指示し、張治中が実行したと伝えられている[3]。また、張が功名心にかられて大火を起こしたとする見方もある[2]。
岳州陥落の報により混乱状態に陥っていた[4]長沙市では、日本軍が長沙に迫ったとの噂が流れており、地方軍警もこの噂に惑わされたことが事件の契機となった[5][6]とも言われる。
事件の経過
11月12日には長沙飛行場の破壊も開始された[6]。長沙の火災は強風により城内一帯に燃え広がった。この際に郭沫若は放火をしている兵から張治中の命令によって放火していることを確認している[2]。地方政府の役人は逃げ去り、住民の不安はさらに増した。英国の揚子江艦隊に所属する砲艦サンドパイパー(Sandpiper, 排水量185トン)は避難する外国人保護のために外国人の施設附近に留まった[4]。
事件の影響
火災は3日3晩続き[3]、長い歴史を持つ都市だった長沙は廃墟と化し、文化遺産のほとんどを失った[3]。焼死者は2万人以上[3][7][8]、あるいは3万人以上[5]と言われる。
周恩来は焼死したものと思われていたが、就寝中家が猛火に包まれたものの辛うじて逃れたことが11月20日に判明した。中華民国中央政府は救済費として100万元[9]を支出すると共に軍警を派遣して治安の維持を図り、一方軍事委員会政治部長陳誠は政治工作員70名を派遣し、善後処理に当った[6]。蔣介石主導により地方役人3名(長沙警備司令酆悌、警備二団団長徐昆、及び警察局長文重孚)が責任を問われ処刑されたが、張治中への処分は軽いものとなった(なお、張治中はソ連のスパイ疑惑もあった)。
当時の海外メディアは、国民党軍がそれまでの焦土作戦によっても日本軍による広東などの占領阻止に成功していなかったことから、焦土作戦では日本軍の進撃を阻止することができないことは明らかとし、焦土作戦を続行することの誤りを指摘した。
脚注
- ^ a b 同盟旬報 第二巻第三十三号十二月十日発行(No.52) 昭和十三年十一月下旬号、12頁
- ^ a b c 郭沫若著、岡崎俊夫訳『抗日戦回想録』ISBN 4122038804
- ^ a b c d 『近代中国百年史辞典』浙江人民出版社、1987年、147頁
- ^ a b ロンドン・タイムズ紙 1938年11月14日、12頁
- ^ a b 『简明中国近现代史词典』中国青年出版社、1985年、587頁
- ^ a b c 同盟旬報 第二巻第三十二号十一月三十日発行(No.51) 昭和十三年十一月中旬号、17-18頁
- ^ 『中国近百年史辞典』湖北人民出版社、1985年、49頁
- ^ 『中国革命辞典』档案出版社、1988年、301頁 ISBN 7-80019-054-4
- ^ 同盟旬報 第二巻第三十五号十二月三十日発行(No.54) 昭和十三年十二月中旬号、14頁
関連項目
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