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兄たちに比べ謙虚な性格であり、父に最も似ていると言われた。一方で周囲の人間からは、表面上の穏健さとは裏腹な[[陰湿]]さを指摘されている。
兄たちに比べ謙虚な性格であり、父に最も似ていると言われた。一方で周囲の人間からは、表面上の穏健さとは裏腹な[[陰湿]]さを指摘されている。


祖父・介石の希望に従い陸軍学校に進む。ここでも2人の兄とは違って学校の綱紀を守り成績も優秀だったが、訓練中の負傷が元で学校を離れ、[[台湾大学]]に進学する。大学では時の総統の一族ということで、周囲からの注目を集めた。
祖父・介石の希望に従い陸軍学校に進む。ここでも2人の兄とは違って学校の綱紀を守り成績も優秀だったが、訓練中の負傷が元で学校を離れ、[[台湾大学]]に進学する。大学では時の総統の一族ということで、周囲からの注目を集めた。


幼いころから政界の暗部を目の当たりにして育ったこともあり、大学卒業後は実業家の道を選んだ。父・経国は失望を隠せなかったとされるが、結局は息子の意志を尊重した。もっとも息子の友柏のように完全に政界との縁を切ったわけではなく、父の希望で[[中国国民党|国民党]]の中央財務委員にも就任している。実業家としては「総統の息子」というバックボーンとその能力を活かして活躍、政財界の重要なポストを占め、若年ながら高い声望を誇った。
幼いころから政界の暗部を目の当たりにして育ったこともあり、大学卒業後は実業家の道を選んだ。父・経国は失望を隠せなかったとされるが、結局は息子の意志を尊重した。もっとも息子の友柏のように完全に政界との縁を切ったわけではなく、父の希望で[[中国国民党|国民党]]の中央財務委員にも就任している。実業家としては「総統の息子」というバックボーンとその能力を活かして活躍、政財界の重要なポストを占め、若年ながら高い声望を誇った。


[[1985年]]、父の健康状態が悪化すると、財界で長年掛けて築いた地位を捨て父の補佐に当たる。というのも本来後継者候補とされていた2人の兄が、[[#家庭|後述]]するような理由で政界での影響力を失っていたためである。週2回、孝勇は父に公私各種の報告を行った。孝勇の権勢は強まり、「'''影の総統'''(地下總統)」の異名を取る程であった<ref>{{cite web|url=http://books.sina.com/bg/funny/talent/excerpt/sz/rw/2012-03-21/0945296375.html |title=悶聲發大財:地下"總統"蔣孝勇愛情檔案 |publisher=[[新浪]] |author= |date=2012年03月21日 |accessdate=2018年03月22日 |language=zh-CN}}</ref>。
[[1985年]]、父の健康状態が悪化すると、財界で長年掛けて築いた地位を捨て父の補佐に当たる。というのも本来後継者候補とされていた2人の兄が、[[#家庭|後述]]するような理由で政界での影響力を失っていたためである。週2回、孝勇は父に公私各種の報告を行った。孝勇の権勢は強まり、「'''影の総統'''(地下總統)」の異名を取る程であった<ref>{{cite web|url=http://books.sina.com/bg/funny/talent/excerpt/sz/rw/2012-03-21/0945296375.html |title=悶聲發大財:地下"總統"蔣孝勇愛情檔案 |publisher=[[新浪]] |author= |date=2012年03月21日 |accessdate=2018年03月22日 |language=zh-CN}}</ref>。


[[1988年]][[1月13日]]、経国が77歳で死去すると孝勇も中国国民党の中央委員に選ばれ、今後も政界で活躍するかと思われたがその直後に突如出国し、[[カナダ]]に移住してしまった(後にはカナダ国籍を取得している)。
[[1988年]][[1月13日]]、経国が77歳で死去すると孝勇も中国国民党の中央委員に選ばれ、今後も政界で活躍するかと思われたがその直後に突如出国し、[[カナダ]]に移住してしまった(後にはカナダ国籍を取得している)。


その後、父の後継者でもある[[李登輝]]が進めた「一つの中国、一つの台湾」という方針に不満を抱き、[[1996年]]行われた初の[[中華民国総統選挙]]では白票を投じた。また、新聞に寄稿し台湾による中国統一を主張する[[新党 (台湾)|新党]]への投票を呼びかけるなど、活発な政治的活動を行った。しかしこの時、孝勇はすでに[[悪性腫瘍|ガン]]に侵されていた。
その後、父の後継者でもある[[李登輝]]が進めた「一つの中国、一つの台湾」という方針に不満を抱き、[[1996年]]行われた初の[[中華民国総統選挙]]では白票を投じた。また、新聞に寄稿し台湾による中国統一を主張する[[新党 (台湾)|新党]]への投票を呼びかけるなど、活発な政治的活動を行った。しかしこの時、孝勇はすでに[[悪性腫瘍|ガン]]に侵されていた。


同年5月、介石の孫(同じく孫の[[章孝慈]]が先に訪中はしていたが[[桂林]]の母・[[章亜若]]の墓を訪れたとされる<ref>{{cite web|url=http://www.people.com.cn/BIG5/paper68/1312/203694.html |title=身世離奇几經沉浮 攜妻帶子飛抵大陸 蔣家后代回來認祖(獨家報道) |publisher=人民网 |date=2000年8月25日 |accessdate=2018-02-07 |language=zh-TW}}</ref>)として初めて[[中華人民共和国]][[浙江省]][[奉化市]]の故地で家の墓を訪れ<ref name=china091122>{{cite web|url=http://www.chinanews.com/cul/news/2009/11-22/1977342.shtml |title=介石子孙回乡路:毛泽东下令保护宅(图) |publisher=中国新闻网 |author=中新网 |date=2009年11月22日 |accessdate=2018年02月07日 |language=zh-CN}}</ref>、同[[12月22日]]、[[食道癌|食道ガン]]のため台北の病院でその48年の生涯を閉じた。すでに2人の兄も死去しており、これによって経国と方良の間に生まれた3人の息子はこれで全員この世を去った。
同年5月、介石の孫(同じく孫の[[章孝慈]]が先に訪中はしていたが[[桂林]]の母・[[章亜若]]の墓を訪れたとされる<ref>{{cite web|url=http://www.people.com.cn/BIG5/paper68/1312/203694.html |title=身世離奇几經沉浮 攜妻帶子飛抵大陸 蔣家后代回來認祖(獨家報道) |publisher=人民网 |date=2000年8月25日 |accessdate=2018-02-07 |language=zh-TW}}</ref>)として初めて[[中華人民共和国]][[浙江省]][[奉化市]]の故地で家の墓を訪れ<ref name=china091122>{{cite web|url=http://www.chinanews.com/cul/news/2009/11-22/1977342.shtml |title=介石子孙回乡路:毛泽东下令保护宅(图) |publisher=中国新闻网 |author=中新网 |date=2009年11月22日 |accessdate=2018年02月07日 |language=zh-CN}}</ref>、同[[12月22日]]、[[食道癌|食道ガン]]のため台北の病院でその48年の生涯を閉じた。すでに2人の兄も死去しており、これによって経国と方良の間に生まれた3人の息子はこれで全員この世を去った。


== 家族 ==
== 家族 ==
祖父母の[[介石]]・[[宋美齢]]に非常に愛され、介石が満面の[[笑み]]で幼い彼を抱いた[[写真]]が残っている。
祖父母の[[介石]]・[[宋美齢]]に非常に愛され、介石が満面の[[笑み]]で幼い彼を抱いた[[写真]]が残っている。


同母兄弟の内、長兄の[[孝文]]はアメリカ留学後、党の幹部となっていたが遺伝性の[[糖尿病|糖尿]]と過度の飲酒により[[1970年]]に35歳で病に倒れ、以後[[1989年]]の死まで寝たきり状態であった。そのため次兄の[[孝武]]が後継者と見做されていたが、彼は[[江南事件]]([[1984年]]、国民党の内情を暴露しようとした作家の[[劉宜良]](江南)が暗殺された事件)の黒幕とされ、また行状も悪かったためその座を追われた。彼もまた[[1991年]]、46歳で亡くなっている。
同母兄弟の内、長兄の[[孝文]]はアメリカ留学後、党の幹部となっていたが遺伝性の[[糖尿病|糖尿]]と過度の飲酒により[[1970年]]に35歳で病に倒れ、以後[[1989年]]の死まで寝たきり状態であった。そのため次兄の[[孝武]]が後継者と見做されていたが、彼は[[江南事件]]([[1984年]]、国民党の内情を暴露しようとした作家の[[劉宜良]](江南)が暗殺された事件)の黒幕とされ、また行状も悪かったためその座を追われた。彼もまた[[1991年]]、46歳で亡くなっている。


陸軍学校在学中に後の妻となる[[方智怡|方智怡]]と[[恋]]に落ち、[[1973年]][[7月23日]]に結婚した。2人の間には[[友柏]]、[[友常]]、[[友青]]の三男が生まれている。妻の方智怡は現在国民党中央常務委員を務める政治家、友柏・友常の兄弟は実業家である。中でも方智怡は介石父子の亡骸の台湾島内での移葬を拒否して中国浙江省の故郷に帰葬することを求め<ref>{{Cite web|url=
陸軍学校在学中に後の妻となる[[方智怡|方智怡]]と[[恋]]に落ち、[[1973年]][[7月23日]]に結婚した。2人の間には[[友柏]]、[[友常]]、[[友青]]の三男が生まれている。妻の方智怡は現在国民党中央常務委員を務める政治家、友柏・友常の兄弟は実業家である。中でも方智怡は介石父子の亡骸の台湾島内での移葬を拒否して中国浙江省の故郷に帰葬することを求め<ref>{{Cite web|url=
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== 系図 ==
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== 出典 ==
== 出典 ==

2020年9月15日 (火) 13:52時点における版

蔣 孝勇
プロフィール
出生: 1948年10月
死去: 1996年12月22日
出身地: 中華民国の旗 中華民国上海
職業: 政治家・実業家
各種表記
繁体字 蔣孝勇
簡体字 蔣孝勇
拼音 Jiǎng Xiàoyǒng
和名表記: しょう こうゆう
発音転記: ジャン シャオヨン
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蔣 孝勇(しょう こうゆう)は、中華民国の実業家、政治家。蔣経国蔣方良の三男。同母兄姉に蔣孝文蔣孝武蔣孝章。異母兄に蔣孝厳(現・台湾立法委員)と章孝慈がある。蔣友柏は長男にあたる。

人物

国共内戦中の上海に生まれ、生後間もなく家族とともに台湾への移住を余儀なくされた。

兄たちに比べ謙虚な性格であり、父に最も似ていると言われた。一方で周囲の人間からは、表面上の穏健さとは裏腹な陰湿さを指摘されている。

祖父・蔣介石の希望に従い陸軍学校に進む。ここでも2人の兄とは違って学校の綱紀を守り成績も優秀だったが、訓練中の負傷が元で学校を離れ、台湾大学に進学する。大学では時の総統の一族ということで、周囲からの注目を集めた。

幼いころから政界の暗部を目の当たりにして育ったこともあり、大学卒業後は実業家の道を選んだ。父・蔣経国は失望を隠せなかったとされるが、結局は息子の意志を尊重した。もっとも息子の蔣友柏のように完全に政界との縁を切ったわけではなく、父の希望で国民党の中央財務委員にも就任している。実業家としては「総統の息子」というバックボーンとその能力を活かして活躍、政財界の重要なポストを占め、若年ながら高い声望を誇った。

1985年、父の健康状態が悪化すると、財界で長年掛けて築いた地位を捨て父の補佐に当たる。というのも本来後継者候補とされていた2人の兄が、後述するような理由で政界での影響力を失っていたためである。週2回、蔣孝勇は父に公私各種の報告を行った。蔣孝勇の権勢は強まり、「影の総統(地下總統)」の異名を取る程であった[1]

1988年1月13日、蔣経国が77歳で死去すると蔣孝勇も中国国民党の中央委員に選ばれ、今後も政界で活躍するかと思われたがその直後に突如出国し、カナダに移住してしまった(後にはカナダ国籍を取得している)。

その後、父の後継者でもある李登輝が進めた「一つの中国、一つの台湾」という方針に不満を抱き、1996年行われた初の中華民国総統選挙では白票を投じた。また、新聞に寄稿し台湾による中国統一を主張する新党への投票を呼びかけるなど、活発な政治的活動を行った。しかしこの時、蔣孝勇はすでにガンに侵されていた。

同年5月、蔣介石の孫(同じく孫の章孝慈が先に訪中はしていたが桂林の母・章亜若の墓を訪れたとされる[2])として初めて中華人民共和国浙江省奉化市の故地で蔣家の墓を訪れ[3]、同12月22日食道ガンのため台北の病院でその48年の生涯を閉じた。すでに2人の兄も死去しており、これによって蔣経国と蔣方良の間に生まれた3人の息子はこれで全員この世を去った。

家族

祖父母の蔣介石宋美齢に非常に愛され、蔣介石が満面の笑みで幼い彼を抱いた写真が残っている。

同母兄弟の内、長兄の蔣孝文はアメリカ留学後、党の幹部となっていたが遺伝性の糖尿と過度の飲酒により1970年に35歳で病に倒れ、以後1989年の死まで寝たきり状態であった。そのため次兄の蔣孝武が後継者と見做されていたが、彼は江南事件1984年、国民党の内情を暴露しようとした作家の劉宜良(江南)が暗殺された事件)の黒幕とされ、また行状も悪かったためその座を追われた。彼もまた1991年、46歳で亡くなっている。

陸軍学校在学中に後の妻となる方智怡に落ち、1973年7月23日に結婚した。2人の間には蔣友柏蔣友常蔣友青の三男が生まれている。妻の方智怡は現在国民党中央常務委員を務める政治家、蔣友柏・蔣友常の兄弟は実業家である。中でも方智怡は蔣介石父子の亡骸の台湾島内での移葬を拒否して中国浙江省の故郷に帰葬することを求め[4]、蔣友柏は蔣家の過去の行いを批判するなど、ともに政治的発言が話題になっていることで知られている。

系図

 
 
蔣肇聡中国語版
 
王采玉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蔣介卿
 
蔣介石
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
毛福梅
 
 
姚冶誠
 
 
陳潔如
 
 
宋美齢
 
 
 
 
 
戴季陶
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蔣方良
 
蔣経国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
章亜若
 
蔣緯国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蔣孝文中国語版
 
蔣孝章中国語版
 
蔣孝武中国語版
 
蔣孝勇
 
方智怡中国語版
 
章孝慈中国語版
 
蔣孝厳
 
黄美倫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林姮怡中国語版
 
蔣友柏蔣友常中国語版蔣友青中国語版
 
 
 
 
 
蔣蕙蘭中国語版蔣蕙筠蔣万安
 

出典

  1. ^ 悶聲發大財:地下"總統"蔣孝勇愛情檔案” (中国語). 新浪 (2012年3月21日). 2018年3月22日閲覧。
  2. ^ 身世離奇几經沉浮 攜妻帶子飛抵大陸 蔣家后代回來認祖(獨家報道)” (中国語). 人民网 (2000年8月25日). 2018年2月7日閲覧。
  3. ^ 中新网 (2009年11月22日). “蔣介石子孙回乡路:毛泽东下令保护蔣宅(图)” (中国語). 中国新闻网. 2018年2月7日閲覧。
  4. ^ 蔣介石の遺体、大陸の故郷へ?遺族が島内での移葬を拒否―台湾” (2007年12月14日). 2018年2月7日閲覧。

参考